胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「どうしたの、アスカちゃん?」

 窓のない白壁に囲まれた休憩室に並べられているリクライニングチェアーの上に膝をあげ、飛鳥は丸く縮こまっている。その背中をデヴィッドは指先でとんとんと叩く。顔を隠すように膝に埋めていた飛鳥は、ゆっくりと傍らのデヴィッドを振り仰ぐ。

「ヨシノ、夕方には出発するよ。見送りに行かないの?」
「うん。午前中に会ってきた」
 折りたたんだ膝に顎をのせ、飛鳥は小さく微笑んだ。 

「喧嘩したぁ?」
 飛鳥に向き合ってフットスツールに腰かけると、デヴィッドは彼の浮かない顔を覗き込む。飛鳥は苦笑いして首を振り、「説教に行ってね、説教されて来たんだ」と小さくため息を漏らし、丸めた身体をさらに縮めるように肩をすくめた。

 今すぐ穴の中にでも潜りこみたい、みたいだな。と、デヴィッドはクスクス笑いながら、そんな飛鳥に目を細める。

「吉野は大人になったよねぇ」
「え!」

 だが予想外の飛鳥の呟きにぎょっとして、デヴィッドはしどろもどろになりながらしきりに頭をかいた。まさか吉野ののことを吉野自身が飛鳥に話すなどと、想定外もいいところだ。
「いや、アスカちゃん、違うんだよ、」と、どう説明したら良いものやら大慌てだ。

「違うって、何が?」
「だから、その――」
 ん? と顔を傾げた飛鳥だったが、「あ! もしかしてきみも知っていたの?」と急に唇を尖らせる。
「吉野がアレンのお祖父さんに株式のアドバイスをして、それで彼、学校に戻ってこられるようになったって!」
「え? ああ、そう、確かそうだったね。アレンがそう言っていたね」
 デヴィッドは、はははと引きつった笑いを発しながら何度も頷く。
「やっぱり、僕だけなのか。何も知らなかったのは……」

 憮然としている飛鳥を慰めるように、デヴィッドは飛鳥の髪をよしよしと撫でてやる。

「アスカちゃん、そうしていると小さな子どもみたいだよ」
 少し呆れたように微笑むデヴィッドに、飛鳥は頬を膨らませて言った。

「本当にそうだよ……。僕だけ、馬鹿みたいだ。僕は全部知っているつもりで、一人で必死になっていたのに、お祖父ちゃんや父さんが、どれほど僕らのために頑張ってくれていたのかさえ、全然知らなかったんだ。吉野の賭博のことだって、あいつに、オンラインポーカーで稼いだ金を見せられて初めて気がついたんだし、金融取引のことだって、ジェームズ・テイラーにあいつを養子に欲しいって言いにこられるまで、知らなかったんだよ! どれだけ吉野を放ったらかしにしていたんだよ、僕は! それなのに自分だけが、あいつを守っている気になってたなんて! 本当は全然、そうじゃなかったのに!」

 いつも穏やかな飛鳥が、激昂して自分を詰っている――。

 デヴィッドは目を瞠って、飛鳥を見つめていた。どうして彼が自分を責めるのかまるで理解ができなかった。飛鳥は、子どもの時分から実家の仕事を手伝い、弟の世話をし、家事を……、いや家事は吉野がしていたのだった。それでも、汚い手を使って買収を仕掛けてくる大会社やヘッジファンドの嫌がらせに耐えて、戦ってきたのではないか。吉野だって、子どもながらなんとか家族を助けようと頑張っていたに違いないのに。

「アスカちゃん、傷つけたくないからって何も言わないのは、信用していないのと同じことだよ。アスカちゃんのって、事実を隠すことでしょ? だから、おかしくなっちゃうんだよ」

 デヴィッドはもう一度、飛鳥の頭をわしわしと撫で、穏やかな優しい声で告げた。

「でも僕もねぇ、アスカちゃんの気持ち、解るよ。親は家の苦労とか、子どもに見せたくないもんねぇ。アーニーもさぁ、僕には教えてくれなかったよ。僕が誘拐されるまでは。僕の誘拐事件、知っている?」
「ヘンリーが――」
「うん、それ。あれからだよ。僕の父やアーニーが、僕の家の置かれている立場とか、意味とか、ちゃんと教えてくれるようになったのって。あのねぇ、怖いんだよ、とっても。分からないってことはさぁ。なぜ狙われるのか? どうしてみんなと同じじゃだめなのか? 僕だけがいつもボディガード連れてさ、恥ずかしかったんだよ、これでも」

 綺麗なブルネットをかきあげて、デヴィッドも飛鳥と同じように狭いスツールの上に足を折上げ丸くなる。そして内緒話をするようにヘーゼルの瞳を輝かせ、続けて訊ねた。

「ヨシノは、ちっちゃい頃から賢い子だったんでしょ? だから安心していたんだよね、アスカちゃん」
 呆けたように聞き入っていた飛鳥は、慌てて頷く。
「うん。吉野は、家のことだって、なんでも進んでやってくれて、ご飯を作るのも僕より上手くて、聞き分けが良くて――」

 延々と続きそうな吉野自慢を、デヴィッドはくすくす笑いで遮った。

「それだけ信じているのに、『杜月』の会社のことだけは隠していたんだ?」
「吉野が不安に思うと思ったんだ。それに、僕に怪我をさせたヘッジファンドを吉野はテイラーに頼んで潰しているんだ。『飛鳥を守って』って、そんなことであいつは株価を暴落させるプログラムを組んで、テイラーはその見返りに強行手段に出ていたヘッジファンドを……。やることが無茶苦茶だったんだ。あの頃は、グラスフィールド社に、ガン・エデン社に、訳のわからないヘッジファンドまで入り乱れて、気が狂いそうだった。だからよけいに、吉野まで巻き込みたくなくて」
「何が起こっているのか判らない方が、よほど不安だよ、アスカちゃん」
「今なら判る。ヘンリーが僕に何も教えてくれないの、すごく不安だもの」
「ああ、ヘンリーはねぇ。なんでも一人で背負い込むのが好きだしねぇ」

 二人して顔を見合わせると、思わず乾いた笑いが漏れていた。

「デヴィ、僕はね、怖いんだ」
 飛鳥は眉をぎゅっと寄せ、苦しそうにため息をつく。
「ジェームズ・テイラーは、ゲイなんだよ」

 ヘーゼルの瞳を大きく見開いたデヴィッドは、言葉にのせてよいものか、と口をパクパクさせている。飛鳥は、あ、と声をあげ、くしゃっと微笑んで小さく首を振った。

「きみが考えているようなことじゃないよ。彼にはちゃんとパートナーがいる。でも、だからね、彼らは子どもが欲しいんだよ。自分たちが認めた、彼らの天文学的な財産を継がせるための子どもがね。そりゃ確かに、金融界は吉野の才能を利用したい輩でひしめいている。でも、テイラーは違うんだ。彼はもう充分に金持ちだよ。彼だけは、純粋に吉野が欲しいんだ。だから――、怖いんだよ。吉野を取られるんじゃないかって。吉野が、僕や、父さんを捨てるんじゃないかって……」
「ヨシノがそんなことする訳ないじゃん。アスカちゃんのこと、大好きなのに……」

「僕のためなら、するかもしれないだろ?」
 飛鳥はぐっと唇を引きしめ、震える声で続けた。
「あいつは、僕を、家族を守るためなら自分を犠牲にすることくらいへっちゃらなんだ。それがお祖父ちゃんの遺志を継ぐこと、お祖父ちゃんへの贖罪だ、くらいに思っているんだもの」



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