439 / 751
七章
6
しおりを挟む
「あ、お帰り。遅いからもう置いていっちゃおうと思ってたよ」
物音と人の気配に、デヴィッドは居間のドアを開けた。玄関ホールに帰ってきたばかりの吉野を見つけ、軽く手を振る。
「まだ時間あるだろ? 何か食うものある?」
「途中で買いなよ。ほら、早く準備して!」
今日は毎週通っているロンドン弓道場の、稽古納めの日なのだ。
だが、ヘンリーのアパートメントで吉野を待っていた彼を無視して、当の本人は気ままに、「腹、減った~」などと歌いながらキッチンに向かっている。
「ちょっと、ヨシノ!」
デヴィッドは呆れて追いかけて、その肩をぽんと叩く。と、いきなり「こら! この悪ガキ!」と、デヴィッドは振り向いた吉野の頬を思いきり捻りあげる。
「痛、痛いよ、デヴィ!」
呆気に取られて抵抗する吉野からやっと指を放したかと思うと、今度は赤くなった頬を容赦なくペシパシと叩く。
「マリファナの臭いを染みつかせて帰ってくるなんて、どこでそんな悪い遊びを覚えたんだよ!」
「やってないよ、俺! だからすぐに帰ってきたんじゃないか! こんな臭いがつくなんて思わなかったんだよ。一ヶ月前から予約してたテムズ・フォヤーのアフタヌーン・ティーを諦めてキャンセルしたんだぞ!」
ひりひりと痛む右頬を摩りながら、吉野は眉根をしかめてデヴィッドを睨んだ。
「でもその場にいたんでしょ? きみ、誰とつるんでたの?」
デヴィッドは吉野の前に立ちはだかったまま、厳しい表情で詰問した。場合によってはヘンリーやアーネストにも報告しなければならない。吉野はこの国では一介の留学生にすぎないのだ。軽い遊びのつもりでも、簡単にこの国から追いやられて戻ってこられなくなるかもしれないのだ。
「アブド・H・アル=マルズーク」
吉野から告げられたその名前に、彼の表情は和らぐどころかさらに険しさを増し、驚愕と嫌悪感までが上乗せされる。
「きみさぁ、ほっぺ、ピシパシくらいじゃ済まされないねぇ、それは……」
「なんだよ! だから俺はやってないって! だいたいさぁ、俺が薬に手をだすはずないだろ? 何があってもそれだけはないよ。あいつがおかしいんだよ! 真面目に仕事の話をしてるっていうのにさぁ、いきなりやり始めるんだぞ! イカれてるだろ!」
「あんな奴と関わること自体が問題なの!」
「だから、仕事だって!」
「子どもが働かなくたっていいんだよ! お金に困っているわけでもないのに!」
「人は食うために生きるに非ずっていうだろ!」
「大食らいのきみが何言ってるんだよ、きみ、正しく食べるために生きてるじゃないか!」
「だから、自分の食い扶持ぐらい自分で稼いで、」
「それが余計だっていうんだよ!」
ふん、と腰に手を当ててデヴィッドは仁王立ちして吉野を睨めつけた。
「そうキャンキャン言うなよ、腹減ってるんだからさ」
吉野は諦めたように声のトーンを落とした。
「きみもう、この休み中は外出禁止だ」
「おい、今日は稽古納めなんだからさ」
「じゃあ、さっさと準備する! 今日は僕も一緒だから特別に許可してあげるよ。その臭いジャケット、捨ててしまいなよ!」
「無茶言うなよ。『アンダーソン』だぞ……」
吉野は自分の袖口を鼻先に持っていって臭いを嗅ぎ、しかめっ面をする。その腕を盾にして、そっとデヴィッドの機嫌を取るように上目遣いに様子を伺う。
「さっさとする!」
いつもの甘ったるい笑顔の彼とは別人のように、ヘーゼルの瞳に険を込めて叱りつけたデヴィッドは、くいっと顎をしゃくって階段を示した。
「ちぇ、なんだよ~。着替えればいいんだろ! 俺、真剣、腹減ってんのになぁ~。飢え死にするぞー!」
吉野は諦めたように派手にため息を吐き、自室のある二階へ向かった。だがその途中で、やはり納得がいかないふうに立ち止まり、手摺から身を乗りだして不思議そうに小首を傾げてデビッドを見やる。
「なぁ、なんで俺、こんな怒られてんの?」
「馬鹿だからだよ!」
