474 / 751
八章
7
しおりを挟む
「アスカ」
久しぶりに聞く懐かしい声に顔をあげた飛鳥は、すっかり相好を崩していた。
「ロニー、久しぶり」
白いラグの上に胡座をかいて、つるりと光る青いサテン地クッションを抱えている飛鳥を見つめ、ロレンツォも変わらぬ明るい笑顔を見せる。
「これか? ロンドン本店で話題になっているディスプレイは? ニューヨークとはまるで違うんだな」
好奇心に瞳を輝かせ、ロレンツォは飛鳥の前に浮かぶ三フィートほどの立体映像の都市モデルを覗きこむ。
「吉野は今ここにいるんだよ。だから、ついさ……。ヘンリーも、吉野たちが推進している太陽光発電に技術協力して、提携を結んでくれているんだ。だから、その記念イベントってことでかまわない、て言ってくれたし――」
飛鳥はどこか言い訳するような口調で、もどかしげに笑った。
太陽光発電に使われているソーラーパネルには、『杜月』のガラスが使われているのだ。これも祖父の残した多岐に渡るガラス研究の遺産から開発されたものだ。今、『杜月』のガラスは、アーカシャーHDを通じて世界に販売ルートを広げている。今でこそ、TSの『杜月』といわれるようになったけれど、ガラスの『杜月』であることに変わりはない。
だが、今回飛鳥の作った立体映像は、そんな背景とは関係ないまったくの私情からのものでしかない。純粋に、自身の吉野への思慕を慰めるためのもの――。その後ろめたさが、飛鳥の口調を重く、ぎこちなくしている。
「お前の弟にワシントンであったぞ」
同じように胡座をかいて座ると、ロレンツォはいつも表情豊かな彼らしくない、どこか覚めた瞳を飛鳥に向けた。
「アブド大臣にくっついて、大使館のパーティーにいた。むこうの民族衣裳を着て。すっかり溶けこんでいて、すぐにはあいつだとは判らなかった」と、ロレンツォは大袈裟に肩をすくめてみせたけれど、それは嘘だ。すぐに吉野だと気がついた。どこで遇おうと、あの独特の存在感を見紛うはずがないのだから。
「元気にしてた?」
嬉しそうに顔をほころばした飛鳥に、ロレンツォは苦笑して頷く。
あの弟が何と呼ばれているのか、目前のおっとりとしたこの兄に伝えるのは憚られた。
この飛鳥の弟は、若さという、大概は侮られ誰からも相手にもされない欠点を武器に、ほくそ笑みながら国際舞台に謀略の糸を張り巡らせているのだ。あの、どこかあどけなさの残る、無邪気な笑みを湛えた仮面の下で――。
「ニューヨーク支店にも寄ってきたんだ。向こうの評判も上々だったぞ」
ロレンツォは、話題を変えてにこやかに微笑んだ。彼にとっては、飛鳥が自分に向ける安心しきった笑みこそが、真実価値のあるものだから。
「ロンドンが懐かしくなったよ。だから戻ってきた」
「嬉しいな。あれのおかげで、久しぶりにきみに逢えたのか」
飛鳥は無邪気に笑った。心から。
どことなく面影は重なるのに、こうも印象の異なる兄弟に、ロレンツォは、苦笑と吐息を漏らすしかなかった。
ニューヨーク支店のディスプレイは、薄らと漂う霧に閉ざされたロンドンの町並みだ。赤い煉瓦造りの建物に挟まれた路地を、まるで迷いこんだ黒猫のようなアレンが、時おり現れては空を振り仰ぐ。あのセレストブルーの瞳が不意に、足下から、天井から、自分に向けられる。彼の登場で、若いニューヨーカーの叫び声がいくつもあがる。毎日入場制限をせねばならないほどの熱狂ぶりだ。
あの瞳で、ヘンリーに逢いたくなったのだ。
南米各国と米国を往復するばかりで、ロレンツォは、気がつくとかなり長い間英国を留守にしていた。こうして飛鳥に会うのも一年ぶりになる。
