374 / 758
六章
4
しおりを挟む
夕闇の迫るホテルの隣接する円形レストランが夜間照明に切り替わった。天井まで届くガラスを挟んで張りだされた屋外のテラスデッキは、地上から大人一人分の高さにある。そこからさらにしっとりと広がる芝生を経て、暮れ時の薄紫に染まるレマン湖が霞む。
穏やかなBGMと、落ち着いた楽し気な会話が幾重にも重なって漏れ聴こえるこのテラスデッキで、アレンはただ一人ぽつんと食事をしていた。
湖まで広がる庭園をそぞろ歩いていたデヴィッドは、ぐるりとレストランを囲むテラスデッキに偶然彼の姿を見つけ、驚いて続く階段を足早に上った。
「こんなところでどうしたの? ヨシノは?」
軽く眉をしかめ、デヴィッドはアレンの向かいに腰かける。アレンは、まずいところを見られたな、と戸惑っているような、曖昧な笑みを浮かべて――。
「部屋にいると思います」
「どうして、食事くらい一緒にしないの? 喧嘩したぁ?」
アレンは大きく首を横に振る。
「仕事みたいです。たぶん、株とか為替とかの」
どう説明したらいいのかとゆっくりと言葉を選びながら、アレンは答えた。
「だから部屋で食べるって」
苦笑して残念そうに小首を傾げるその様子に、デヴィッドは呆れたように吐息を漏らした。
「似た者兄弟――」
デヴィッドはウェイターを呼び手早く注文をすると、「アスカちゃんもだよ。久しぶりにヨシノに会ったのにさぁ、ちょっと顔見ただけで研究室に籠っちゃって――。レストランだって予約してたのに、キャンセルしちゃったよ。ヨシノもヨシノだよ! 俺もやることあるから、ってあっさり帰っちゃってね」と、さっそく唇を尖らせて愚痴りだした。
「あの兄弟、ほんと不思議。あんな仲いいのにさぁ、変に他人行儀だったり、かと思うと異常に過干渉だったり。訳判んない時があるよ――」
くるんと夜の帳に包まれ始めた濃紺の空に目を遣って、デヴィッドは頬を膨らませる。
「アーニーも仕事、って言うしぃ、食事くらい楽しく食べたいじゃない、きみ、食べ終わるまでつき合ってねぇ」
愚痴るだけ愚痴ると気が済んだとばかりに、にっこりと笑ったデヴィッドに、アレンもつられて、つい、ふわりと微笑んでいた。
「アスカさん、そんなにお忙しいのですか? 僕も会いたかったな」
デヴィッドはつまらなそうに下を向いたアレンを慰めるように、くるくるとヘーゼルの瞳を輝かせて悪戯っぽく微笑む。
「アスカちゃんのパパさんが来たらね、みんなで食事に行くからさ、きみもおいでよ」
「でも、そんな家族団欒の席になんて――」
「ほんと、遠慮ばっかりだね、きみって!」
おおげさにため息をつくと、デヴィッドはアレンの物怖じした面に向かって、ぴっと人差し指を突きつけた。
「アスカちゃんが、きみもぜひにって!」
信じられないとばかりに、ポカンと口を開けているアレンを眺め、デヴィッドは声を立てて笑った。
「パパさん、優しい、いい人だよ。僕は日本でお世話になっていたからさ、よく知ってるんだ。そんな怖がらなくても平気」
どうとも返答できなくて、じっと動かなくなってしまっていたアレンの肩が、背後からとんっと叩かれる。びくりと、はぜるように振りむく。
「お前、こんなところで何やってんだよ、ずっと待ってたのに」
いかにも不機嫌そうな仏頂面の吉野が立っている。
小首を傾げるアレンに、「部屋で食べるって言っただろ!」と吉野はさらに顔をしかめて告げた。
「え?」
「お前、いつまで経ってもこないし」
