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七章
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「あんまり熱くなるなよ。お前、ヘンリーの事となるとすぐキレる」
カフェテリアから中庭に出るなり、吉野はため息混じりで小言を浴びせ、アレンを小突いた。
「兄は関係ないよ」
唇を尖らせて抗議するアレンに、吉野は表情を和らげてくすりとした笑みを返す。
「まぁ、いいよ。俺も腹が立ったから」
「それで、真面目な話って?」
クリスが好奇心いっぱいの目でそんな二人に割ってはいった。吉野はちらりとサウードの顔を伺う。サウードは判らないほどわずかに首を横に振る。
「ああ、嘘だよ。あの連中が面倒だからさ、さっさと出ようと思っただけだ」
吉野はひょいと肩をすくめてみせた。
「なーんだ」
憮然顔のクリスとは違い、アレンは納得いかない様子で吉野を見つめていたが、何も言わずに視線を伏せていた。
その週末、ロンドンでは――。
突然の吉野とアレンの訪問に、フレデリックがあたふたと円型の疵だらけのテーブル上を片づけながら、椅子を引いて二人に勧めていた。
「来てくれてありがとう。こんなところだけど、とりあえず座って。今、お茶を淹れてくるから」
「別にいいぞ、お茶くらい」
吉野の声にフレデリックは片手をひらひらと振って応えると、キッチンに消えた。
初めて訪問したフレデリックの実家に、吉野もアレンも目を瞠り、言葉を失っている。その戸惑いを敏感な彼は感じとり、心を落ち着かせるための時間を欲したのだ。自分にも、彼らのためにも――。
窓越しに見える橋梁を渡る電車の轟音が響き渡る。
狭い部屋には古ぼけた家具がところ狭しと置かれ、テーブルに着くにも、チェストやテーブル上に置かれた物を落とさないよう、細心の注意を払わなければならないほどだ。くすんだ安っぽいピンクの花柄の壁紙は、天井に近い上方が剥がれて落ちかけている。そして、なんともいえない独特の籠った匂いがする。
これが、彼がエリオットに入るまで育った家なのだ。
やがて運んできたティーセットをテーブルに置き、フレデリックは丁寧にお茶を淹れて二人の前に置く。
「そんな上等の茶葉じゃないんだけれどね」
「学校のカフェテリアよりはマシだろ? あそこはティーバッグだ」
「きみがあまり煩く言うから、僕もお茶だけはちゃんと淹れるようになったよ」
フレデリックは笑いながら椅子をひく。
「学校の方、どう?」
「騒がしいよ」
アレンの控えめな返事に苦笑で応え、フレデリックはカップを口に運ぶ。吉野は単刀直入に質問を切りだした。
「俺が話した以上の内容だったから驚いたよ。あの本のネタ、どこから手に入れたんだ?」
「フランクの日記を見つけたんだ。それに、アーネスト卿にも話を聴いたよ」
フレデリックは静かに微笑み、ちょっと謝るように眉を上げ、二人を見つめた。
「ごめんよ。君たちに迷惑をかけるかとは思ったんだけど。――兄の想いを伝えたくて」
しばらく間を置いて、押し殺すように吉野は呟いた。
「ヘンリーにか?」
フレデリックは黙ったまま頷いた。
「全部、本当?」
アレンの口からも、驚きと戸惑いを含んだ一言が零れ落ちる。
「さすがに、全部じゃないよ」
フレデリックはクスクスと笑った。
「兄は小説みたいにかっこいい人じゃなかったし、そりゃあ、いろいろと脚色してあるよ。でも、綴られている彼への想いは本当」
言いながら、フレデリックは遠くを見るように目を細めた。
「彼に知っておいて欲しかったんだ。いや、彼は、知っていたのかな、って気もする。その気持ちに応えられないから、気づかないふりをしていただけで――。でも、だからこそ、言葉にしてちゃんと伝えたかったんだよ。僕はね、胸の内で漠然と想っている言葉と、言葉として口から発せられるそれは違うと思うんだ」
言葉を切って、フレデリックはいったん紅茶で喉を湿らせた。アレンの瞳をまっすぐに見つめながら。
「強い想いが口から発せられて言葉になる時、言葉はその人の魂を乗せてちゃんと相手に届くと思うんだ。だから、形のある言葉にしたかったんだよ」
