452 / 758
七章
2
しおりを挟む
「ヘンリー」
「なんだい、サラ?」
サラはくるりと身を捩り、ソファーの背もたれに腕をかけた。床の上にぺたりと腰をおとし、暖炉のなかで揺らめいている金色の炎を長い間見つめていた瞳が、ヘンリーの端正な横顔に向けられる。
手元の書類から顔をあげ、ヘンリーはサラの髪をさらりとひと撫でして、その訴えかけるような瞳に応える。
「もうハーフタームでしょう?」
どことなく落ち着かない様子のサラを意外に思いながら、ヘンリーは質問の意図を察して、簡潔に告げた。
「アレンは明日ここに来るよ。でも、ヨシノは今回は来ないよ」
あ、がっかりしている――。
サラのわずかな表情の変化に、ヘンリーは思わず笑みを零し、「彼はサウード殿下の国へ行くそうだよ」と、慰めるように彼女の髪をもう一度優しく撫でた。
「ヨシノ、今は何の研究をしているの?」
「研究?」
「彼、日本の『杜月』にアスカの考えた特殊温室ガラスを発注してる。それにスイスにいた時は、世界中の大学の学術論文に片っ端からアクセスしていたもの」
研究――。
吉野に関して、ヘンリーは金融にばかり気を取られていて、その方面にはまったく意識を向けたことがなかったのだ。
ヘンリーの、してやられた、とばかりの唖然とした顔を見上げて、サラは不思議そうに小首を傾げる。
「彼が何に興味を持っているか判るかな?」
「今まで集めたデーターを分析すれば」
ヘンリーの厳しい表情に、サラまでもが緊張してしまったかのように声音を強張らせて応じている。
「何言ってるんだよ! そんなことならアスカちゃんに訊くのが一番早いに決まってるでしょ!」
ヘンリーの向かいでスケッチブックに顔を埋めていたデヴィッドが、いきなり頓狂な声をあげた。
「僕らに知られて困るような内容じゃなきゃアスカちゃんが知ってるよ。彼が知らないようなら、――ヤバイことなんじゃないのぉ?」
もっともな意見に苦笑して、ヘンリーはすっと立ちあがる。
「それもそうだね、訊いてくるよ」
「行動が早いねぇ」
その背中を見送りながらデヴィッドは口笛を鳴らした。そして揶揄うような視線を、不服そうな膨れっ面を肘掛けにもたせかけているサラに向ける。
「ヨシノが来ないの、寂しいんだ?」
だがサラはそんな彼の問いかけは無視して、さっと身を翻すとソファーの肘掛の陰に引っ込んでしまった。
「ん? 吉野が興味持っていること? そうだなぁ、あいつ多趣味だからなぁ――。あいつの研究している分野なら、答えられるんだけど――」
頭を捻る飛鳥に、ヘンリーは慌てて言い添える。
「そう、それでいいよ。彼、何を研究しているんだい?」
「農業。温室栽培だよ。あいつ野菜好きだから」
あまりにも拍子抜けした回答に、ヘンリーはぽかんと目を瞠る。
「ああ、確かエリオットに温室を造ったんだったね。まだ続けていたんだ」
「学校の農園からは、あいつはもう手を引いているらしいけどね。そこは校内の生物サークルや園芸部、市民グループが協力して野菜作りを続けているそうだよ」
ヘンリーの落胆とは裏腹に、飛鳥は嬉しそうに顔をほころばせて口調も楽しげに語っている。
「ヘンリー、僕はね、本当に嬉しいんだ。あいつが『杜月』や僕のためじゃなくて、自分が本当にやりたい事を見つけてくれて」
「それが、野菜作り――」
吐息混じりのヘンリーの呟きに、飛鳥は鳶色の瞳をきらきらと輝かせて頷いた。
「そうだ! ちょっと待ってて」
飛鳥は、動かないで、というふうに手のひらでヘンリーをその場に留まらせると自分一人立ちあがり、本棚に無造作に置かれているファイルをバサバサと大雑把にどかし始める。
本棚に、どうして本も資料も平積みしているのだろう、とヘンリーは、いつも疑問に思うのだ。立てて入らないサイズではないのにもかかわらずだ。
よくどこに何が置かれているのか迷わずにいられるな――。
床の上にまで積み重ねられた本の山。そこら中に散らばり、重なりあう図面。気をつけて歩かなければパソコン機材のコードに足を取られてしまいそうな床。
見慣れているとはいえ、あまりにも乱雑な飛鳥の部屋を見回して、ヘンリーはため息を呑み込む。彼には、散らかっているとしか見えないこの部屋も、主にとっては、彼なりの規則性と調和があるらしいのだ。勝手にものを動かしたりすると、ぷっと膨れて怒られてしまう。
たまには掃除をさせて欲しい、とメアリーが愚痴を零していたが、それも仕方ない。
「ああ、あったよ!」
