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八章
3
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「アスカ、」
かなり間をおいて、呼ばれた本人は「ん?」と気のぬけた返事をする。サラの呆れたような視線を背中に感じ、飛鳥はしゃっきりと背筋を伸ばした。静まりかえったコンピューター室では、わずかな動作や衣擦れの音でさえもが、耳につく。
「何かな?」
笑みを湛えて振り返る。サラは小さく吐息を漏らした。
「パリの企画はできた? フランクフルトはどうするの?」
「あー、うん。そうだね、」
口篭る飛鳥に、サラはライムグリーンの瞳に力をこめて唇を尖らせる。
「ヘンリーが帰ってくるわよ」
「そうだね……」
上の空で、またぼんやりと真っ黒な画面を見つめている飛鳥だった。その反応のつれなさに怒ったのか、サラは眉根を寄せてくるりと回転椅子をまわすと、コンピューターの前から立ちあがった。
「ごめん。できてるよ。スケッチもデヴィに描いてもらってる」
飛鳥は、慌ててキーボードを叩いて画面を呼びだす。
「本当、ごめん。今、組み立てていたからさ」
「――頭の中で?」
申し訳ないと神妙に頷く飛鳥に、サラの語調も和らいでクスッと笑みが零れる。愛らしい唇の横にできた笑くぼに、つい目がいってしまった飛鳥は、ぱっと目を逸らして天井を睨んだ。
「アレンはいつ戻ってくるんだっけ? 撮影はどうするんだろうね。サラは何か聴いていない?」
今度は打って変わった真面目な顔で尋ねられ、サラは急いで首を振った。
「何も。アレンに訊いて。そろそろ着くはずだから」
「ん」
飛鳥の瞳はまた眼前の画面上に戻り、そこに表示したばかりのラフスケッチを展開させてゆく。傍らに立つサラが上半身を屈めて画面を覗きこむと、長いお下げ髪が滑り落ちて飛鳥の腕に当たった。
とたんに勢いよく立ちあがった飛鳥に驚いて、サラは小さく悲鳴をあげた。
「あ、ごめん」
「アスカ、これは何のモチーフなの?」
サラは、おたおたと謝る飛鳥の反応は気にする様子もなく、画面を指差し、大きな瞳で不思議そうに尋ねていた。
「童話だよ。サラは知らないかな? この御伽噺」
飛鳥は、軽く身を屈めてマウスを握り、画面を切り替えていった。画面の中に、簡単な線画ではあるものの、繊細で美しいスケッチ画の物語が紙芝居を一枚一枚捲るように展開していく。
「子どものためのナンセンスなお話?」
「うわ、身も蓋もない言い方だな! 御伽噺って、夢と郷愁がたっぷりと詰まった砂糖菓子みたいなものだよ」
本心から驚いているような飛鳥に対してなのか、サラは露骨に顔をしかめている。
「食べ物には見えない」
飛鳥は困った顔で苦笑するしかない。
「その言い方、吉野みたいだ。あいつもこういう言い方すると、てんで伝わらないんだ――。つまりね、子どもの頃の懐かしい、楽しい思い出を呼び起こしすもの、ってこと。子どもが一日のうちで一番楽しみにしているおやつをもらうような、ドキドキやワクワクで一杯だった頃の記憶を揺さぶるお話だよ、解るかな?」
サラは、ちょっと口をすぼめて小首を傾げる。
「ファッジを貰った時の記憶を思いだすための、スイッチ?」
「多分ね、それであっていると思うよ。そうだ、――アレン、もう着くんだろう? 下で待っているよ。きみは?」
「後で。これを見終わってから下りる」
「かなり量があるよ。まだラフだから」
頷いたサラの両眼は、マウスを握る指先の刻むリズムに合わせてじっと画面を追っている。
「じゃあ、また後で」
そう伝えた飛鳥の言葉も、もう彼女の耳には入っていないようだった。
「サラ、」
部屋から出ようとしたところで、飛鳥はふと思いだしたように声を高めてサラを呼んだ。振り返った彼女に、無理に作ったような笑顔を浮かべて訊ねる。
「ヘンリーが学校に通っていた頃ね、彼がいない毎日を、きみはどんな想いですごしてたの? 休暇が来るのを指折り数えて待ってたの?」
サラは無表情のまま、首を横に振った。
「ヘンリーが帰ってきたらたくさんお話してあげられる様に、いろんな事を学んでいたわ。だから毎日とても忙しかった」
「寂しくなかった?」
「今の方が寂しい。同じ家に住んでいても話をする暇もないもの」
「ごめん」
「どうしてアスカが謝るの?」