「相手を困らせる事になってもか?」
「それでも」
瞼を伏せ、フレデリックは頷いた。
「もうどうにも成りようのない、報われることのない想いだからこそ、きちんと葬って形のある墓標を立てたかった。これって、僕の我がままだね。――ごめんよ、二人とも」
「どうして謝るの?」
アレンの澄んだセレストブルーが、フレデリックに注がれている。
「兄は今でも、フランクの事をとても大切に想っているよ。だって兄は、今でもコーヒーを二杯続けて飲むもの。一杯は自分の分、次の一杯はフランクの分。心の中で話しかけているんだ、って言っていたもの」
「あいつ、そんな恥ずかしいこと口にするのか?」
目を丸めた吉野に、アレンはプンッと怒ったように唇を尖らせて言い返した。
「違うよ、ジャック、パブのご主人だよ。もとは彼が始めたことなんだ。兄にコーヒーを淹れる時に、傍らにフランクの分も淹れて置いていたんだ。それを兄が飲み干すのが、習慣になったんだって」
兄だって、フランクを想っていたのだ。たとえそれが、フランクの望んでいた形とは違っていたのだとしても――。
「ありがとう、フレッド」
唐突に伝えられたアレンの言葉に、フレデリックは優しく微笑んで頷いた。だが吉野は何も言わずに、そんな二人をぴりぴりとした表情で眺めていただけだった。
フレデリックの家を辞して、ナイツブリッジのアパートメントに帰り着いたアレンは、玄関のドアを締めると同時に、先に行く吉野を呼びとめた。
「フレッドは、刷りあがったばかりの小説を一番に僕にくれたんだ」
「そうか、良かったな」
振り返った吉野は微笑んで目を細めている。その仕草がすっかり癖になっているみたいだ、とアレンは思う。もう表情筋も、笑顔を作れるほど回復してきているのに。
「献辞はきみに――。だけど、この本を一番に贈りたい相手は僕だったから、って」
吉野は軽く頷く。それはそうだろうと思う。フレデリックにとっても、アレンにとっても、互いがこの学校でできた初めての友人なのだから。
「彼が僕に伝えたかったこと、届いたよ、ちゃんと」
「うん」
「愛している。――僕は、きみを愛している」
玄関のドアに寄りかかってそれだけ告げると、アレンは唇をぎゅっと噛みしめて俯いた。
フレデリックがアレンに伝えたかった事――。
それは、伝える事で報われない想いを葬れと、墓の下に埋めてしまえという事だ。アレンの想いと形は違っていても、確かに吉野はアレンを大切にしてくれていたのだから。
想いの形を変えて、生き直せ――、という事なのだ。
「ありがとう。でも、俺の心はお前にはやれない」
吉野の声は優しかった。おそらく、その瞳も。いつだって吉野は優しい。出逢ったころからずっと優しい――。
「解っている。かまわないよ。ただ伝えたかっただけなんだ」
「ごめんな」
「謝らないで。僕は、きみを想うことで、こんなにも幸せなのだから」
囁くようなアレンの告白に、吉野はどう答えていいのか判らなかった。アレンは息を殺して面をあげ、その場に留まったまま動けない吉野に、にっこりと笑顔を作って呼びかける。
「もう行って。弓道に遅れてしまうよ」
吉野の足音が遠ざかる。階段を上る軽い足取りが聞こえる。ドアの開く音。閉まる音。
玄関先でこのまま蹲っているわけにはいかない、と、アレンはのろのろとキッチンへ、そこから続く温室へと足をひきずるように移っていった。
――スノードロップは、冬の終わりと春の訪れを告げる花だって。
ガラス張りの向こうに飛鳥と見たスノードロップはとうに終り、今は黄水仙にクロッカスが咲いている。
その飛鳥に、ロンドンに行くのならハイドパークの桜が盛りだよ、と教えてもらった。ちょうど本社に行ってきたばかりだといって。
明日は桜を見にいこう。
――いや、駄目だ。僕はきっとそこでもきみを探してしまう。きみの名前と同じだという、ソメイヨシノという名の桜を。
伝えたところで終わらない、葬ろうとしても死なない想い。きみを想う僕が僕自身だ。きみは僕の命そのもの。捨てることも、殺すこともできるはずがない――。
フランク、あなたもこんな想いを抱えて生きていたのですか?