書類の散らばる床の上のわずかなスペースで飛鳥を見上げていたヘンリーの前に、飛鳥は、邪魔な、今は必要のない図面たちをバサバサと脇に寄せて空きを作った。それから嬉しそうに見つけだしたファイルをヘンリーに手渡し、次いで、丸まっていた巨大な図面を広げて見せた。
「これが、彼のやりたい事――」
眼前に広がる青写真を、ヘンリーは息を呑んで凝視する。
「すごいだろ! あいつらしいっていうかさ!」
海に近い砂漠に造られた集光型太陽光発電施設は、溶媒塩の代わりに砂漠の砂を使う新方式を採用している。海水を淡水化した水で行う新冷却システムは、太陽電池の効率を劇的に高めるだけではなく、その過程で発生する熱を、海水浄化、吸収式冷凍機での冷房に利用できるのだ。その冷房で、砂漠に築いた巨大な温室で野菜を育てる。
これはまさに、砂漠という地の利を生かした野菜造りの青写真なのだ。
「あいつ、きみやアーニー、デイヴに感謝してる、って言っていたよ」
おもむろに顔をあげたヘンリーに、飛鳥は満面の笑みを湛えて喋り続ける。
「雇用を創出することが特権階級の義務であり責任だ、って教えられたって。これがね、吉野とサウード殿下の夢なんだよ。いずれは石油依存から脱却して、まずは雇用と食料の確保を。それから、この技術をもっともっと高めていって、砂漠を少しづつでも緑化していきたいって」
そこで言葉をきった飛鳥に、ヘンリーは自嘲的な笑みを浮かべて呟くしかなかった。
「正直、驚いたよ。僕はてっきり……」
「僕だってそうだよ、ヘンリー。あいつがしょっちゅう殿下の国に行くのは、金融取引のためだとばかり思っていたもの。――ハワード教授には申し訳ないけどね、僕は、あいつが数学を選ばないでくれたことが嬉しいんだ。あいつは自由な鳥だからね。狭い研究室の中では、きっと窒息してしまうよ。僕はどうしても、そんなふうにしか思えないんだ」
「それに、今の数学者の立ち位置が危険だからだろ? 国防セキュリティ、それに金融界から引っ張りだこだものね」
静かな口調で告げられたヘンリーの洞察に、飛鳥は答えなかった。視線を伏せ、まるで独り言のように言葉を継いだ。
「あいつ、ケンブリッジに進学するの、迷ってるんだ。でも僕は、何よりもあいつのやりたい事を応援してやりたい」
「なんだい、サラ?」
サラはくるりと身を捩り、ソファーの背もたれに腕をかけた。床の上にぺたりと腰をおとし、暖炉のなかで揺らめいている金色の炎を長い間見つめていた瞳が、ヘンリーの端正な横顔に向けられる。
手元の書類から顔をあげ、ヘンリーはサラの髪をさらりとひと撫でして、その訴えかけるような瞳に応える。
「もうハーフタームでしょう?」
どことなく落ち着かない様子のサラを意外に思いながら、ヘンリーは質問の意図を察して、簡潔に告げた。
「アレンは明日ここに来るよ。でも、ヨシノは今回は来ないよ」
あ、がっかりしている――。
サラのわずかな表情の変化に、ヘンリーは思わず笑みを零し、「彼はサウード殿下の国へ行くそうだよ」と、慰めるように彼女の髪をもう一度優しく撫でた。
「ヨシノ、今は何の研究をしているの?」
「研究?」
「彼、日本の『杜月』にアスカの考えた特殊温室ガラスを発注してる。それにスイスにいた時は、世界中の大学の学術論文に片っ端からアクセスしていたもの」
研究――。
吉野に関して、ヘンリーは金融にばかり気を取られていて、その方面にはまったく意識を向けたことがなかったのだ。
ヘンリーの、してやられた、とばかりの唖然とした顔を見上げて、サラは不思議そうに小首を傾げる。
「彼が何に興味を持っているか判るかな?」
「今まで集めたデーターを分析すれば」
ヘンリーの厳しい表情に、サラまでもが緊張してしまったかのように声音を強張らせて応じている。
「何言ってるんだよ! そんなことならアスカちゃんに訊くのが一番早いに決まってるでしょ!」
ヘンリーの向かいでスケッチブックに顔を埋めていたデヴィッドが、いきなり頓狂な声をあげた。
「僕らに知られて困るような内容じゃなきゃアスカちゃんが知ってるよ。彼が知らないようなら、――ヤバイことなんじゃないのぉ?」
もっともな意見に苦笑して、ヘンリーはすっと立ちあがる。
「それもそうだね、訊いてくるよ」
「行動が早いねぇ」
その背中を見送りながらデヴィッドは口笛を鳴らした。そして揶揄うような視線を、不服そうな膨れっ面を肘掛けにもたせかけているサラに向ける。
「ヨシノが来ないの、寂しいんだ?」
だがサラはそんな彼の問いかけは無視して、さっと身を翻すとソファーの肘掛の陰に引っ込んでしまった。
