胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
481 / 751
八章

しおりを挟む
「アスカさんの心に、ぽっかり穴があいているみたいで――」
 麗らかな春の陽射しをコンサバトリーのガラスが反射して、きらきらしい。眩しさに目を眇めるアレンは、そんな景色にそぐわない沈んだ調子で呟いた。
「どうしてかな……。クリスマスに来たときは、寂しそうだったけれどああじゃなかった気がします」
 向かいのベンチに腰かける兄に、アレンは遠慮がちに見つめている。だがヘンリーは、上半身を捻り、背後の背もたれに頬杖をついて蜂蜜色の館をぼんやりと眺めているだけだ。

 返事のない静けさに、アレンの戸惑いだけがゆるりとした空気に混じり漂っている。

 しばらくすると、ヘンリーはアレンに向き直り、「彼はあれで普通だよ。寂しいが吹っ切れて普段の自分を取り戻したんだ」と、目を細めてふわりと微笑んだ。そしておもむろに煙草を取りだす。
「かまわない?」
「あ、はい」
 やがて漂ってきた強い香りに、アレンは身体の位置を変えた。

 ヘンリーの吐くため息にも似た息が、白煙とともに春風に舞う。

 木立の奥に聴こえる鳥のさえずりも葉擦れの音も、この兄を前にしては、いつものようにアレンを寛がせてはくれない。続かない会話に焦りを感じ、彼はちらちらと兄の様子を伺い見ながら、いくら待っても来てはくれない飛鳥を、若干の恨みのこめながら心の中で何度も呼んでいる。

「それで、アスカは何て?」
「え?」
「昨日」
「あ、はい――。気にいらないから、もっとイメージを膨らませる要素を付け加えてみるって、仰っていました」
「そう。それなら、まだまだかかるのかな」
 ヘンリーは深くため息をついている。
「つまらないな。彼はこうなるとちっともかまってくれなくなるからね。話しかけても上の空だし、一生懸命説明してくれているときだって、どこを見ているのか判らない遠い眼をしているし――。僕のことなんて眼中に入らなくなるんだ」

 唇を尖らせているヘンリーを、アレンは大きく目を見開いて、きょとんと見つめている。

「――あなたでも、そんなふうに思われることがあるのですね」
「お前まで、僕のことをマキャベリ片手に支配を固める専制君主だ、なんて言いだすのじゃないだろうね」

 軽く眉根を寄せたヘンリーに、アレンは慌てて頭を横に振る。

「ヨシノも同じだよ。あの兄弟、本当によく似ているよね。僕は確かに彼らの目の前にいるのに、彼らの意識は宇宙の彼方に飛んでいるんだ。僕からしてみれば、あの二人、まったくもって宇宙人だよ」

 憤慨している様にも見えるヘンリーに、アレンはますます目を丸くしている。

「あの二人が設計している時なんて、僕に立ち入れる隙なんて爪の先ほどさえもないんだ……。英語でも日本語でもなくて、数式で語りあう――、なんてサラくらいのものだと思っていたのに、世界は広いよね」

 この兄がアレンに愚痴を零すなど、初めてのことだった。アレンは心臓をどぎまぎさせながら頭の中を引っ掻き回して、返すべき言葉を探していた。

「本当に、何をしているのだろうね……」

 ヘンリーの視線の先、コンサバトリーのガラス壁の内側で、飛鳥は立ったり座ったりぐるぐる歩き回ったり。じっとしていない彼を目で追いながら、今度はクスクスと笑いだした兄を見つめ、ああ、返事なんていらないのか、とアレンの口許からも笑みが溢れる。

 兄の願いは、マキャベリ片手に世界戦略を練ることではなく、常に新しいものを創りだそうする飛鳥が安心してのたうち回れる場所を守ること。その場所がここにあるからこそ、吉野は安心して飛鳥を残して旅立つことができるのなら、アレンが吉野に対してできる事は、今まで彼がしてきた様に、少しでも飛鳥の制作の助けになるように務めることなのかもしれない――。

 自分が吉野を想ってヤキモキするのと同じように、兄もまた飛鳥に振り回されている様にも見え、アレンは初めて、この遠い空の上の存在であった兄に親近感を覚えた。だが、彼にとって、自分と彼の兄との決定的な違いは、ヘンリーは、それすらも楽しんでいるように見える、ということだった。




 やがて緩やかな斜面を息を弾ませて上ってきた飛鳥を、ヘンリーは立ちあがって東屋から迎えでた。

「煮詰まっちゃって……」
「君の頭の中も、少し風を通した方が良さそうだね。あまり根を詰め過ぎるのも良くないよ」

 かすかな苦笑に混ぜて吐息を漏らしたヘンリーの手前で、飛鳥は芝生に寝転がっている。

「ヘンリー、今日はいい風が吹いているね」

 飛鳥は空に向かって腕を伸ばす。

「自然はこんなに美しいのに、僕はいったい何をしているんだろう?」

 横に腰かけたヘンリーに、飛鳥は微笑みかけて訊ねた。

「きみも空の青さに憧れたことがある? どこまでも透明に広がっていきたいと思ったことがある?」
「きみを見ていると不安になるよ、この空に溶けてしまいそうで」
「まさか!」
 飛鳥は声を立てて笑った。
「やっぱりきみはロマンチストだね。マキャベリよりもキーツが似合う」
「そんな事を言うのはきみくらいだよ。きみの方こそ、地下を、そして海底をも放浪して天空に飛びたつエンディミオンじゃないか」

 急に飛鳥は顔を赤く染めて、ごろりとうつ伏せに寝返った。ヘンリーは、はっと表情を強ばらせてあらぬ方向へ視線を逸らす。そして、そのまま宙を睨んでいる。

 急にぎこちなくなった二人を東屋から眺めていたアレンは、訝しげに顔を傾げ、「アスカさん!」と声を高めて飛鳥を呼んだ。

「どの樹がソメイヨシノか教えて下さい」
「ОK!」

 弾かれたように立ちあがり東屋に走る飛鳥を、ヘンリーは追わなかった。



 満開の桜の植えられた一帯をそぞろ歩きながら、アレンは努めてさり気なく飛鳥に訊ねてみた。

「エンディミオンって何ですか?」
「さっきの話?」
「ごめんなさい。兄は何にアスカさんを例えたのかな、って気になってしまって」
「謝るようなことじゃないよ。エンディミオン は、ギリシャ神話をモチーフにしたジョン・キーツの詩だよ」
「キーツの詩――」


 それ以上この話題は避けるかのように唇を結んで、飛鳥は、突風に煽られ、舞う、薄紅色の吹雪を目を眇めて眺めていた。





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...