僕は今、あなたの存在に救われています。
小説に託された親友の想いに、アレンは堪らず、嗚咽を漏らしていた。
カフェテリアから中庭に出るなり、吉野はため息混じりで小言を浴びせ、アレンを小突いた。
「兄は関係ないよ」
唇を尖らせて抗議するアレンに、吉野は表情を和らげてくすりとした笑みを返す。
「まぁ、いいよ。俺も腹が立ったから」
「それで、真面目な話って?」
クリスが好奇心いっぱいの目でそんな二人に割ってはいった。吉野はちらりとサウードの顔を伺う。サウードは判らないほどわずかに首を横に振る。
「ああ、嘘だよ。あの連中が面倒だからさ、さっさと出ようと思っただけだ」
吉野はひょいと肩をすくめてみせた。
「なーんだ」
憮然顔のクリスとは違い、アレンは納得いかない様子で吉野を見つめていたが、何も言わずに視線を伏せていた。
その週末、ロンドンでは――。
突然の吉野とアレンの訪問に、フレデリックがあたふたと円型の疵だらけのテーブル上を片づけながら、椅子を引いて二人に勧めていた。
「来てくれてありがとう。こんなところだけど、とりあえず座って。今、お茶を淹れてくるから」
「別にいいぞ、お茶くらい」
吉野の声にフレデリックは片手をひらひらと振って応えると、キッチンに消えた。
初めて訪問したフレデリックの実家に、吉野もアレンも目を瞠り、言葉を失っている。その戸惑いを敏感な彼は感じとり、心を落ち着かせるための時間を欲したのだ。自分にも、彼らのためにも――。
窓越しに見える橋梁を渡る電車の轟音が響き渡る。
狭い部屋には古ぼけた家具がところ狭しと置かれ、テーブルに着くにも、チェストやテーブル上に置かれた物を落とさないよう、細心の注意を払わなければならないほどだ。くすんだ安っぽいピンクの花柄の壁紙は、天井に近い上方が剥がれて落ちかけている。そして、なんともいえない独特の籠った匂いがする。
これが、彼がエリオットに入るまで育った家なのだ。
やがて運んできたティーセットをテーブルに置き、フレデリックは丁寧にお茶を淹れて二人の前に置く。
「そんな上等の茶葉じゃないんだけれどね」
「学校のカフェテリアよりはマシだろ? あそこはティーバッグだ」
「きみがあまり煩く言うから、僕もお茶だけはちゃんと淹れるようになったよ」
フレデリックは笑いながら椅子をひく。
「学校の方、どう?」
「騒がしいよ」
アレンの控えめな返事に苦笑で応え、フレデリックはカップを口に運ぶ。吉野は単刀直入に質問を切りだした。
「俺が話した以上の内容だったから驚いたよ。あの本のネタ、どこから手に入れたんだ?」
「フランクの日記を見つけたんだ。それに、アーネスト卿にも話を聴いたよ」
フレデリックは静かに微笑み、ちょっと謝るように眉を上げ、二人を見つめた。
「ごめんよ。君たちに迷惑をかけるかとは思ったんだけど。――兄の想いを伝えたくて」
しばらく間を置いて、押し殺すように吉野は呟いた。
「ヘンリーにか?」
フレデリックは黙ったまま頷いた。
「全部、本当?」
アレンの口からも、驚きと戸惑いを含んだ一言が零れ落ちる。
「さすがに、全部じゃないよ」
フレデリックはクスクスと笑った。
「兄は小説みたいにかっこいい人じゃなかったし、そりゃあ、いろいろと脚色してあるよ。でも、綴られている彼への想いは本当」
言いながら、フレデリックは遠くを見るように目を細めた。
「彼に知っておいて欲しかったんだ。いや、彼は、知っていたのかな、って気もする。その気持ちに応えられないから、気づかないふりをしていただけで――。でも、だからこそ、言葉にしてちゃんと伝えたかったんだよ。僕はね、胸の内で漠然と想っている言葉と、言葉として口から発せられるそれは違うと思うんだ」
言葉を切って、フレデリックはいったん紅茶で喉を湿らせた。アレンの瞳をまっすぐに見つめながら。
「強い想いが口から発せられて言葉になる時、言葉はその人の魂を乗せてちゃんと相手に届くと思うんだ。だから、形のある言葉にしたかったんだよ」
「相手を困らせる事になってもか?」
「それでも」
瞼を伏せ、フレデリックは頷いた。
「もうどうにも成りようのない、報われることのない想いだからこそ、きちんと葬って形のある墓標を立てたかった。これって、僕の我がままだね。――ごめんよ、二人とも」
