胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
450 / 751
七章

しおりを挟む
 彼らが久しぶりに訪れたジャックのパブは、観光客もぐっと少なくなる冬季だというのに二階まで満席だ。いつもなら貸切にしてもらうところを、テーブルを一つ確保して貰えるだけで手いっぱいのようだった。

「ずいぶん流行っているんだね」

 フレデリックは周囲を見回し、嬉しそうに微笑む。
 吉野と付き合うようになってからというもの、ずっとお世話になってきた店なのだ。それに何度か、彼の代わりに店を手伝ったこともある。亡くなった兄がここでバイトをしていた、と後から聴かされた時には、不思議な縁に目頭が熱くなった。

「今年になってから急にだって、ご主人が言っていたよ」
 クリスが顔を寄せて、内緒話をするように声を落とす。
「ここ、ハラルフードを使っているだろ。イスラム教徒のお客さんが増えているんだって」

 そういえば、二階のテーブル席の半分以上がそれっぽい感じだ。本来はレストランよりも一階の酒場が主のこの店だが、酒は出さない二階と入口を分けてからは、サウード達イスラム教徒も利用するようになった。イスラム教徒向けの店の少ないこの街で、彼らにとって貴重な食堂になっているのかもしれない。

 フレデリックは納得したように頷く。

「ヨシノが、欧州でもすごくイスラム教徒が多かったって言っていたよ。これから、こういう店が増えていくのかもしれないね」
「僕はなんだか嫌だな。僕たちの居場所が奪われていくみたいで」
 小声で言いながら、クリスは不満そうに唇を尖らせる。


 フレデリックは曖昧な笑みを浮かべてそんな彼をやりすごし、吉野とのやり取りを思い返していた。

 初めてこの店を吉野と訪れた頃は、お客さんは疎らで近所のお爺さんがお喋りに来ているだけだった。それがいつの間にか、エリオット校生が増えて、観光客が増えて――。

 俺たちが、ここの常連さんたちの居場所を奪ったんだ、と、気づいた吉野は店の改装を進言して、エリオット校生じぶんたちと彼らの場所を棲み分けた。そうやって、以前のようなジャックの店に戻したのだ。日中は観光客が多いけれど、夜はまた、この街の人たちの集会所だ。

 吉野がそう望んだから。
 ここはジャックの店で、皆、そうあることを望んでいる、と。

 ――俺、馬鹿だからさ、何も解っちゃいなかったんだ。

 あの時は、そう言った彼の言葉の意味がフレデリックには解らなかったのだ。

 フレデリックは思い出に浸りながら、感慨深げに目を細める。



 突然、クリスがぴょんと頭を起こし、大声を上げて手を振った。フレデリックも我に返って彼の視線の先を追った。

「ここだよ!」

 遅れてきたアレンと、彼のボディーガードが入口で立ち止まっている。

「遅かったね」
「下でご主人にポスターを渡していたんだ。ちょっと話し込んでしまって」
 アレンは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ポスターって、例の?」
 フレデリックの心配そうな視線に、アレンはにこやかな笑みを返す。
「見本市で使ったポスターを、デヴィッド卿に無理を言って特別に頂いてきたんだよ。それにTS映像看板のポスター版も。一般では出回っていないすごいレア物なんだって!」
 どこかしら自慢げなその様子に安堵しながらも、フレデリックは、アレンに自分の杞憂を悟られないように、慎重に言葉を探す。
「睡蓮池のは?」
「うん。それも一緒に。計三枚。壁が埋まっちゃうね。だから掛け替えるか、二階にも飾るか、ご主人も迷ってらした」
「きっとまたお客さんが増えるね!」
 瞳をくりくりとさせる誇らしげなクリスとは違い、フレデリックは微かに眉根を寄せていた。


 店舗に行かなければ見られなかったアレンの立体映像が、TSネクストの増産が発表されてからポスターになり、雑誌や一部駅構内での壁面広告で見掛けるようになった。そのポスターが校内で問題になっていることを、アレンは知らない。
 水に濡れて張りついたシャツに透ける素肌と、物思いに耽るその表情が、扇情的すぎるのだという。そんな内容の話を、フレデリックはとてもじゃないが、アレンに伝えることはできなかった。


 額に手を当てこめかみを揉むふりをしながら、目の前に座る彼を、フレデリックはそっと盗み見る。

 彼は、自分がどんな目で見られているのか解っているのだろうか? 解っていて気にしないのか、それともまったく、自覚がないのか。そんなはずがないではないか。あれだけ酷い目にあっているのだから――。

 吉野は知っているのだろうか? 彼はどう思っているのだろう? 彼なら――。

 フレデリックは、同じ寮内にいながら、なかなか捉まえることのできない吉野を思い、嘆息する。たまに会えたところで、忙しなく働いている彼を邪魔することは気が引けて、きっと何も聞けないままで終わるのだが。




 頭を悩ませながら、運ばれてきたカレーを無意識に口に運んでいたフレデリックは、ふと視線を感じて面をあげた。「カレー、食べるようになったんだね」と、今さら驚いてアレンに目を留める。

「ヨシノのカレーは甘口だからね。これ、僕たちのためのカレーだよ。でもね、彼が家で作る本場のインドカレーはすごいんだよ。もう、辛くて、辛くて! 一口貰ったんだけれど、涙がボロボロ出ちゃったよ。それをね、兄やサラは平気な顔で食べるんだよ! 美味しいって。びっくりしちゃったよ」

 そう尋ねられるのを待っていたかのように喋りだし、生き生きと瞳を輝かせているアレンを見ているだけで嬉しくなる。フレデリックも自然に顔がほころんでいる。

「僕、それちょっと食べてみたいなぁ。僕はけっこう辛いのも平気だよ!」
「えー! きみもきっと泣かされるよ!」
 羨ましそうにアレンを見つめるクリスに、大袈裟に言い返しているアレンはまるで悪戯っ子だ。

「平気だよ! 僕は泣いたりしない! だって、」
「ガストン家の男だもの!」

 二人、声を揃えて言い、朗らかに声を立てて笑いあっている。


 こんな時間がいつまでも続けばいいのに――。

 フレデリックもつられたように微笑みながら、込みあげてくる不安を無理に押し殺して、そう願わずにはいられなかった。






しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...