胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 ヘンリーが話し終えるのを待ちかまえていたように、アーネストは大きく目を見開いて驚愕の声をあげている。
「これ、うちの法律事務所で扱っちゃ駄目なの? この資料を見る限り、相当な賠償金を取れそうなんだけれどな」
「『杜月』の訴訟の時くらい?」
「もっと。その倍か、それ以上にはなる。それに賠償金だけじゃないよ。この四件の特許は、ガン・エデン社の携帯端末の基幹部分の技術だよ。上手く製造・販売中止まで追い込めば、膨大な損失をだすことになるよ、あの会社」
 いつも冷静なアーネストには珍しく、興奮した面持ちで語っている。
「もったいないなぁ、こんな美味しい案件を他に譲らなきゃならないなんて――」
 ねだるように上目遣いに見たところで、ヘンリーは申し訳なさそうに微笑むだけだ。

「でも、彼がね――」
「本当に予想の上をいく策士だね、あの子」


 パテント・トロール。
 特許搾取者、特許マフィアとも揶揄される『特許不実施主体』のことをいう。彼らはもともとその特許を取得したのでもなければ、その特許を用いた製造販売を行っている訳でもない。そんな実態不明瞭な特許ライセンス供与会社が、大企業をターゲットに特許侵害で賠償金やライセンス料を目当てに訴訟を起こすのだ。

 確かに自社製品に使われている訳でもない特許侵害をアーカシャーHDが申し立てれば、難癖をつけている、意図的な悪意ある攻撃と、世間から受け取られかねない。パテント・トロールという膜を通せば、無知で表面的な善悪でしか物事を判断しない、そんな連中の目も誤魔化せるというものだ。

 ――何よりさ、悪名高いパテント・トロールなら、狙いは金だって思われるだろ? 争点はあくまで賠償金額だって思わせるんだよ。できるだけ裁判を長引かせてあいつらを疲弊させるんだ。時間を稼ぐんだよ。


 ヘンリーから聴かされた吉野の思惑に、アーネストは内心舌を巻いていた。どんなに惜しいと思ったところで、目先の利益よりも最終的に得られる見返りを選ばねばならないことに疑いの余地はないのだ。


「あくまでアーカシャーHDとは関係なく、か……」
 残念そうにため息をひとつ吐いて、アーネストは押し黙る。だが、そのヘーゼルの瞳がくるくると表情を変えて、頭の中では活発に思考が巡らされていることを物語っている。
「そうだね、とにかく、うちと提携している米国の法律事務所をあたってみるよ。知的財産権侵害事犯に強い事務所をね。アーカシャー米国支部の顧問とは違うし、そこに任せていいんじゃないかな」
「きみに任せるよ。米国でのペーパーカンパニーの設立までは彼が済ませているからね。訴訟以降のことは、すべて一任するそうだよ」

 すべて任せる――。簡単に言ってくれる! 英国に来てから、いや、金融市場に戻ってから、あの子はいったい、どれほどの資産を築きあげているのだろうか? 
 この訴訟に掛かるであろう空恐ろしい額の費用と時間を想定し、アーネストはなんともいえない複雑な吐息混じりの微苦笑を漏らす。
 そんなアーネストの考えていることを察したように、ヘンリーも困ったような、曖昧な笑みを浮かべてひょいと肩をすくめていた。




「ヨシノ、お茶を」
 ガチャリと開けたドア一枚を隔てて闇色の異空間が広がっている。足先から凍りつくような緊張に、アレンの持つトレイの上のティーセットがカチャカチャと小刻みに震える。

 落ち着け、落ち着け!

 ぎゅっと目を瞑り、呪文のようにその言葉を繰り返して立ちすくんでいると、ふと腕が軽くなった。ティーセットのコトリと置かれる音が近くで聞こえた。確かめるように薄目を開けると、広がる宇宙にまたもやくらりと目眩がする。

「そのまま目を瞑ってろ。部屋の外まで送るよ」
 吉野の手が背中に当たる。
「平気だよ。アスカさんに酔わないためのコツを教えてもらったんだ」
 アレンはほとんど手探りで吉野の腕を掴む。
「ソファーまで連れていって。座ればもう少しマシなんだ」
 強気で言葉を発していても、その声は震えている。

 アレンは目を瞑ったままソファーまで誘導してもらい腰を下ろした。少しずつ身体の位置をずらし、五人掛けソファーの端に、にじり寄って深く息をついて目を開ける。

「ほら、大丈夫だ。アスカさんの言った通り!」

 アレンは吉野に視点を合わせ、彼を中心にして包み込むように広がる星空を、ふわりと力の抜けた笑顔で眺めていた。肩からすうっと力が抜けていた。

 星灯りの中に浮かぶ吉野は、とても静かだ。逃げ帰らなくてよかった――。そんな想いから、自然に彼の口許も緩んでいた。

「視点を固定すれば酔わないのか――」
 吉野は立ち上がって、紫紺の空間に足を踏みだす。
「お前にはこの宇宙はどんなふうに見える? ただの無限に広がる無秩序な空間?」

 まるで独り言のようだ。
 返事を待っているふうもなく、吉野は言葉を続けた。

「この星のひとつひとつな、計算されて配置されているんだ。反発し合いながら引き合って、互いに響き合い調和を生みだすんだよ。音楽みたいだよ。だから俺は酔わない。軌道が見えるもの」

 吉野は両腕を広げてつま先立ちをして、頭をくいっと上に向ける。

「ここなら俺も飛べる気がする」

 吉野が、にっこりと笑ったように見えた。

「でも、この宇宙は凄く危険だ。飛鳥の言っていた意味が解ったよ」

 アレンはぼんやりと吉野を見つめていた。酩酊するような恍惚感が全身をひたひたと浸し、何重いくえにも重なりあう吉野の柔らかな低い声音が、果てのない空間に響いているようだった――。



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