胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
374 / 751
六章

しおりを挟む
 夕闇の迫るホテルの隣接する円形レストランが夜間照明に切り替わった。天井まで届くガラスを挟んで張りだされた屋外のテラスデッキは、地上から大人一人分の高さにある。そこからさらにしっとりと広がる芝生を経て、暮れ時の薄紫に染まるレマン湖が霞む。
 穏やかなBGMと、落ち着いた楽し気な会話が幾重にも重なって漏れ聴こえるこのテラスデッキで、アレンはただ一人ぽつんと食事をしていた。

 湖まで広がる庭園をそぞろ歩いていたデヴィッドは、ぐるりとレストランを囲むテラスデッキに偶然彼の姿を見つけ、驚いて続く階段を足早に上った。

「こんなところでどうしたの? ヨシノは?」
 軽く眉をしかめ、デヴィッドはアレンの向かいに腰かける。アレンは、まずいところを見られたな、と戸惑っているような、曖昧な笑みを浮かべて――。
「部屋にいると思います」
「どうして、食事くらい一緒にしないの? 喧嘩したぁ?」
 アレンは大きく首を横に振る。
「仕事みたいです。たぶん、株とか為替とかの」
 どう説明したらいいのかとゆっくりと言葉を選びながら、アレンは答えた。
「だから部屋で食べるって」
 苦笑して残念そうに小首を傾げるその様子に、デヴィッドは呆れたように吐息を漏らした。
「似た者兄弟――」

 デヴィッドはウェイターを呼び手早く注文をすると、「アスカちゃんもだよ。久しぶりにヨシノに会ったのにさぁ、ちょっと顔見ただけで研究室に籠っちゃって――。レストランだって予約してたのに、キャンセルしちゃったよ。ヨシノもヨシノだよ! 俺もやることあるから、ってあっさり帰っちゃってね」と、さっそく唇を尖らせて愚痴りだした。
「あの兄弟、ほんと不思議。あんな仲いいのにさぁ、変に他人行儀だったり、かと思うと異常に過干渉だったり。訳判んない時があるよ――」

 くるんと夜の帳に包まれ始めた濃紺の空に目を遣って、デヴィッドは頬を膨らませる。

「アーニーも仕事、って言うしぃ、食事くらい楽しく食べたいじゃない、きみ、食べ終わるまでつき合ってねぇ」

 愚痴るだけ愚痴ると気が済んだとばかりに、にっこりと笑ったデヴィッドに、アレンもつられて、つい、ふわりと微笑んでいた。

「アスカさん、そんなにお忙しいのですか? 僕も会いたかったな」
 デヴィッドはつまらなそうに下を向いたアレンを慰めるように、くるくるとヘーゼルの瞳を輝かせて悪戯っぽく微笑む。
「アスカちゃんのパパさんが来たらね、みんなで食事に行くからさ、きみもおいでよ」
「でも、そんな家族団欒の席になんて――」
「ほんと、遠慮ばっかりだね、きみって!」
 おおげさにため息をつくと、デヴィッドはアレンの物怖じした面に向かって、ぴっと人差し指を突きつけた。
「アスカちゃんが、きみもぜひにって!」
 信じられないとばかりに、ポカンと口を開けているアレンを眺め、デヴィッドは声を立てて笑った。
「パパさん、優しい、いい人だよ。僕は日本でお世話になっていたからさ、よく知ってるんだ。そんな怖がらなくても平気」

 どうとも返答できなくて、じっと動かなくなってしまっていたアレンの肩が、背後からとんっと叩かれる。びくりと、はぜるように振りむく。

「お前、こんなところで何やってんだよ、ずっと待ってたのに」
 いかにも不機嫌そうな仏頂面の吉野が立っている。

 小首を傾げるアレンに、「部屋で食べるって言っただろ!」と吉野はさらに顔をしかめて告げた。
「え?」
「お前、いつまで経ってもこないし」
「心配して探しにきたんだ?」
 アレンの代わりにデヴィッドが、笑いを含んだ揶揄うような声音で訊ねた。吉野はポケットに手を突っ込んだまま、そっぽを向いた。

「まぁ、そうぷんぷんしないで座りなよ。僕の食事につき合ってよ」
「もうルームサービスを頼んだ」

 デヴィッドの朗らかな声に吉野は顎を突きだして不機嫌丸だしで答えたのだが、それでもどっかりと腰をおろした。

「お前、何笑ってんの?」
 吉野の腹立たし気な声さえ嬉しくて、アレンはにやつく頬を隠すように両手で覆う。
「また、夕飯、サラダとデザートで済ませようとしてただろ?」
 テーブルの上の食べかけのサラダボールを、吉野は睨めつけているのだ。
「食べる? 美味しいよ」
 アレンは弾むような笑顔で応えた。
「ルームサービスは何を頼んだの?」
「ペルシュのムニエル」
「ペルシュって?」
「レマン湖で採れるスズキ科の淡水魚だよ」
「それも食べるよ」
「冷めてるぞ」
「かまわないよ」
 にこにこと嬉しそうなアレンを見ていると、いつまでも怒っているのも馬鹿らしくて、吉野も、仕方ないなと肩をすくめた。

 じきにアーネストが来るから、もうつき合わなくていいよ、と言うデヴィッドをその場に残し、「あー、腹減った」とぼやく吉野と連れだって、アレンは屋内のレストランに続くガラス戸へ軽やかに足を運んだ。途中肩越しに振り返り、にっこりして背中廻していた片手をデヴィッドに向けてひらひらと振る。デヴィッドも軽くウインクして、親指を立てて微笑み返した。



 ガラスで隔てられた室内から、じっとその様子を眺めていたマルセッロは、手の中のワイングラスをゆっくりと廻しながら小さく口笛を鳴らした。
「兄貴の方も美形だったけれど、これはまたびっくりするような美人さんディヴィノだな。あの怖い兄貴よりはずっと扱いやすそうだ」
 唇を歪めて嗤うマルセッロに向かい合うルキーノは、黙ったままだ。
「あの美人さんが、マルセルのご執心の東洋人の弱点なのか?」
 探るように自分を見つめる視線に、ルキーノは表情の見えない黒いサングラスの下でにやりと微笑んで応えた。






しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

処理中です...