「僕が不甲斐ないから。会社がこんなに忙しいっていうのに、大して役にも立たなくて――」
「それはアスカの役目じゃない」
サラの返事に、飛鳥はふわりと微笑んだ。
「あ、帰ってきたみたいだ。きみの分もお茶を頼んでおくね」
飛鳥が階段を下りてみると、ちょうど玄関に続く廊下で、アレンはマーカスと話ているところだった。学校帰りのそのままの姿だ。黒いローブをふわりと脱いでいるところだった。燕尾服に灰色のウエストコート。灰色のトラウザーズ――。
つい飛鳥はその場に立ち止まり、懐かしそうに目を細めて彼を見つめた。
「お帰り、アレン。きみのこと、ヘンリーと見間違えたよ」
アレンの振り向いた面に、ぱぁっと花が咲くような笑みが広がる。
「戻りました、アスカさん。僕は兄に似てきましたか? 最近、よく言われるんです」
「うん。ヘンリーもウイスタンで灰色のウエストコートだった。普段は違うんだけどね、セレモニーの時は、うちでもエリオットみたいに燕尾服を着てたんだよ。あの頃のヘンリーがいるみたいだよ」
ふふ、とアレンは柔らかな笑みを浮かべている。そんなふうに言われることが、嬉しくて堪らないように。だがアレンは、唇の前に人差し指を立てて悪戯っ子のように声を低めた。
「兄には内緒ですよ。僕のコピーはいらない、って怒られますから」
「兄弟なんだから、似ていて当然なのにね」
飛鳥もくしゃりと笑った。
「きみはきみで、ヘンリーはヘンリーだよ。似ているけれど全然違う」
「ありがとうございます。そのどちらも嬉しいです。似ている、って言われるのも、違う、って言われるのも。今はやっぱり自分の中に、兄に似たところを見つけて安心したくて――。でも、自分らしくも在りたくて――、ぐらぐらなんですよ」
そんなことを口にしながらも、アレンには気負ったところは欠片もない。しなやかで、たおやかな若木のようだ。
外見ではなく、中身が似ているんだ――。
弱音を吐かない強さ。笑みを絶やさない強さ。
信じているから?
肩を並べて居間へ移る。それからマーカスの淹れてくれたお茶を飲む。何度となく繰り返されてきた休暇の度の習慣のなかで、飛鳥は、自分だけが取り残されているような焦燥感を感じていた。
目の前に座るアレンをヘンリーと重ね、同じように、自分とは重ならない吉野に想いを馳せながら――。
かなり間をおいて、呼ばれた本人は「ん?」と気のぬけた返事をする。サラの呆れたような視線を背中に感じ、飛鳥はしゃっきりと背筋を伸ばした。静まりかえったコンピューター室では、わずかな動作や衣擦れの音でさえもが、耳につく。
「何かな?」
笑みを湛えて振り返る。サラは小さく吐息を漏らした。
「パリの企画はできた? フランクフルトはどうするの?」
「あー、うん。そうだね、」
口篭る飛鳥に、サラはライムグリーンの瞳に力をこめて唇を尖らせる。
「ヘンリーが帰ってくるわよ」
「そうだね……」
上の空で、またぼんやりと真っ黒な画面を見つめている飛鳥だった。その反応のつれなさに怒ったのか、サラは眉根を寄せてくるりと回転椅子をまわすと、コンピューターの前から立ちあがった。
「ごめん。できてるよ。スケッチもデヴィに描いてもらってる」
飛鳥は、慌ててキーボードを叩いて画面を呼びだす。
「本当、ごめん。今、組み立てていたからさ」
「――頭の中で?」
申し訳ないと神妙に頷く飛鳥に、サラの語調も和らいでクスッと笑みが零れる。愛らしい唇の横にできた笑くぼに、つい目がいってしまった飛鳥は、ぱっと目を逸らして天井を睨んだ。
「アレンはいつ戻ってくるんだっけ? 撮影はどうするんだろうね。サラは何か聴いていない?」
今度は打って変わった真面目な顔で尋ねられ、サラは急いで首を振った。
「何も。アレンに訊いて。そろそろ着くはずだから」
「ん」
飛鳥の瞳はまた眼前の画面上に戻り、そこに表示したばかりのラフスケッチを展開させてゆく。傍らに立つサラが上半身を屈めて画面を覗きこむと、長いお下げ髪が滑り落ちて飛鳥の腕に当たった。
とたんに勢いよく立ちあがった飛鳥に驚いて、サラは小さく悲鳴をあげた。
「あ、ごめん」
「アスカ、これは何のモチーフなの?」
サラは、おたおたと謝る飛鳥の反応は気にする様子もなく、画面を指差し、大きな瞳で不思議そうに尋ねていた。
「童話だよ。サラは知らないかな? この御伽噺」