「心配して探しにきたんだ?」
アレンの代わりにデヴィッドが、笑いを含んだ揶揄うような声音で訊ねた。吉野はポケットに手を突っ込んだまま、そっぽを向いた。
「まぁ、そうぷんぷんしないで座りなよ。僕の食事につき合ってよ」
「もうルームサービスを頼んだ」
デヴィッドの朗らかな声に吉野は顎を突きだして不機嫌丸だしで答えたのだが、それでもどっかりと腰をおろした。
「お前、何笑ってんの?」
吉野の腹立たし気な声さえ嬉しくて、アレンはにやつく頬を隠すように両手で覆う。
「また、夕飯、サラダとデザートで済ませようとしてただろ?」
テーブルの上の食べかけのサラダボールを、吉野は睨めつけているのだ。
「食べる? 美味しいよ」
アレンは弾むような笑顔で応えた。
「ルームサービスは何を頼んだの?」
「ペルシュのムニエル」
「ペルシュって?」
「レマン湖で採れるスズキ科の淡水魚だよ」
「それも食べるよ」
「冷めてるぞ」
「かまわないよ」
にこにこと嬉しそうなアレンを見ていると、いつまでも怒っているのも馬鹿らしくて、吉野も、仕方ないなと肩をすくめた。
じきにアーネストが来るから、もうつき合わなくていいよ、と言うデヴィッドをその場に残し、「あー、腹減った」とぼやく吉野と連れだって、アレンは屋内のレストランに続くガラス戸へ軽やかに足を運んだ。途中肩越しに振り返り、にっこりして背中廻していた片手をデヴィッドに向けてひらひらと振る。デヴィッドも軽くウインクして、親指を立てて微笑み返した。
ガラスで隔てられた室内から、じっとその様子を眺めていたマルセッロは、手の中のワイングラスをゆっくりと廻しながら小さく口笛を鳴らした。
「兄貴の方も美形だったけれど、これはまたびっくりするような美人さんだな。あの怖い兄貴よりはずっと扱いやすそうだ」
唇を歪めて嗤うマルセッロに向かい合うルキーノは、黙ったままだ。
「あの美人さんが、マルセルのご執心の東洋人の弱点なのか?」
探るように自分を見つめる視線に、ルキーノは表情の見えない黒いサングラスの下でにやりと微笑んで応えた。
穏やかなBGMと、落ち着いた楽し気な会話が幾重にも重なって漏れ聴こえるこのテラスデッキで、アレンはただ一人ぽつんと食事をしていた。
湖まで広がる庭園をそぞろ歩いていたデヴィッドは、ぐるりとレストランを囲むテラスデッキに偶然彼の姿を見つけ、驚いて続く階段を足早に上った。
「こんなところでどうしたの? ヨシノは?」
軽く眉をしかめ、デヴィッドはアレンの向かいに腰かける。アレンは、まずいところを見られたな、と戸惑っているような、曖昧な笑みを浮かべて――。
「部屋にいると思います」
「どうして、食事くらい一緒にしないの? 喧嘩したぁ?」
アレンは大きく首を横に振る。
「仕事みたいです。たぶん、株とか為替とかの」
どう説明したらいいのかとゆっくりと言葉を選びながら、アレンは答えた。
「だから部屋で食べるって」
苦笑して残念そうに小首を傾げるその様子に、デヴィッドは呆れたように吐息を漏らした。
「似た者兄弟――」
デヴィッドはウェイターを呼び手早く注文をすると、「アスカちゃんもだよ。久しぶりにヨシノに会ったのにさぁ、ちょっと顔見ただけで研究室に籠っちゃって――。レストランだって予約してたのに、キャンセルしちゃったよ。ヨシノもヨシノだよ! 俺もやることあるから、ってあっさり帰っちゃってね」と、さっそく唇を尖らせて愚痴りだした。
