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七章
条件2
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「手短に頼むよ。これからニューヨークなんだ」
アポイントなしで唐突に訪れた客に、ヘンリーは優雅に微笑みつつも軽く眉尻をあげている。
本社最上階の執務室の窓の外は、相変わらず重苦しい灰色の空が広がっている。昨日は雲を破って晴れ間を覗かせていたのに、ほんの束の間のことだったか。しんしんと雪が降りしきるこんな空模様で、飛行機は飛ぶのだろうか――、と目前の客人よりも、その後の予定の方がよほど気にかかっているヘンリーの耳に、開口一番、予期せぬ名前が飛び込んできた。
「アスカの弟――、お前、いったいあの小僧にどういう教育をしているんだ?」
ロレンツォは、冷淡なヘンリーの対応はいつものことと受け流して、勧められるのも待たずにどっかりと応接セットの定位置に腰をおろしている。
「どういう意味だい?」
「あの二枚舌小僧! あいつ、本当に飛鳥の弟なのか!」
「何を今さら。似ているだろ? 目元なんかそっくりじゃないか。そんなことより、彼が何かしたの?」
おもむろに立ち上がり、ヘンリーは薄らと笑みを刷いてロレンツォの向かいのソファーへと移動する。
「あの小僧が、狙撃を命令したのはベンジャミン・フェイラー、それに、その手先のルノーだと言った」
「違うのかい?」
「もう一人いた。そいつが偽装テロの首謀者だ」
「誰?」
苛立たしさを隠そうともせず、前置きもなく語られたこの内容では、ヘンリーもさすがに笑みを消さざるを得ない。わずかに眉根を寄せて、探るような視線をロレンツォに向ける。
「アブド・H・アル=マルズーク」
「マシュリク国国防大臣――」
意外でもあり、納得のいくものでもある聞き覚えのある名前に、ヘンリーは、くっくっ、と肩を震わせて笑いだす。予想通りのその反応に、ロレンツォはしかめっ面で文句をぶちまけた。
「あの小僧、知っていてわざと言わなかったんだ!」
ヘンリーは瞼を伏せ一頻り笑うと、自分に向かって投げだされた彼の感情的な不満にはまるで取り合うことなく、じっと黙り込んで思索に耽る。そしてロレンツォの方も、ヘンリーが何と返してくるのかをじっと黙って待っている。
やがて、ヘンリーの華やかな空の瞳がロレンツォに向けられた。
「嘘はついていないだろう?」
「そこが曲者だってことだ!」
息を吐くように、静かに軽やかに発せられた問いに、ロレンツォは更に腹だたしげに応えた。
「でもなぜ彼が? 偽装テロの邪魔をしたからかい?」
「あのテロは、中東との緊張を煽って原油価格を引き上げるための仕掛けに過ぎない。成功しようがしまいが、緊張が高まればそれでいい。あいつが狙われた理由は別だ」
ロレンツォはもったいぶって、大仰に片手を振り回す。
「あの小僧、マルセイユ・マフィアに、アブド・H・アル=マルズークの依頼を蹴るように手をまわしたんだ」
「……なんとも、顔の広い子だね」
吉野がマルセイユ・マフィアに繋ぎをとっていたことは、ヘンリーも知っている。だがその内容にまでは届かなかったのだ。
この場で知らされたことの真相には、さすがのヘンリーも二の句が告げない。まったく、飛鳥は彼にどういう教育を施してきたのだ? と彼の方が訊きたいくらいだ。
「依頼って、麻薬ルート、それとも暗殺?」
「暗殺だ。サウード・M・アル=マルズークのな。まだあるぞ。――聴きたいか?」
ロレンツォはここにきて呆れたように肩をすくめ、ふぅっとため息をついた。だがヘンリーの返事を待たずして、ふん、と歪な笑みを浮かべると早口で喋り始める。