「ヘンリーに似てきたな、こっちの弟は。顔貌は幼い時の方がまだ近いと思えたが、今は雰囲気が似てきている」
「近くにいるからかな。アレンが聞いたらきっと喜ぶよ」
真顔で呟かれたロレンツォの言葉に、飛鳥は少し複雑そうな表情で苦笑する。
こっちの弟は――。
お前の弟は、時が経つにつれ違いが際立っているのに――、飛鳥には、そんなふうに言われた気がした。
ノックの音に、ロレンツォは立ち上がった。ヘンリーが戻ったことを告げにきたマーカスに、軽く頷き返す。
「じゃあな、俺は、お前の作品を見るのを楽しみにしているんだ。頑張れよ」
「ありがとう、ロニー。きみが休みをとれるようなら、一緒にロンドン観光しようよ。ロンドンの町並みを作っているのに、僕はいまだにこの街の観光をしてないんだ」
ロレンツォは、思わずくっと吹きだす。
「ヘンリーに言っておいてやる。お前の会社の福利厚生はどうなっているんだってな」
「それはまずいよ。僕はこれでも肩書きは管理職だよ」
慌てて言いたした飛鳥に、ロレンツォは軽くウインクを返した。
「任せておけ。そこは上手く言っておくさ」
どんなに長く逢わないでいても、昨日別れ、今日再会したように時を繋げる変わらぬ友人を、飛鳥は安堵の笑みで見送った。
こんなふうに穏やかな気持ちではとても見送れない弟のことを思い、飛鳥は苦笑し嘆息する。
眼前に残された、手直し途中の都市映像に映る豆粒ほどの小さな弟の姿を、ピンッと指で弾いてみる。映像を通りぬけた自分の指先の下で、吉野は相変わらず笑っている。
心配するな、というように。寂しがるな、と咎めるように――。
久しぶりに聞く懐かしい声に顔をあげた飛鳥は、すっかり相好を崩していた。
「ロニー、久しぶり」
白いラグの上に胡座をかいて、つるりと光る青いサテン地クッションを抱えている飛鳥を見つめ、ロレンツォも変わらぬ明るい笑顔を見せる。
「これか? ロンドン本店で話題になっているディスプレイは? ニューヨークとはまるで違うんだな」
好奇心に瞳を輝かせ、ロレンツォは飛鳥の前に浮かぶ三フィートほどの立体映像の都市モデルを覗きこむ。
「吉野は今ここにいるんだよ。だから、ついさ……。ヘンリーも、吉野たちが推進している太陽光発電に技術協力して、提携を結んでくれているんだ。だから、その記念イベントってことでかまわない、て言ってくれたし――」
飛鳥はどこか言い訳するような口調で、もどかしげに笑った。
太陽光発電に使われているソーラーパネルには、『杜月』のガラスが使われているのだ。これも祖父の残した多岐に渡るガラス研究の遺産から開発されたものだ。今、『杜月』のガラスは、アーカシャーHDを通じて世界に販売ルートを広げている。今でこそ、TSの『杜月』といわれるようになったけれど、ガラスの『杜月』であることに変わりはない。
だが、今回飛鳥の作った立体映像は、そんな背景とは関係ないまったくの私情からのものでしかない。純粋に、自身の吉野への思慕を慰めるためのもの――。その後ろめたさが、飛鳥の口調を重く、ぎこちなくしている。
「お前の弟にワシントンであったぞ」
同じように胡座をかいて座ると、ロレンツォはいつも表情豊かな彼らしくない、どこか覚めた瞳を飛鳥に向けた。
「アブド大臣にくっついて、大使館のパーティーにいた。むこうの民族衣裳を着て。すっかり溶けこんでいて、すぐにはあいつだとは判らなかった」と、ロレンツォは大袈裟に肩をすくめてみせたけれど、それは嘘だ。すぐに吉野だと気がついた。どこで遇おうと、あの独特の存在感を見紛うはずがないのだから。
「元気にしてた?」
