胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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 ガラスを曇らせている細かな雫を掌で払って、吉野は窓を覗いた。眼下に広がる雪景色を眺めながら、独り言のようにぽつりと呟く。

「こんなに雪が多い冬は初めてだな」
「そうだね。去年もまぁまぁ降ったけれど。今年はすごいよね。異常気象かもしれないね」

 アレンは毛足の長い紺色のカーペットの上に足を伸ばして座ったまま、荷物を詰める手を休め、窓を覗く吉野を見上げる。

 せっかくクリスマスにはこの家に戻ってきてくれたというのに、吉野は翌日には、つまり今日これから、またサウードの邸に行くのだという。
 新年もサウードの一族のパーティーに参加しなきゃいけないんだ、と、面倒くさそうにボヤいている。
 嫌ならここに残ればいいのに……、とアレンはなんとも面白くない。勝手気ままに、自分の好きなようにしていない吉野は、吉野らしくない。そんなふうに思えてならないのだ。

「もう迎えの車が着くみたいだ」
 吉野は窓から離れ、急いで残りの荷物を詰め込んだ。手伝ってくれるのはいいのだが、優柔不断なアレンに任しておいたのでは、たかが着替え数着をボストンバッグに突っ込むだけのことが、いつまでたっても終わらない。

「門まで送るね」
 自分の選んだ服は置いていかれて、アレンはちょっとすねたように呟いた。けれど、押し殺している不満に比べれば、些末にすぎない。
 こんなことでぐずぐずしていると、置いていかれてしまう。アレンも用意しておいたコートを慌てて羽織り、吉野に続いて部屋をあとにした。



 連日の曇天も去り、空は晴れ渡っている。木立を覆う雪は傾きかけた夕日に映えて、きらきらと光を反射している。二人は雪の照り返しのあまりの明るさに目を眇めながら、溶けかけた雪をビシャビシャと踏んで、門までの道を連れ立って歩いた。

「ああ、そうだ。お前さ、なんでコンサートの代役であの曲を選んだんだ?」
 唐突に思いだしたのか、吉野が訊ねてきた。
「兄はヴァイオリンを練習するとき、必ずあの曲から弾くんだよ。だから、すごく好きな曲なのかな、て思っていて。僕もいつか一緒に演奏できたらいいな、って――」
 少しはにかんだように、アレンは小さな声で答えた。兄に知られたら恥ずかしい、そんな思いが透けて見える。
「ヘンリーに合わせて練習してたのか? ずっと、黙って? 音も出さずに?」
 揶揄うような吉野の口調に、アレンはぷっと膨れっ面を向ける。
「いいじゃないか。すごく幸福な時間だったんだよ、僕にとって」
「幸福――。良かったな、夢が叶って。神様からのプレゼントだ。お前、信心深いから」

 言いながら、ふっと遠くを見るように目を細めた吉野に、アレンは嬉しそうに微笑んで応える。

「違うよ、ヨシノ。きみだよ、毎年のクリスマスに欠かさず素敵なプレゼントをくれるのは」
「お前、安上がりだな。あんなカードでいいのか!」
 驚いてまじまじと見つめてきた吉野に、アレンは笑って首を振る。
「初めて英国で迎えたクリスマス、僕は、一人ぼっちだった。でも次の年は、きみがいてくれた。初めて友人と一緒に過ごしたクリスマスだった。その次の年は、ここで迎えただろ? きみや、兄、アスカさんやサラも一緒。初めての家庭で過ごしたクリスマスだ」
「家庭で、って――。ロスの家だって、パーティーするんじゃないのか? ヘンリーだって、ずっとクリスマスには行っていたんだろ?」

 とつとつと喋りながら視線を伏せたアレンを横目に見ながら、吉野は訝しげに眉を寄せる。

「祖父の招待客の前で、兄はヴァイオリンを、僕はピアノを披露して――、それだけだよ。兄の滞在中でも、僕は兄を遠くから見ているだけだったしね」

 アレンは、セレストブルーの瞳を暗く沈め、寂しげにその形の良い唇を歪める。だがすぐに、にっこりと微笑むと、わざと弾んだ声で言葉を継いだ。

「そして今年は、父と迎えるクリスマスだったなんて! これこそ奇跡だよ、きみのおかげだよ」
「俺、何もしていないぞ」

 首を傾げる吉野に、アレンは夢見るようなふわりとした微笑みを浮かべて言った。

「きみの言葉がなければ、僕は父に会う勇気なんて持てなかったもの」

 言い返そうと口を開きかけた吉野を遮るように、アレンは言葉を重ねる。

「ね。全部きみが僕にくれたんだ」
「馬鹿だな、全部お前が自分で掴んだんだよ。お前が自分でヘンリーや周りを動かしたんだ。俺は関係ないよ」

 関係ない――。
 その突き放されたような言い様に、アレンはがっかりと肩を落として唇を尖らせた。だが、吉野はいつもこんな偽悪的な意地悪な言い方をするじゃないか、と萎えかけた心をたて直して笑顔を作る。

「きみは? きみは、幸せ?」

 昨夜の東屋での吉野の穏やかな笑みを思いだし、アレンは気を取り直して瞳を輝かせて訊ねた。返ってくる答えは分っている。ただ、吉野の口から聴きたかったのだ。

「俺? 幸せだよ。飛鳥はここで好きなことをしていて、命を脅かされる心配もない。俺、安心していられるもの」

 樹々の狭間に見えてきた黒い鉄門に目をやりながら、吉野は淡々と答えた。

 ドサッ、と樹の梢から溶けかけた雪が地面に落ちる。

「アスカさんの話じゃないよ。きみの話をしているんだよ?」

 アレンは半歩前を行く吉野の腕を取り、立ち止まった。門はもうすぐそこだ。鉄門とその向こう側に停るリムジンの黒だけが、白銀の世界に異質な存在感を放っている。
 アレンは、吉野の返事を聞かずに別れるのが嫌だった。きっとこの休暇中、もやもやした気持ちで過ごしてしまうから……。
 そんな想いで押し潰されそうなアレンの切羽詰まった顔を、吉野はきょとんと見つめ返した。

「だから言ったろう? 飛鳥の幸せが、俺の幸せだ」

 大真面目な吉野の澄んだ鳶色の瞳に、自分の、驚いた、どこか間抜けた顔が映っている。アレンは眉をひそめ、掴んでいる吉野の腕を力を込めて握り、再度問うた。

「きみ自身はどこにいるの?」

 門の向こう側で待つリムジンから、クラクションがけたたましく鳴らされる。黒いウインドウがすっと下ろされ、吉野を呼ぶ騒々しい声が響く。

「あいつら、わざわざ来たのか! サウードの親戚連中なんだ」

 ちらとアレンに言い訳すると、吉野は軽く眉を寄せて舌打ちし、叫んだ。

「今、行く!」
 そして彼らからアレンを隠すように背を向けて立つと、「ほら、もう戻れよ。あいつらがお前を見つけたら絶対煩いからさ」と、今きた石畳を顎をしゃくって指し示す。

「風邪ひくなよ」
 その一言だけで、もう振り向くことすらなく吉野は行ってしまった。アレンの問い掛けに答えることすら忘れて。

 あまたの声がさんざめく。その中に、吉野のちょっと怒ったような声が交じっている。アレンには解らない言語の――。

 アレンはくるりと踵を返した。口をへの字に結んで、俯いて。まだ溶けずにいる残雪を、ズシャッ、ズシャッ、と選んで踏み散らしながら駆けだしていた。



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