「あの小僧、おまけにグレンツ社の通信網にウイルスをばら撒いてやがるんだ。実害がないから、社のトップ間で対処への意見が分かれているんだ。グレンツ社の通信網を使用しているなら、専用回線であっても機密情報はだだ漏れのはずだってのに。彼らの悠長さにも開いた口がふさがらない」
「それはまた、――彼らしいね」
漆黒の艶やかな瞳を不快そうに曇らせているロレンツォに、ヘンリーは半ば諦め顔で眉をあげてみせた。
「それくらいはやっているだろう、と予測はしていたよ。あの子の把握している情報量、まさしくコンピューター並だからね」
「解っていてなぜ野放しに?」
「どうしろと? 監禁して鎖に繋いでおけとでも? できるわけがないだろ。あの子はマシュリク国の財務アドバイザーだよ。彼の作ったウイルスにしても、手の打ちようがないんだ。今のハードではどうしようもない。あれに太刀打ちできるレベルのうちで開発している新型は、まだまだコスト的に一般市販できる水準じゃないしね」
「とんでもない野郎だな……」
大仰に目を丸めたロレンツォに同調するように、ヘンリーも吐息を漏らす。
「まったく、アスカの弟だけあってね。おまけにあのジェームズ・テイラーが、手塩にかけて育てた子でもある。金勘定では、きみのところもタジタジだろう?」
「南米か――」
ロレンツォは納得したように頷き、嘆息する。
「昨夜、さっそく仕掛けてきたぞ。原油先物が大暴落だ。今もまだ下げ止まらない。アラブ勢も、南米も、今頃泡食っているに違いない」
「それに、フェイラーもだろ?」
二人は互いに眼を見交わした。どちらからともなく苦笑いが溢れる。
「しかし、アブド殿下とはね。彼も厄介な相手を敵に回してくれたね。確か、今ロンドンに滞在中のはずだよ。僕にもアル=マルズーク家のニューイヤーパーティーの招待状がきているんだ」
「出席するのか?」
「自分の会社のパーティーにね。面倒だけど――。これこそ立体映像でも置いて、適当に相槌でも打たせておきたいよ」
冗談には聞こえないヘンリーのボヤキに、ロレンツォは声をたてて笑った。
「お前ならそのくらい平気でやるじゃないか。フェレンツェでも危うく騙されるところだった」
「フェレンツェ?」
「作らせただろ、お前の弟の立体映像を。指輪の儀式にでてきたのが映像だって気づいたときには、俺だって冷や汗ものだったぞ」
「…………」
寝耳に水の話だ。ヘンリーは無表情のまま瞳に力を込めた。
「指輪は、誰が持っているんだい?」
「お前の弟だ。後でちゃんと渡したぞ。さすがに映像にはめることはできないからな」
ロレンツォは愉快そうに笑い、大袈裟に大きな掌を振りまわした。いつもの如く。
ヘンリーは、そんな目の前に座る男を、冷笑を浮かべて見つめていた。
アレンは、スペアとしての条件を満たしていないのだ。この契約は不成立だ。吉野は、ルベリーニ一族すら使い捨てようとしている――。
欧州ルベリーニが宗主と『王』の交代を要請したところで、アレン・フェイラーは契約不成立を盾に『王』になることを断ることができる。フェレンツェでの契約は、あくまで立体映像との仮契約にすぎないのだから。だが、このからくりに気づいていない彼らは、アレンを全力で守るはず――。
――ロレンツォに首輪をつけてやった。
実態のない契約に、ロレンツォは気づいている。いったい吉野は、どういうつもりなのか。
ヘンリーの意識は完全に、ロレンツォから逸れていた。
だが、そんな彼の心情には一切かまわず、新年の予定、一族のパーティーへの誘い、と、ロレンツォのお喋りは延々と続いている。
ヘンリーは聞き流してはいるものの、さすがにうんざりして、少し黙っていてくれないか、と口を開きかけたとき、ドアが軽くノックされガチャリと開いた。
「時間だ。飛行機は予定通り飛ぶそうだよ。ヘンリー、準備して」
