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六章
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人の気配に何げなく振り返った吉野の表情が、一瞬で凍りついていた。すぐに腰かけていた欄干から飛び降りている。
「ちょっと待った! 俺が持ってるのは、重要文化財級の龍笛なんだからな! 池に突き落とすのだけは勘弁な!」
吉野の慌てぶりに、彼の横に座っていたサラも小首を傾げて振り返った。吉野に合わせて滑るように欄干から降りたサラの手元から、バサバサ、と書類の束が落ちてしまった。
「あ!」
小さな叫び声と共にそれは辺りに散らばって、数枚はふわりと風に乗り、池の面に漂い落ちてしまった。
池の傍からぼんやりと二人を見つめていたアレンの視線が、水面に張りついた紙に移る。彼はすぐに静かに革靴を脱ぎ捨てて、土手を固める雑草を踏みしめた。
「取ってくる」
「おい、馬鹿、やめろ!」
水の中に足を踏み入れたアレンの身体が、がくんと沈む。吉野は足下の布袋の上に龍笛を置くと駆けだした。
「大丈夫か?」
バシャリと水面に半身を起こし、びっくり眼でずぶ濡れの髪をかきあげているアレンに目を細め、吉野は、ほっとしたようにくすくすと笑った。水深はアレンの胸元程度だ。溺れることもない。自分が設計したのだから、それくらい知っていたはずなのに――。慌てた自分がおかしかったのだ。
「見た目より深いんだよ」
「こんなに底が近く見えるのに」
「光の屈折のせいだよ」
言われてアレンは、蒼く広がる空を仰いだ。ゆっくりと視線を落とし水中の自分の足下を見る。青にも緑にも染まる水底を。
「水草を引っ掛けるなよ」
アレンは頷き、浅く水を掻いて進んでいった。緩く漂う書類を拾い上げる。だが、その場に佇んだまま、不思議そうに頭上を見上げ、継いで水面を、そして周囲を見廻している。
「綺麗だね。水の中にいるのか、空の中なのか判らなくなる」
やがて彼は、ぽつりとそう呟いた。
息を止めて静かに視線を落とすと、緑を茂らす樹々と広がる空が水面に揺れる。自分の像も曖昧に揺れる。まるで空に溶けた自分の身体から生えた睡蓮の花がぽっかりと咲いているようだ。
「おい、泳ぐための池じゃないんだぞ」
唇を尖らせる吉野に、ふわりとアレンは微笑を返した。
「どうしてこんなに綺麗な水なの? こんなの今まで見たことがないよ」
池からあがったアレンは、サラへの遠慮のためか背を向けてシャツを脱ぎ、ぎゅっと絞っている。だがその視線は池に据えられたままで、不思議そうに小首を傾げていた。
池の中を歩いていても砂塵が舞うことすらなかったことが、気にかかっていたのだ。今もこの水は、何事もなかったように清く透き通ったままだなんて。
「水、冷たくなかっただろ? 濾過した水を人工的に対流させているんだ。それに、ゴードンがまめに掃除してくれているからな」
吉野は自慢げに目を細めている。
「あ、ヘンリーが帰ってきた。――庭にいる。今から戻るよ」
唐突な言葉は、どうやら電話の受け答えらしい。吉野はTSを入れてあるカーゴパンツのポケットに手を突っ込むと橋まで戻り、放ったらかしていた龍笛を丁寧に金襴の袋にしまい、さらに筒状のケースに入れる。そして、ついでに思いだしたように、くるりとアレンのいる方へ向き直った。
「おい、ちゃんとバスタブに浸かって温まれよ。これは水温が高めだから今はあまり寒く感じてないんだろうけど、ここは英国なんだからな。イタリアより気温はぐっと下がっているんだぞ。いつまでも南欧ボケしてるんじゃないぞ」
皺だらけの濡れたシャツに袖を通していたアレンに、子どもを諭すように言うだけ言って、返事も待たずに、「行くぞ」と今度はサラに顎で命令するかのように歩きだしている。