間髪入れずに返ってきた容赦ない一言に、遂に吉野は肩を震わせてクスクスと笑いだした。そして、「ひでーな、俺、ぐれるぞ。あー、傷ついた! デヴィが俺のこと、いじめるんだー」と、悪態をつきながら階段を上っていった。
その夜の十一時を回るころ、アーネストがもたらした新ニュースにヘンリーは腹の底から笑っていた。
「まったく、あの子の無鉄砲さときたら!」
「デイヴを宥める方が大変だったよ」
アーネストは苦笑を漏らしながら、スカイラウンジの窓越しに広がるニューヨークの夜景に視線を移す。けれど、この美しい光の海原をゆっくり眺めて堪能する余裕など、デヴィッドからの電話で吹き飛んでしまった。
あの子はほんの束の間ですら、じっとしていてくれないのだから。
おそらく同じ事を考えているであろうヘンリーと、顔を見合わせる。
「デイヴがいてくれて良かったね」
やっと笑いを納め、ヘンリーは呟いた。
「本当に、あの悪名高いアブド・H・アル=マルズークとホテルの一室で交渉していたとか、よく無事に帰ってこられたよ」
「逆に信じられないくらいだけどね。でも、その点はデイヴがしっかり確認しているよ。顔色も、息の臭いも、行動も、まともだったって」
「それは心配していないよ。もし強制されていたとしたら、自分の足で帰ってくるのは無理だろうしね。あの子は自分からは絶対にドラッグには手をださない。アスカの事があるからね。薬物と名のつくものは風邪薬ですら嫌っているくらいだ。さあて、ここにいる間に色々調べなければ。ロレンツォとデイヴのお陰で、ヨシノに一歩近づけたのは確かだからね」
ヘンリーはふわりと涼しげな笑みを見せ、アーネストに穏やかな視線を向けた。
「アーニー、予定変更だ。お祖父様の新年パーティーに参加するよ。ジェームズ・テーラーに会ってくる。きみは例の件の方、頼んだよ」
物音と人の気配に、デヴィッドは居間のドアを開けた。玄関ホールに帰ってきたばかりの吉野を見つけ、軽く手を振る。
「まだ時間あるだろ? 何か食うものある?」
「途中で買いなよ。ほら、早く準備して!」
今日は毎週通っているロンドン弓道場の、稽古納めの日なのだ。
だが、ヘンリーのアパートメントで吉野を待っていた彼を無視して、当の本人は気ままに、「腹、減った~」などと歌いながらキッチンに向かっている。
「ちょっと、ヨシノ!」
デヴィッドは呆れて追いかけて、その肩をぽんと叩く。と、いきなり「こら! この悪ガキ!」と、デヴィッドは振り向いた吉野の頬を思いきり捻りあげる。
「痛、痛いよ、デヴィ!」
呆気に取られて抵抗する吉野からやっと指を放したかと思うと、今度は赤くなった頬を容赦なくペシパシと叩く。
「マリファナの臭いを染みつかせて帰ってくるなんて、どこでそんな悪い遊びを覚えたんだよ!」
「やってないよ、俺! だからすぐに帰ってきたんじゃないか! こんな臭いがつくなんて思わなかったんだよ。一ヶ月前から予約してたテムズ・フォヤーのアフタヌーン・ティーを諦めてキャンセルしたんだぞ!」
ひりひりと痛む右頬を摩りながら、吉野は眉根をしかめてデヴィッドを睨んだ。
「でもその場にいたんでしょ? きみ、誰とつるんでたの?」
デヴィッドは吉野の前に立ちはだかったまま、厳しい表情で詰問した。場合によってはヘンリーやアーネストにも報告しなければならない。吉野はこの国では一介の留学生にすぎないのだ。軽い遊びのつもりでも、簡単にこの国から追いやられて戻ってこられなくなるかもしれないのだ。
「アブド・H・アル=マルズーク」
吉野から告げられたその名前に、彼の表情は和らぐどころかさらに険しさを増し、驚愕と嫌悪感までが上乗せされる。
「きみさぁ、ほっぺ、ピシパシくらいじゃ済まされないねぇ、それは……」
「なんだよ! だから俺はやってないって! だいたいさぁ、俺が薬に手をだすはずないだろ? 何があってもそれだけはないよ。あいつがおかしいんだよ! 真面目に仕事の話をしてるっていうのにさぁ、いきなりやり始めるんだぞ! イカれてるだろ!」