ヘンリーはこれで歓談は終わりだとばかりに、ロレンツォへ優雅に手の甲を差しだした。
アポイントなしで唐突に訪れた客に、ヘンリーは優雅に微笑みつつも軽く眉尻をあげている。
本社最上階の執務室の窓の外は、相変わらず重苦しい灰色の空が広がっている。昨日は雲を破って晴れ間を覗かせていたのに、ほんの束の間のことだったか。しんしんと雪が降りしきるこんな空模様で、飛行機は飛ぶのだろうか――、と目前の客人よりも、その後の予定の方がよほど気にかかっているヘンリーの耳に、開口一番、予期せぬ名前が飛び込んできた。
「アスカの弟――、お前、いったいあの小僧にどういう教育をしているんだ?」
ロレンツォは、冷淡なヘンリーの対応はいつものことと受け流して、勧められるのも待たずにどっかりと応接セットの定位置に腰をおろしている。
「どういう意味だい?」
「あの二枚舌小僧! あいつ、本当に飛鳥の弟なのか!」
「何を今さら。似ているだろ? 目元なんかそっくりじゃないか。そんなことより、彼が何かしたの?」
おもむろに立ち上がり、ヘンリーは薄らと笑みを刷いてロレンツォの向かいのソファーへと移動する。
「あの小僧が、狙撃を命令したのはベンジャミン・フェイラー、それに、その手先のルノーだと言った」
「違うのかい?」
「もう一人いた。そいつが偽装テロの首謀者だ」
「誰?」
苛立たしさを隠そうともせず、前置きもなく語られたこの内容では、ヘンリーもさすがに笑みを消さざるを得ない。わずかに眉根を寄せて、探るような視線をロレンツォに向ける。
「アブド・H・アル=マルズーク」
「マシュリク国国防大臣――」
意外でもあり、納得のいくものでもある聞き覚えのある名前に、ヘンリーは、くっくっ、と肩を震わせて笑いだす。予想通りのその反応に、ロレンツォはしかめっ面で文句をぶちまけた。
「あの小僧、知っていてわざと言わなかったんだ!」
ヘンリーは瞼を伏せ一頻り笑うと、自分に向かって投げだされた彼の感情的な不満にはまるで取り合うことなく、じっと黙り込んで思索に耽る。そしてロレンツォの方も、ヘンリーが何と返してくるのかをじっと黙って待っている。
やがて、ヘンリーの華やかな空の瞳がロレンツォに向けられた。
「嘘はついていないだろう?」
「そこが曲者だってことだ!」
息を吐くように、静かに軽やかに発せられた問いに、ロレンツォは更に腹だたしげに応えた。
「でもなぜ彼が? 偽装テロの邪魔をしたからかい?」
「あのテロは、中東との緊張を煽って原油価格を引き上げるための仕掛けに過ぎない。成功しようがしまいが、緊張が高まればそれでいい。あいつが狙われた理由は別だ」
ロレンツォはもったいぶって、大仰に片手を振り回す。
「あの小僧、マルセイユ・マフィアに、アブド・H・アル=マルズークの依頼を蹴るように手をまわしたんだ」
「……なんとも、顔の広い子だね」
吉野がマルセイユ・マフィアに繋ぎをとっていたことは、ヘンリーも知っている。だがその内容にまでは届かなかったのだ。
この場で知らされたことの真相には、さすがのヘンリーも二の句が告げない。まったく、飛鳥は彼にどういう教育を施してきたのだ? と彼の方が訊きたいくらいだ。
「依頼って、麻薬ルート、それとも暗殺?」
「暗殺だ。サウード・M・アル=マルズークのな。まだあるぞ。――聴きたいか?」
ロレンツォはここにきて呆れたように肩をすくめ、ふぅっとため息をついた。だがヘンリーの返事を待たずして、ふん、と歪な笑みを浮かべると早口で喋り始める。
「あの小僧、おまけにグレンツ社の通信網にウイルスをばら撒いてやがるんだ。実害がないから、社のトップ間で対処への意見が分かれているんだ。グレンツ社の通信網を使用しているなら、専用回線であっても機密情報はだだ漏れのはずだってのに。彼らの悠長さにも開いた口がふさがらない」