バサバサと書類をまとめていたサラはぎくしゃくと頷くと、機械仕掛けの人形のように無表情のまま、けれど、そのライムグリーンの瞳だけはいっぱいに見開いて、「書類、拾ってくれてありがとう」と震える声で、肩越しに振り返っているアレンに告げた。
「僕は彼女を怖がらせてしまったのかな――」
二人が急ぎ足で去って行くのを見送りながらぽつりと呟いたアレンを、デヴィッドはケタケタと声を立てて笑い飛ばした。
「彼女、判りづらいからねぇ。あれは喜んでいる顔だよ、うん」と自信有りげににっこりする。
アレンは自嘲的に苦笑し首を振る。
「でも――、デヴィッド卿、僕はヨシノが驚くほど、そんなに醜い顔をしていましたか?」
吉野の言葉に恥じ入って、アレンはどこでもいいから隠れたかったのだ。
囁くように呟かれたその言葉に、デヴィッドは眉を寄せ真剣な声音で意異を唱えた。
「きみは、いつだってすごく可愛くて、綺麗だよ」
継いで大袈裟な吐息を漏らし、アレンの肩を叩く。
「だから、写真いっぱい撮っちゃったよ! 新しいポスターを作ろう! やっぱりさぁ、見本市の奴は、験が悪いっていうかぁ、新しいの出そうよ! きみも手伝ってくれるだろ? もう何枚も作ってきたのにさぁ、きみがこんなに絵が好きだなんてちっとも知らなかったよ! 一緒にデザイン考えようよ! ――でもその前に、まずきみはバスに浸かってぇ、僕はメアリーにお茶とお菓子を頼んでおくよ。うるさい吉野がいないうちに、一緒に思いっきり甘いお菓子を食べようねぇ」
最後の方は声を潜め、耳許に口を寄せて内緒話のように囁かれていた。そこに吉野がいる訳でもないのに――。
アレンはにっこりと微笑んで口を開きかけたけれど、くしゅん、と大きなくしゃみをして身体を縮こまらせていた。樹々の梢をざわつかせる風は、そんな彼を嬲るように通り過ぎていく。
ぶるりと身震いして見上げた空に散らばる鱗雲が、夏の終わりを告げていた。
「ちょっと待った! 俺が持ってるのは、重要文化財級の龍笛なんだからな! 池に突き落とすのだけは勘弁な!」
吉野の慌てぶりに、彼の横に座っていたサラも小首を傾げて振り返った。吉野に合わせて滑るように欄干から降りたサラの手元から、バサバサ、と書類の束が落ちてしまった。
「あ!」
小さな叫び声と共にそれは辺りに散らばって、数枚はふわりと風に乗り、池の面に漂い落ちてしまった。
池の傍からぼんやりと二人を見つめていたアレンの視線が、水面に張りついた紙に移る。彼はすぐに静かに革靴を脱ぎ捨てて、土手を固める雑草を踏みしめた。
「取ってくる」
「おい、馬鹿、やめろ!」
水の中に足を踏み入れたアレンの身体が、がくんと沈む。吉野は足下の布袋の上に龍笛を置くと駆けだした。
「大丈夫か?」
バシャリと水面に半身を起こし、びっくり眼でずぶ濡れの髪をかきあげているアレンに目を細め、吉野は、ほっとしたようにくすくすと笑った。水深はアレンの胸元程度だ。溺れることもない。自分が設計したのだから、それくらい知っていたはずなのに――。慌てた自分がおかしかったのだ。
「見た目より深いんだよ」
「こんなに底が近く見えるのに」
「光の屈折のせいだよ」
言われてアレンは、蒼く広がる空を仰いだ。ゆっくりと視線を落とし水中の自分の足下を見る。青にも緑にも染まる水底を。
「水草を引っ掛けるなよ」
アレンは頷き、浅く水を掻いて進んでいった。緩く漂う書類を拾い上げる。だが、その場に佇んだまま、不思議そうに頭上を見上げ、継いで水面を、そして周囲を見廻している。
「綺麗だね。水の中にいるのか、空の中なのか判らなくなる」
やがて彼は、ぽつりとそう呟いた。