飛鳥は、軽く身を屈めてマウスを握り、画面を切り替えていった。画面の中に、簡単な線画ではあるものの、繊細で美しいスケッチ画の物語が紙芝居を一枚一枚捲るように展開していく。
「子どものためのナンセンスなお話?」
「うわ、身も蓋もない言い方だな! 御伽噺って、夢と郷愁がたっぷりと詰まった砂糖菓子みたいなものだよ」
本心から驚いているような飛鳥に対してなのか、サラは露骨に顔をしかめている。
「食べ物には見えない」
飛鳥は困った顔で苦笑するしかない。
「その言い方、吉野みたいだ。あいつもこういう言い方すると、てんで伝わらないんだ――。つまりね、子どもの頃の懐かしい、楽しい思い出を呼び起こしすもの、ってこと。子どもが一日のうちで一番楽しみにしているおやつをもらうような、ドキドキやワクワクで一杯だった頃の記憶を揺さぶるお話だよ、解るかな?」
サラは、ちょっと口をすぼめて小首を傾げる。
「ファッジを貰った時の記憶を思いだすための、スイッチ?」
「多分ね、それであっていると思うよ。そうだ、――アレン、もう着くんだろう? 下で待っているよ。きみは?」
「後で。これを見終わってから下りる」
「かなり量があるよ。まだラフだから」
頷いたサラの両眼は、マウスを握る指先の刻むリズムに合わせてじっと画面を追っている。
「じゃあ、また後で」
そう伝えた飛鳥の言葉も、もう彼女の耳には入っていないようだった。
「サラ、」
部屋から出ようとしたところで、飛鳥はふと思いだしたように声を高めてサラを呼んだ。振り返った彼女に、無理に作ったような笑顔を浮かべて訊ねる。
「ヘンリーが学校に通っていた頃ね、彼がいない毎日を、きみはどんな想いですごしてたの? 休暇が来るのを指折り数えて待ってたの?」
サラは無表情のまま、首を横に振った。
「ヘンリーが帰ってきたらたくさんお話してあげられる様に、いろんな事を学んでいたわ。だから毎日とても忙しかった」
「寂しくなかった?」
「今の方が寂しい。同じ家に住んでいても話をする暇もないもの」
「ごめん」
「どうしてアスカが謝るの?」
「僕が不甲斐ないから。会社がこんなに忙しいっていうのに、大して役にも立たなくて――」
「それはアスカの役目じゃない」
サラの返事に、飛鳥はふわりと微笑んだ。
「あ、帰ってきたみたいだ。きみの分もお茶を頼んでおくね」
飛鳥が階段を下りてみると、ちょうど玄関に続く廊下で、アレンはマーカスと話ているところだった。学校帰りのそのままの姿だ。黒いローブをふわりと脱いでいるところだった。燕尾服に灰色のウエストコート。灰色のトラウザーズ――。
つい飛鳥はその場に立ち止まり、懐かしそうに目を細めて彼を見つめた。
「お帰り、アレン。きみのこと、ヘンリーと見間違えたよ」
アレンの振り向いた面に、ぱぁっと花が咲くような笑みが広がる。
「戻りました、アスカさん。僕は兄に似てきましたか? 最近、よく言われるんです」
「うん。ヘンリーもウイスタンで灰色のウエストコートだった。普段は違うんだけどね、セレモニーの時は、うちでもエリオットみたいに燕尾服を着てたんだよ。あの頃のヘンリーがいるみたいだよ」
ふふ、とアレンは柔らかな笑みを浮かべている。そんなふうに言われることが、嬉しくて堪らないように。だがアレンは、唇の前に人差し指を立てて悪戯っ子のように声を低めた。
「兄には内緒ですよ。僕のコピーはいらない、って怒られますから」
「兄弟なんだから、似ていて当然なのにね」
飛鳥もくしゃりと笑った。
「きみはきみで、ヘンリーはヘンリーだよ。似ているけれど全然違う」
「ありがとうございます。そのどちらも嬉しいです。似ている、って言われるのも、違う、って言われるのも。今はやっぱり自分の中に、兄に似たところを見つけて安心したくて――。でも、自分らしくも在りたくて――、ぐらぐらなんですよ」
そんなことを口にしながらも、アレンには気負ったところは欠片もない。しなやかで、たおやかな若木のようだ。
外見ではなく、中身が似ているんだ――。
弱音を吐かない強さ。笑みを絶やさない強さ。
信じているから?
肩を並べて居間へ移る。それからマーカスの淹れてくれたお茶を飲む。何度となく繰り返されてきた休暇の度の習慣のなかで、飛鳥は、自分だけが取り残されているような焦燥感を感じていた。
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