「それはまた、――彼らしいね」
漆黒の艶やかな瞳を不快そうに曇らせているロレンツォに、ヘンリーは半ば諦め顔で眉をあげてみせた。
「それくらいはやっているだろう、と予測はしていたよ。あの子の把握している情報量、まさしくコンピューター並だからね」
「解っていてなぜ野放しに?」
「どうしろと? 監禁して鎖に繋いでおけとでも? できるわけがないだろ。あの子はマシュリク国の財務アドバイザーだよ。彼の作ったウイルスにしても、手の打ちようがないんだ。今のハードではどうしようもない。あれに太刀打ちできるレベルのうちで開発している新型は、まだまだコスト的に一般市販できる水準じゃないしね」
「とんでもない野郎だな……」
大仰に目を丸めたロレンツォに同調するように、ヘンリーも吐息を漏らす。
「まったく、アスカの弟だけあってね。おまけにあのジェームズ・テイラーが、手塩にかけて育てた子でもある。金勘定では、きみのところもタジタジだろう?」
「南米か――」
ロレンツォは納得したように頷き、嘆息する。
「昨夜、さっそく仕掛けてきたぞ。原油先物が大暴落だ。今もまだ下げ止まらない。アラブ勢も、南米も、今頃泡食っているに違いない」
「それに、フェイラーもだろ?」
二人は互いに眼を見交わした。どちらからともなく苦笑いが溢れる。
「しかし、アブド殿下とはね。彼も厄介な相手を敵に回してくれたね。確か、今ロンドンに滞在中のはずだよ。僕にもアル=マルズーク家のニューイヤーパーティーの招待状がきているんだ」
「出席するのか?」
「自分の会社のパーティーにね。面倒だけど――。これこそ立体映像でも置いて、適当に相槌でも打たせておきたいよ」
冗談には聞こえないヘンリーのボヤキに、ロレンツォは声をたてて笑った。
「お前ならそのくらい平気でやるじゃないか。フェレンツェでも危うく騙されるところだった」
「フェレンツェ?」
「作らせただろ、お前の弟の立体映像を。指輪の儀式にでてきたのが映像だって気づいたときには、俺だって冷や汗ものだったぞ」
「…………」
寝耳に水の話だ。ヘンリーは無表情のまま瞳に力を込めた。
「指輪は、誰が持っているんだい?」
「お前の弟だ。後でちゃんと渡したぞ。さすがに映像にはめることはできないからな」
ロレンツォは愉快そうに笑い、大袈裟に大きな掌を振りまわした。いつもの如く。
ヘンリーは、そんな目の前に座る男を、冷笑を浮かべて見つめていた。
アレンは、スペアとしての条件を満たしていないのだ。この契約は不成立だ。吉野は、ルベリーニ一族すら使い捨てようとしている――。
欧州ルベリーニが宗主と『王』の交代を要請したところで、アレン・フェイラーは契約不成立を盾に『王』になることを断ることができる。フェレンツェでの契約は、あくまで立体映像との仮契約にすぎないのだから。だが、このからくりに気づいていない彼らは、アレンを全力で守るはず――。
――ロレンツォに首輪をつけてやった。
実態のない契約に、ロレンツォは気づいている。いったい吉野は、どういうつもりなのか。
ヘンリーの意識は完全に、ロレンツォから逸れていた。
だが、そんな彼の心情には一切かまわず、新年の予定、一族のパーティーへの誘い、と、ロレンツォのお喋りは延々と続いている。
ヘンリーは聞き流してはいるものの、さすがにうんざりして、少し黙っていてくれないか、と口を開きかけたとき、ドアが軽くノックされガチャリと開いた。
「時間だ。飛行機は予定通り飛ぶそうだよ。ヘンリー、準備して」
ヘンリーはこれで歓談は終わりだとばかりに、ロレンツォへ優雅に手の甲を差しだした。
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