「ん? 吉野が興味持っていること? そうだなぁ、あいつ多趣味だからなぁ――。あいつの研究している分野なら、答えられるんだけど――」
頭を捻る飛鳥に、ヘンリーは慌てて言い添える。
「そう、それでいいよ。彼、何を研究しているんだい?」
「農業。温室栽培だよ。あいつ野菜好きだから」
あまりにも拍子抜けした回答に、ヘンリーはぽかんと目を瞠る。
「ああ、確かエリオットに温室を造ったんだったね。まだ続けていたんだ」
「学校の農園からは、あいつはもう手を引いているらしいけどね。そこは校内の生物サークルや園芸部、市民グループが協力して野菜作りを続けているそうだよ」
ヘンリーの落胆とは裏腹に、飛鳥は嬉しそうに顔をほころばせて口調も楽しげに語っている。
「ヘンリー、僕はね、本当に嬉しいんだ。あいつが『杜月』や僕のためじゃなくて、自分が本当にやりたい事を見つけてくれて」
「それが、野菜作り――」
吐息混じりのヘンリーの呟きに、飛鳥は鳶色の瞳をきらきらと輝かせて頷いた。
「そうだ! ちょっと待ってて」
飛鳥は、動かないで、というふうに手のひらでヘンリーをその場に留まらせると自分一人立ちあがり、本棚に無造作に置かれているファイルをバサバサと大雑把にどかし始める。
本棚に、どうして本も資料も平積みしているのだろう、とヘンリーは、いつも疑問に思うのだ。立てて入らないサイズではないのにもかかわらずだ。
よくどこに何が置かれているのか迷わずにいられるな――。
床の上にまで積み重ねられた本の山。そこら中に散らばり、重なりあう図面。気をつけて歩かなければパソコン機材のコードに足を取られてしまいそうな床。
見慣れているとはいえ、あまりにも乱雑な飛鳥の部屋を見回して、ヘンリーはため息を呑み込む。彼には、散らかっているとしか見えないこの部屋も、主にとっては、彼なりの規則性と調和があるらしいのだ。勝手にものを動かしたりすると、ぷっと膨れて怒られてしまう。
たまには掃除をさせて欲しい、とメアリーが愚痴を零していたが、それも仕方ない。
「ああ、あったよ!」
書類の散らばる床の上のわずかなスペースで飛鳥を見上げていたヘンリーの前に、飛鳥は、邪魔な、今は必要のない図面たちをバサバサと脇に寄せて空きを作った。それから嬉しそうに見つけだしたファイルをヘンリーに手渡し、次いで、丸まっていた巨大な図面を広げて見せた。
「これが、彼のやりたい事――」
眼前に広がる青写真を、ヘンリーは息を呑んで凝視する。
「すごいだろ! あいつらしいっていうかさ!」
海に近い砂漠に造られた集光型太陽光発電施設は、溶媒塩の代わりに砂漠の砂を使う新方式を採用している。海水を淡水化した水で行う新冷却システムは、太陽電池の効率を劇的に高めるだけではなく、その過程で発生する熱を、海水浄化、吸収式冷凍機での冷房に利用できるのだ。その冷房で、砂漠に築いた巨大な温室で野菜を育てる。
これはまさに、砂漠という地の利を生かした野菜造りの青写真なのだ。
「あいつ、きみやアーニー、デイヴに感謝してる、って言っていたよ」
おもむろに顔をあげたヘンリーに、飛鳥は満面の笑みを湛えて喋り続ける。
「雇用を創出することが特権階級の義務であり責任だ、って教えられたって。これがね、吉野とサウード殿下の夢なんだよ。いずれは石油依存から脱却して、まずは雇用と食料の確保を。それから、この技術をもっともっと高めていって、砂漠を少しづつでも緑化していきたいって」
そこで言葉をきった飛鳥に、ヘンリーは自嘲的な笑みを浮かべて呟くしかなかった。
「正直、驚いたよ。僕はてっきり……」
「僕だってそうだよ、ヘンリー。あいつがしょっちゅう殿下の国に行くのは、金融取引のためだとばかり思っていたもの。――ハワード教授には申し訳ないけどね、僕は、あいつが数学を選ばないでくれたことが嬉しいんだ。あいつは自由な鳥だからね。狭い研究室の中では、きっと窒息してしまうよ。僕はどうしても、そんなふうにしか思えないんだ」
「それに、今の数学者の立ち位置が危険だからだろ? 国防セキュリティ、それに金融界から引っ張りだこだものね」
静かな口調で告げられたヘンリーの洞察に、飛鳥は答えなかった。視線を伏せ、まるで独り言のように言葉を継いだ。
「あいつ、ケンブリッジに進学するの、迷ってるんだ。でも僕は、何よりもあいつのやりたい事を応援してやりたい」
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。


サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる