胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「どこよりも、この大聖堂に来てみたかったんだ」
 朝一番に訪れたドゥオーモ広場の中心に佇んで、そびえ立つ荘厳な大聖堂を見あげた吉野は、小さく吐息を漏らし嬉しそうに目を細める。
「ヨシノ、建築に興味あるの?」
 アレンは意外そうに小首を傾げる。これまでいろんな所を訪れたが、彼がこんなに嬉しそうに声を弾ませているのは初めてだったのだ。
「建築も、美術も、キリスト教も面白いよ」
 吉野は大聖堂に向かって歩きだしながら、肩越しに振り返って答えた。驚きすぎて、ぼんやりつっ立ったままだったアレンは、あっと慌ててそのあとを追う。

 イタリアを代表するゴシック建築物であるミラノ大聖堂ドゥオーモは、雲ひとつない青空の下、その白い壁面を輝かせている。
 一つ一つを丁寧に見ていけば、それだけで一日が終わってしまいそうな壁を飾る彫刻や、青銅の大扉のレリーフの数々をアレンが惚れ惚れと眺めている間に、吉野は早々とチケットを買っている。


 大聖堂の内部に足を踏み入れると、肌に感じる温度が急に下がって石造りの教会特有のひんやりとした空気に切り替わる。林立する柱、遥か高みを覆うアーチ型の天井、薄暗い視界の中で最奥から差す、縦に高く伸びるステンドクラスの自然光は、まるで迷いこんだ森の中で見つけた唯一の出口の様だ。
 吉野はここでも、聖書の物語が綴られているステンドグラスや、キリスト教の歴史を描いた油絵の掲げられた広く高い壁をじっくりと見て廻っているアレンが満足するまで、祭壇まで続く会衆席のひとつに腰かけて待っている。


「来たかったっていうわりに、ヨシノ、見ていないんじゃないの?」
 思う存分堪能してにんまりと頬を緩ませていたアレンは、大聖堂の扉をくぐりぬけて再び日の差す表に出てくると、少し納得のいかない視線を吉野に向けた。
「俺が見たかったの中じゃないもん」
 吉野はさらりと答え、ホテルのあるアーケードへ戻ろうとするアレンを呼び止める。
「そっちじゃない」
 そして側面へ廻り、「屋上へ上がれるんだ」と大聖堂の尖塔を指さした。



 階段とエレベーターと選べるけれど、どっちがいい? と訊かれ、アレンは階段、と答えた。
 最後の方は息を弾ませながら登りきる。
 現れた蒼穹の中で、天に向かって伸びる尖塔に立つ聖人たちの彫像は、まるで空宙に浮かんでいるかのようだ。そして、そんな彼らの視線の先には、ミラノの街が広がっているのだ。この高みから見守っているかのように――。
 地上から見上げた時とはまた違う壮麗さに息を呑むアレンに、吉野は、こっち、と顎で示して歩き続ける。


 まるで魚の背骨のように置かれた左右に傾斜する屋根の中心にある積石のひとつに、吉野はすとんと腰をおろした。
「ここ、ここに来たかったんだ」
 嬉しそうに、片方の唇をくいっと上げる。
「ああ、きみ、高いところが好きだものね」
 にっこりと笑ったアレンへの吉野の反応は渋面だ。
「なんだよ、それじゃあ俺、馬鹿みたいじゃん」
 拗ねたように言い、「ここな、ガキのころに見た古いモノクロ映画のシーンに出てくるんだよ。最近やたらとそれを思いだしてさ、それで来たかったんだ」と眉をあげる。

「なんて映画?」
「知らない。祖父ちゃんの見ていた映画を、チラチラ見ていただけだから」
 アレンは納得できずに首を傾げた。
「兄弟でな、一人の女を取りあうんだ。兄貴の方はろくでなしでさ、その女は弟の恋人なのに、弟はさ、兄貴のために兄貴のところへ行けって、ここで別れ話をするんだよ。それでさ、この屋根を女がだーと泣きながら走るんだ」
「うん――」
「それでな、最近、ドストエフスキーを読んだときにな、あの映画の弟のキャラとか兄弟の関係性ってさ、『白痴』と『カラマーゾフの兄弟』をごちゃまぜにしてベースにしているんだな、って判ってさ」
「ヨシノ、小説なんか読むんだ――」
「お前、俺のこと馬鹿にしてる?」
 冷たい瞳で一瞥され、アレンは慌ててぶんぶんと首を振る。
「だってきみ、いつも忙しくしているから」
「本くらい読むよ。だいたいお前、古典的名作ぐらい読んでおかないと、エリオットじゃ恥かくだろ?」
「うん」

 どちらかというとロシア文学よりも、ギリシャ古典の話題を吹っかけられることの方がずっと多い気がするけれど……。アレンはつい真剣に身の回りの文学談義を回顧する。

「ヨシノは、ロシア文学が好きなの?」
「ていうより、この二作品が。主人公がな、飛鳥に似ているんだ。映画の方もな」
 吉野は目を細めて言った。ふわっとかもす空気が軽くなる。
「僕も読んでみるよ」
 アレンは首を傾けたまま、じっと吉野を見つめて言った。
「ろくでなしの兄貴が、俺みたいだって言うなよ」
 吉野の瞳が悪戯っぽく光っていた。


 映画の題名くらい、きっと吉野は知っている。これだけ内容が解れば、ネットで検索すればヒットする。アレンに教えないのは、吉野がこの映画を見たくないからだ。少なくともアレンと一緒には。きっと、もとになった二冊の本以上に、その映画には意味がある。この場所に来たいと、彼を動かすほどの――。

 アレンは、口を閉じ組んだ膝に頬杖をついて視線を漂わせている、静かな吉野を見つめた。

 こんな時は話しかけてはいけない――。

 涼やかな風に吹かれながら、アレンもまた、大聖堂を包んで広がる静寂な空を眺めた。

 やはりここは天に近い。ゴシック建築は、高く、高く、天に向かって背伸びする。
 天を見上げる人を、神は見下ろして下さっているのだろうか? 互いの顔は向き合っているのだろうか?

 ふと胸に沸いたあまりにも不遜な問いを恥じて、アレンは瞼を伏せてしまった。


「ちょっと、ひどくない、二人とも? 僕を置いていくなんてさ!」

 その声に、ぼんやりとしていた二人の意識が急に現実に引き戻される。振り返ると、膨れっ面のデヴィッドが仁王立ちで睨んでいる。

「おはよう、やっと起きたのか?」
 吉野の揶揄うような声に、デヴィッドは思いっきりしかめっ面を返してきた。



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