「どうして謝るの?」
アレンの澄んだセレストブルーが、フレデリックに注がれている。
「兄は今でも、フランクの事をとても大切に想っているよ。だって兄は、今でもコーヒーを二杯続けて飲むもの。一杯は自分の分、次の一杯はフランクの分。心の中で話しかけているんだ、って言っていたもの」
「あいつ、そんな恥ずかしいこと口にするのか?」
目を丸めた吉野に、アレンはプンッと怒ったように唇を尖らせて言い返した。
「違うよ、ジャック、パブのご主人だよ。もとは彼が始めたことなんだ。兄にコーヒーを淹れる時に、傍らにフランクの分も淹れて置いていたんだ。それを兄が飲み干すのが、習慣になったんだって」
兄だって、フランクを想っていたのだ。たとえそれが、フランクの望んでいた形とは違っていたのだとしても――。
「ありがとう、フレッド」
唐突に伝えられたアレンの言葉に、フレデリックは優しく微笑んで頷いた。だが吉野は何も言わずに、そんな二人をぴりぴりとした表情で眺めていただけだった。
フレデリックの家を辞して、ナイツブリッジのアパートメントに帰り着いたアレンは、玄関のドアを締めると同時に、先に行く吉野を呼びとめた。
「フレッドは、刷りあがったばかりの小説を一番に僕にくれたんだ」
「そうか、良かったな」
振り返った吉野は微笑んで目を細めている。その仕草がすっかり癖になっているみたいだ、とアレンは思う。もう表情筋も、笑顔を作れるほど回復してきているのに。
「献辞はきみに――。だけど、この本を一番に贈りたい相手は僕だったから、って」
吉野は軽く頷く。それはそうだろうと思う。フレデリックにとっても、アレンにとっても、互いがこの学校でできた初めての友人なのだから。
「彼が僕に伝えたかったこと、届いたよ、ちゃんと」
「うん」
「愛している。――僕は、きみを愛している」
玄関のドアに寄りかかってそれだけ告げると、アレンは唇をぎゅっと噛みしめて俯いた。
フレデリックがアレンに伝えたかった事――。
それは、伝える事で報われない想いを葬れと、墓の下に埋めてしまえという事だ。アレンの想いと形は違っていても、確かに吉野はアレンを大切にしてくれていたのだから。
想いの形を変えて、生き直せ――、という事なのだ。
「ありがとう。でも、俺の心はお前にはやれない」
吉野の声は優しかった。おそらく、その瞳も。いつだって吉野は優しい。出逢ったころからずっと優しい――。
「解っている。かまわないよ。ただ伝えたかっただけなんだ」
「ごめんな」
「謝らないで。僕は、きみを想うことで、こんなにも幸せなのだから」
囁くようなアレンの告白に、吉野はどう答えていいのか判らなかった。アレンは息を殺して面をあげ、その場に留まったまま動けない吉野に、にっこりと笑顔を作って呼びかける。
「もう行って。弓道に遅れてしまうよ」
吉野の足音が遠ざかる。階段を上る軽い足取りが聞こえる。ドアの開く音。閉まる音。
玄関先でこのまま蹲っているわけにはいかない、と、アレンはのろのろとキッチンへ、そこから続く温室へと足をひきずるように移っていった。
――スノードロップは、冬の終わりと春の訪れを告げる花だって。
ガラス張りの向こうに飛鳥と見たスノードロップはとうに終り、今は黄水仙にクロッカスが咲いている。
その飛鳥に、ロンドンに行くのならハイドパークの桜が盛りだよ、と教えてもらった。ちょうど本社に行ってきたばかりだといって。
明日は桜を見にいこう。
――いや、駄目だ。僕はきっとそこでもきみを探してしまう。きみの名前と同じだという、ソメイヨシノという名の桜を。
伝えたところで終わらない、葬ろうとしても死なない想い。きみを想う僕が僕自身だ。きみは僕の命そのもの。捨てることも、殺すこともできるはずがない――。
フランク、あなたもこんな想いを抱えて生きていたのですか?
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小説に託された親友の想いに、アレンは堪らず、嗚咽を漏らしていた。
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