「あんな奴と関わること自体が問題なの!」
「だから、仕事だって!」
「子どもが働かなくたっていいんだよ! お金に困っているわけでもないのに!」
「人は食うために生きるに非ずっていうだろ!」
「大食らいのきみが何言ってるんだよ、きみ、正しく食べるために生きてるじゃないか!」
「だから、自分の食い扶持ぐらい自分で稼いで、」
「それが余計だっていうんだよ!」
ふん、と腰に手を当ててデヴィッドは仁王立ちして吉野を睨めつけた。
「そうキャンキャン言うなよ、腹減ってるんだからさ」
吉野は諦めたように声のトーンを落とした。
「きみもう、この休み中は外出禁止だ」
「おい、今日は稽古納めなんだからさ」
「じゃあ、さっさと準備する! 今日は僕も一緒だから特別に許可してあげるよ。その臭いジャケット、捨ててしまいなよ!」
「無茶言うなよ。『アンダーソン』だぞ……」
吉野は自分の袖口を鼻先に持っていって臭いを嗅ぎ、しかめっ面をする。その腕を盾にして、そっとデヴィッドの機嫌を取るように上目遣いに様子を伺う。
「さっさとする!」
いつもの甘ったるい笑顔の彼とは別人のように、ヘーゼルの瞳に険を込めて叱りつけたデヴィッドは、くいっと顎をしゃくって階段を示した。
「ちぇ、なんだよ~。着替えればいいんだろ! 俺、真剣、腹減ってんのになぁ~。飢え死にするぞー!」
吉野は諦めたように派手にため息を吐き、自室のある二階へ向かった。だがその途中で、やはり納得がいかないふうに立ち止まり、手摺から身を乗りだして不思議そうに小首を傾げてデビッドを見やる。
「なぁ、なんで俺、こんな怒られてんの?」
「馬鹿だからだよ!」
間髪入れずに返ってきた容赦ない一言に、遂に吉野は肩を震わせてクスクスと笑いだした。そして、「ひでーな、俺、ぐれるぞ。あー、傷ついた! デヴィが俺のこと、いじめるんだー」と、悪態をつきながら階段を上っていった。
その夜の十一時を回るころ、アーネストがもたらした新ニュースにヘンリーは腹の底から笑っていた。
「まったく、あの子の無鉄砲さときたら!」
「デイヴを宥める方が大変だったよ」
アーネストは苦笑を漏らしながら、スカイラウンジの窓越しに広がるニューヨークの夜景に視線を移す。けれど、この美しい光の海原をゆっくり眺めて堪能する余裕など、デヴィッドからの電話で吹き飛んでしまった。
あの子はほんの束の間ですら、じっとしていてくれないのだから。
おそらく同じ事を考えているであろうヘンリーと、顔を見合わせる。
「デイヴがいてくれて良かったね」
やっと笑いを納め、ヘンリーは呟いた。
「本当に、あの悪名高いアブド・H・アル=マルズークとホテルの一室で交渉していたとか、よく無事に帰ってこられたよ」
「逆に信じられないくらいだけどね。でも、その点はデイヴがしっかり確認しているよ。顔色も、息の臭いも、行動も、まともだったって」
「それは心配していないよ。もし強制されていたとしたら、自分の足で帰ってくるのは無理だろうしね。あの子は自分からは絶対にドラッグには手をださない。アスカの事があるからね。薬物と名のつくものは風邪薬ですら嫌っているくらいだ。さあて、ここにいる間に色々調べなければ。ロレンツォとデイヴのお陰で、ヨシノに一歩近づけたのは確かだからね」
ヘンリーはふわりと涼しげな笑みを見せ、アーネストに穏やかな視線を向けた。
「アーニー、予定変更だ。お祖父様の新年パーティーに参加するよ。ジェームズ・テーラーに会ってくる。きみは例の件の方、頼んだよ」
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた
楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。
この作品はハーメルン様でも掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる