胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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「ハーフターム、きみはどうするの?」
「――バルセロナかなぁ」

 早足で教室移動に向かうサウードに付き合いながら、吉野はまだ何とも決めかねているという体で答えた。一週間後のハーフタームには飛鳥もスイスから戻っているし、久しぶりに会いたい。だが、やるべきことも山とあるのだ。

「アリーがリハビリを終えて戻っているんだ。もしきみさえかまわないなら、警護を継続させてやってもいいかい? 不足であれば別の者を用意するよ。どうする?」

 ちらりと向けられた漆黒の瞳に応えて、吉野は嬉しそうに目を細める。

「もう良くなったんだな。後遺症は?」
「鍛えているからね。問題ないよ」
「そうか、良かった。もちろん、アリーでいいよ。でも向こうに行くとボルージャが誰か付けてくるだろうし、今回は護衛の必要はないな」

 吉野は軽く首を捻る。学舎の入口で立ち止まり、サウードはいつもの鷹揚な笑みを浮かべて言った。

「フェレンツェであんなことがあったのに? 僕は、ルベリーニは信用できない」
「まぁ、いいよ。アリーがいると色々助かるしな」

 頷いて扉の向こうに消えたサウードを見送ると、吉野はぶらぶらと芝生を踏みしめ歩きだす。

「トヅキ」
 背後から呼び止められ、笑みを浮かべて振り返る。
「暇そうだな」
「とんでもない。いつだってぎしぎし頭を使っていますよ」
 大きな口を最大限に横に引いた作り物のような笑顔を向ける上級数学の教師に、吉野はひょいと肩をすくめて見せた。
「暇なら少し手伝ってくれないか」
 苦笑する吉野の背に手を当てて促し、彼はもうせっかちに歩き始めている。ひょろりと長身で白髪のブラウン先生は、その神経質そうな外見に違わず難しい人だ。辛辣で厳しい性格のせいか、生徒から恐れられている。
 だが、吉野は彼が嫌いではない。
 唇を跳ねあげる、笑っているのか皮肉っているのか判らないような吉野の笑顔を見て、彼は痩せた骨ばった手でぽんぽんとその肩を叩いた。
「なぁに、そう手間は取らせんよ」



「ヨシノは?」
 談話室でチェス盤を前にして発せられたこの問いに、アレンはクスクスと笑いだした。
「それって、降参ってこと?」
 膨らませた頬に思い切り唇を尖らせ、クリスは首を横に振る。
「違うよ! 訊いただけ。ヨシノのアドバイスが欲しかったわけじゃないよ!」
 言いながらじっとチェス盤を睨み、ため息をつきながら駒を動かす。
「じゃぁ、チェックメイト」
 アレンはにっこりして、優雅な仕草で駒を置く。

「あー!」
 クリスはしばらくじっと盤上を眺めていたが、大きくため息をついて大げさに腕をあげ、降参のポーズを取った。
「きみ、強くなったね。ヨシノに教えてもらったの?」
 もうその顔はにこにこと笑っている。
「休暇中、暇なときにね」
 羨ましそうなクリスの視線に、アレンはにっこりと笑みを返す。

「そういえば、ハーフタームの予定は決まってる?」
「ケンブリッジかな。予定もないし」
「ヨシノは?」
「特に聞いていないけど、同じじゃないかな。アスカさんが戻ってるし」
「ロンドンで会う? 彼女を紹介するよ」

 きらきらと瞳を輝かせて顔を寄せ、声を潜めて告げたクリスに、アレンも嬉しそうに頷いて顔をほころばせた。

「フレッド!」
 ちょうど室内に入ってきたフレデリックを、クリスは片手をあげて呼ぶ。
「きみの予定は?」
「ハーフターム?」
 うーん――、とフレデリックは小首を傾げている。
「あれ、予定入っているの?」
 クリスは驚いて素っ頓狂な声をあげた。
 同じロンドン出身の彼らは、これまでのハーフタームはほとんどと言っていいほど、一緒に計画を立ててきたのだ。
 まさか、今回に限って首を捻られるなんて……。

「やりたいことがあって」
「試験勉強だろ? 真面目だもんな、フレッドは!」
「まぁ、そうかな」
「彼女を紹介したかったのに……」
「本当? 一日くらい平気だよ。彼女って、ロンドンっ子だっけ?」

 傍らの椅子を引き、興味津津といった様子で瞳を輝かせてフレデリックは微笑んだ。その反応にほっとしたクリスは、フレデリックと、パンッと互いの手を打ち鳴らす。

「あれ? クリスのターンかな? これ、まだ指せるよ。チェック」
 ふと目に留まったらしい盤を眺めてフレデリックが動かした駒に、アレンは「あー!」と声をあげる。

「もう終わっているよ、これ。チェックメイト」
 すっと伸びてきた手が白の駒を動かした。アレンは、首を伸ばして背後に立つ吉野を見あげる。
「もう! 解っていたのに!」
「嘘つけ」
 くしゃりと頭に置かれた手に、アレンはつい不満そうに目を細める。

「ヨシノ、もうそんな風に頭を撫でるのやめてくれる? 小さな子どもみたいで恥ずかしいよ」
 真っ直ぐに見あげられ真面目な声で告げられた言葉に、一瞬吉野は呆気に取られ、継いで少し寂しげに唇を歪めた。
「解った。ごめんな」
 さらりとアレンの髪をひと撫でしてから手をどけて、そのまま置きどころがないように首の後ろに回す。
「監督生だもんな」

「ヨシノ、ハーフタームの予定は?」
「ん? 多分、フェレンツェ。ロニーのところ」
 腕を組み、吉野は腰壁のわずかな出っ張りにとりあえず腰かけている。
「え? 僕は?」

 そんな話は寝耳に水のアレンはびっくりして聞き返す。
 ルベリーニの件なら僕だって必要なはずだ。彼ら一族と契約したのは僕なのだから――。
 そんな強迫的な義務感が汗と一緒に吹きだしていた。

「お前はいいよ。ただの財務処理だから」
「休み中ずっといないの? 一日くらいなんとかならない?」
 がっかりと肩を落とすクリスに、吉野はちょっと首を傾けた。
「ごめんな」

 彼の左側にいたアレンには、細められた吉野の目が、申し訳なさそうに謝っているのか、それとも笑っているのか、判らなかった。



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