嬉しそうに顔をほころばした飛鳥に、ロレンツォは苦笑して頷く。
あの弟が何と呼ばれているのか、目前のおっとりとしたこの兄に伝えるのは憚られた。
この飛鳥の弟は、若さという、大概は侮られ誰からも相手にもされない欠点を武器に、ほくそ笑みながら国際舞台に謀略の糸を張り巡らせているのだ。あの、どこかあどけなさの残る、無邪気な笑みを湛えた仮面の下で――。
「ニューヨーク支店にも寄ってきたんだ。向こうの評判も上々だったぞ」
ロレンツォは、話題を変えてにこやかに微笑んだ。彼にとっては、飛鳥が自分に向ける安心しきった笑みこそが、真実価値のあるものだから。
「ロンドンが懐かしくなったよ。だから戻ってきた」
「嬉しいな。あれのおかげで、久しぶりにきみに逢えたのか」
飛鳥は無邪気に笑った。心から。
どことなく面影は重なるのに、こうも印象の異なる兄弟に、ロレンツォは、苦笑と吐息を漏らすしかなかった。
ニューヨーク支店のディスプレイは、薄らと漂う霧に閉ざされたロンドンの町並みだ。赤い煉瓦造りの建物に挟まれた路地を、まるで迷いこんだ黒猫のようなアレンが、時おり現れては空を振り仰ぐ。あのセレストブルーの瞳が不意に、足下から、天井から、自分に向けられる。彼の登場で、若いニューヨーカーの叫び声がいくつもあがる。毎日入場制限をせねばならないほどの熱狂ぶりだ。
あの瞳で、ヘンリーに逢いたくなったのだ。
南米各国と米国を往復するばかりで、ロレンツォは、気がつくとかなり長い間英国を留守にしていた。こうして飛鳥に会うのも一年ぶりになる。
「ヘンリーに似てきたな、こっちの弟は。顔貌は幼い時の方がまだ近いと思えたが、今は雰囲気が似てきている」
「近くにいるからかな。アレンが聞いたらきっと喜ぶよ」
真顔で呟かれたロレンツォの言葉に、飛鳥は少し複雑そうな表情で苦笑する。
こっちの弟は――。
お前の弟は、時が経つにつれ違いが際立っているのに――、飛鳥には、そんなふうに言われた気がした。
ノックの音に、ロレンツォは立ち上がった。ヘンリーが戻ったことを告げにきたマーカスに、軽く頷き返す。
「じゃあな、俺は、お前の作品を見るのを楽しみにしているんだ。頑張れよ」
「ありがとう、ロニー。きみが休みをとれるようなら、一緒にロンドン観光しようよ。ロンドンの町並みを作っているのに、僕はいまだにこの街の観光をしてないんだ」
ロレンツォは、思わずくっと吹きだす。
「ヘンリーに言っておいてやる。お前の会社の福利厚生はどうなっているんだってな」
「それはまずいよ。僕はこれでも肩書きは管理職だよ」
慌てて言いたした飛鳥に、ロレンツォは軽くウインクを返した。
「任せておけ。そこは上手く言っておくさ」
どんなに長く逢わないでいても、昨日別れ、今日再会したように時を繋げる変わらぬ友人を、飛鳥は安堵の笑みで見送った。
こんなふうに穏やかな気持ちではとても見送れない弟のことを思い、飛鳥は苦笑し嘆息する。
眼前に残された、手直し途中の都市映像に映る豆粒ほどの小さな弟の姿を、ピンッと指で弾いてみる。映像を通りぬけた自分の指先の下で、吉野は相変わらず笑っている。
心配するな、というように。寂しがるな、と咎めるように――。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた
楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。
この作品はハーメルン様でも掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる