胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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 クロッカスが咲き桜がほころび始めると、春はもうすぐそこだ。ときおり吹きつける突風もどこか優しく、緑の息吹を含んでいる。

 ハーフタームからかなりの日数がすぎて、あと数週間もすればイースター休暇が始まるという頃になってやっと、吉野とサウードは学校へ戻ってきた。クリスとアレンは、そんな二人を寮の前で待ちかまえていた。


「よう! 何も変わった事はなかったか?」
 休暇前よりもずっと自然に動くようになっている唇を引いて、吉野がにっと笑う。
「もちろんあるよ、大ニュースが!」
「二人とも、もう知ってるかも」

 アレンもクリスも、にこにこと満面の笑みだ。悪いニュースではなさそうだ。吉野はサウードと顔を見合わせ、想像もつかないと肩をすくめてみせる。

「見て! すごいだろ!」
 クリスが、ローブの下に隠し持っていた一冊の本を高々と掲げる。
「フレッドが書いたんだよ!」

『明けぬ夜』と題されたその小説を、吉野は興味津々と受け取って、裏表紙に書かれた粗筋に目を走らせる。



 僕は嘘をつき続ける
 きみを守るために……

 現役パブリック・スクール生が綴る衝撃の告発小説
 麻薬と暴力に支配されたエリートたちの光と闇を暴く

 伝統と階級制度の支配する名門校の内部深くに蠢く闇。同級生への忍ぶ想いを抱える主人公は、学校に巣喰うその闇と一人闘う決意をする。秘めた恋を胸底に隠し、巧妙に隠された罠に立ち向かう。張り巡る嘘、裏切り、暴力、その根源に迫る推理と手に汗握るサスペンス。鮮烈に突き進む主人公の熱い想いに、あなたは涙せずにはいられないだろう――。



「大した煽り文句だな――」
 吉野は笑いを堪えるように頬を引きつらせて呟く。その傍らで、もう一冊別に受け取ったサウードは、興味深そうにページを捲っている。

「僕、もうボロ泣きしちゃったよ!」
「僕も目が腫れるほど泣いたよ。本当にフランクが、かっこよくって」
「ね!」

 どこか白々した吉野の反応に満足いかないのか、クリスとアレンは声を揃え、二人して目を潤ませながら訴えかけている。

「フランク? この主人公って、フランクなのか?」
「モデルにしているんだって」

 フランクの話――。それなら、最後は――。
 泣けるというのも頷ける。

「借りてもいいか?」
「これはきみの分だよ。出版社の人から預かっていたんだよ。だって、ほら」

 クリスは吉野に手渡した本をぱらりと捲った。

 ――この真実を明るみにしてくれた我が友、ヨシノ・トヅキに捧ぐ

 一ページ目に記された献辞に、吉野は照れくさそうな笑みを浮かべた。


「発売されてまだ三日目なんだけどね、もう売り切れ続出。大ベストセラーだよ。それにね、これ、まだ上巻なんだよ。僕はもう続きが気になって、気になって――。それなのにフレッドの奴、にこにこ笑うばっかりでちっともどうなるか教えてくれないんだ!」

 クリスはぷっと頬を膨らませている。

「それで、肝心のフレッドは?」
「出版関係の何かで、ロンドン。でもこの小説、明らかにうちの学校って判る内容で、麻薬ルートを追う話だろ? 学校側が神経をピリピリさせているんだ。だから今日も寮監が付き添いで行ってるくらいで」
「それにしてもフレッドの奴、えらく思い切った事をやってのけたな――」

 吉野は意外感を隠せず、呟いていた。

 大人しく良識的な優等生。
 それが誰もが知るフレデリックの印象だ。小説を書く、などという趣向があることも、ましてそんな才能があるなんて、誰も知らなかった。いつも落ち着いていて中道を選ぶ、どちらかといえば保守的な生徒なのだ。そんな彼が、こんな荒波を立てる内容をいきなり世に放つなどと、学校側も青天の霹靂に違いない。


 人間ってのは、意外に分からないものなんだな――。

 フレデリックを突き動かしたのが、失った大切な者への想いなのか、それとも、まだ別に自分の知らない何かがあったのか。

 いきなり見せつけられた友人の新しい一面が、自分でも驚いたほど清々すがすがしく思えて、吉野は嬉しそうに笑みを零していた。




「どうしたの、アスカ、真っ赤な目をして? また夜更かしかい?」

 ケンブリッジでは、朝食の時間を遥かにすぎ、昼近くになってからやっと居間に下りてきた飛鳥に、ヘンリーが眉を潜めて心配そうな声をかけていた。飛鳥は何をするにも根を詰めすぎるのだ、と、つい小言を言いたくなってしまう想いを抑えている分、厳しい表情になっていることに、彼は気づいていない。
 飛鳥は、彼を咎めるヘンリーの視線に慌てて首を振る。

「フレデリックの小説を読んでいたんだ。読み始めたら止められなくなっちゃって――。きみたちはもう読んだ?」

 ヘンリーは傍らのアーネストと、なんとも微妙な表情で顔を見合わせた。

「読むことは読んだよ――」
「――うん、まぁ」

 二人とも、なんとも歯切れが悪い。

「僕は泣いてしまったよ。彼のお兄さんがモデルなんだってね。きみたちの友人だったんだろう? 辛いよね……」
「いや、これはフィクションだから」
「これをフランクだと思って読むとなると――、僕は書評に、“抱腹絶倒”と書かなきゃいけなくなる」

 アーネストも、ヘンリーも、なんともいえない苦笑いを浮かべている。

「フランクって奴はね――」

 言いかけたヘンリーの横顔を、アーネストは驚いて見つめる。
 彼の口から、この名前がこんなにも懐かしい響きで語られる日が来ようとは、思いもかけなかったのだ。そして、アーネスト自身にとっても――。


「そうだね、コーヒーでも飲みながら話してあげるよ。今日は冷えるから、アイリッシュ・コーヒーにしようか。温まるよ」

 ヘンリーはアーネストに、そして飛鳥に、同意を求めるように柔らかく微笑みかけて、マーカスを呼ぶためのベルを軽やかに振った。




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