息を止めて静かに視線を落とすと、緑を茂らす樹々と広がる空が水面に揺れる。自分の像も曖昧に揺れる。まるで空に溶けた自分の身体から生えた睡蓮の花がぽっかりと咲いているようだ。
「おい、泳ぐための池じゃないんだぞ」
唇を尖らせる吉野に、ふわりとアレンは微笑を返した。
「どうしてこんなに綺麗な水なの? こんなの今まで見たことがないよ」
池からあがったアレンは、サラへの遠慮のためか背を向けてシャツを脱ぎ、ぎゅっと絞っている。だがその視線は池に据えられたままで、不思議そうに小首を傾げていた。
池の中を歩いていても砂塵が舞うことすらなかったことが、気にかかっていたのだ。今もこの水は、何事もなかったように清く透き通ったままだなんて。
「水、冷たくなかっただろ? 濾過した水を人工的に対流させているんだ。それに、ゴードンがまめに掃除してくれているからな」
吉野は自慢げに目を細めている。
「あ、ヘンリーが帰ってきた。――庭にいる。今から戻るよ」
唐突な言葉は、どうやら電話の受け答えらしい。吉野はTSを入れてあるカーゴパンツのポケットに手を突っ込むと橋まで戻り、放ったらかしていた龍笛を丁寧に金襴の袋にしまい、さらに筒状のケースに入れる。そして、ついでに思いだしたように、くるりとアレンのいる方へ向き直った。
「おい、ちゃんとバスタブに浸かって温まれよ。これは水温が高めだから今はあまり寒く感じてないんだろうけど、ここは英国なんだからな。イタリアより気温はぐっと下がっているんだぞ。いつまでも南欧ボケしてるんじゃないぞ」
皺だらけの濡れたシャツに袖を通していたアレンに、子どもを諭すように言うだけ言って、返事も待たずに、「行くぞ」と今度はサラに顎で命令するかのように歩きだしている。
バサバサと書類をまとめていたサラはぎくしゃくと頷くと、機械仕掛けの人形のように無表情のまま、けれど、そのライムグリーンの瞳だけはいっぱいに見開いて、「書類、拾ってくれてありがとう」と震える声で、肩越しに振り返っているアレンに告げた。
「僕は彼女を怖がらせてしまったのかな――」
二人が急ぎ足で去って行くのを見送りながらぽつりと呟いたアレンを、デヴィッドはケタケタと声を立てて笑い飛ばした。
「彼女、判りづらいからねぇ。あれは喜んでいる顔だよ、うん」と自信有りげににっこりする。
アレンは自嘲的に苦笑し首を振る。
「でも――、デヴィッド卿、僕はヨシノが驚くほど、そんなに醜い顔をしていましたか?」
吉野の言葉に恥じ入って、アレンはどこでもいいから隠れたかったのだ。
囁くように呟かれたその言葉に、デヴィッドは眉を寄せ真剣な声音で意異を唱えた。
「きみは、いつだってすごく可愛くて、綺麗だよ」
継いで大袈裟な吐息を漏らし、アレンの肩を叩く。
「だから、写真いっぱい撮っちゃったよ! 新しいポスターを作ろう! やっぱりさぁ、見本市の奴は、験が悪いっていうかぁ、新しいの出そうよ! きみも手伝ってくれるだろ? もう何枚も作ってきたのにさぁ、きみがこんなに絵が好きだなんてちっとも知らなかったよ! 一緒にデザイン考えようよ! ――でもその前に、まずきみはバスに浸かってぇ、僕はメアリーにお茶とお菓子を頼んでおくよ。うるさい吉野がいないうちに、一緒に思いっきり甘いお菓子を食べようねぇ」
最後の方は声を潜め、耳許に口を寄せて内緒話のように囁かれていた。そこに吉野がいる訳でもないのに――。
アレンはにっこりと微笑んで口を開きかけたけれど、くしゅん、と大きなくしゃみをして身体を縮こまらせていた。樹々の梢をざわつかせる風は、そんな彼を嬲るように通り過ぎていく。
ぶるりと身震いして見上げた空に散らばる鱗雲が、夏の終わりを告げていた。
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