「あの兄弟、ほんと不思議。あんな仲いいのにさぁ、変に他人行儀だったり、かと思うと異常に過干渉だったり。訳判んない時があるよ――」
くるんと夜の帳に包まれ始めた濃紺の空に目を遣って、デヴィッドは頬を膨らませる。
「アーニーも仕事、って言うしぃ、食事くらい楽しく食べたいじゃない、きみ、食べ終わるまでつき合ってねぇ」
愚痴るだけ愚痴ると気が済んだとばかりに、にっこりと笑ったデヴィッドに、アレンもつられて、つい、ふわりと微笑んでいた。
「アスカさん、そんなにお忙しいのですか? 僕も会いたかったな」
デヴィッドはつまらなそうに下を向いたアレンを慰めるように、くるくるとヘーゼルの瞳を輝かせて悪戯っぽく微笑む。
「アスカちゃんのパパさんが来たらね、みんなで食事に行くからさ、きみもおいでよ」
「でも、そんな家族団欒の席になんて――」
「ほんと、遠慮ばっかりだね、きみって!」
おおげさにため息をつくと、デヴィッドはアレンの物怖じした面に向かって、ぴっと人差し指を突きつけた。
「アスカちゃんが、きみもぜひにって!」
信じられないとばかりに、ポカンと口を開けているアレンを眺め、デヴィッドは声を立てて笑った。
「パパさん、優しい、いい人だよ。僕は日本でお世話になっていたからさ、よく知ってるんだ。そんな怖がらなくても平気」
どうとも返答できなくて、じっと動かなくなってしまっていたアレンの肩が、背後からとんっと叩かれる。びくりと、はぜるように振りむく。
「お前、こんなところで何やってんだよ、ずっと待ってたのに」
いかにも不機嫌そうな仏頂面の吉野が立っている。
小首を傾げるアレンに、「部屋で食べるって言っただろ!」と吉野はさらに顔をしかめて告げた。
「え?」
「お前、いつまで経ってもこないし」
「心配して探しにきたんだ?」
アレンの代わりにデヴィッドが、笑いを含んだ揶揄うような声音で訊ねた。吉野はポケットに手を突っ込んだまま、そっぽを向いた。
「まぁ、そうぷんぷんしないで座りなよ。僕の食事につき合ってよ」
「もうルームサービスを頼んだ」
デヴィッドの朗らかな声に吉野は顎を突きだして不機嫌丸だしで答えたのだが、それでもどっかりと腰をおろした。
「お前、何笑ってんの?」
吉野の腹立たし気な声さえ嬉しくて、アレンはにやつく頬を隠すように両手で覆う。
「また、夕飯、サラダとデザートで済ませようとしてただろ?」
テーブルの上の食べかけのサラダボールを、吉野は睨めつけているのだ。
「食べる? 美味しいよ」
アレンは弾むような笑顔で応えた。
「ルームサービスは何を頼んだの?」
「ペルシュのムニエル」
「ペルシュって?」
「レマン湖で採れるスズキ科の淡水魚だよ」
「それも食べるよ」
「冷めてるぞ」
「かまわないよ」
にこにこと嬉しそうなアレンを見ていると、いつまでも怒っているのも馬鹿らしくて、吉野も、仕方ないなと肩をすくめた。
じきにアーネストが来るから、もうつき合わなくていいよ、と言うデヴィッドをその場に残し、「あー、腹減った」とぼやく吉野と連れだって、アレンは屋内のレストランに続くガラス戸へ軽やかに足を運んだ。途中肩越しに振り返り、にっこりして背中廻していた片手をデヴィッドに向けてひらひらと振る。デヴィッドも軽くウインクして、親指を立てて微笑み返した。
ガラスで隔てられた室内から、じっとその様子を眺めていたマルセッロは、手の中のワイングラスをゆっくりと廻しながら小さく口笛を鳴らした。
「兄貴の方も美形だったけれど、これはまたびっくりするような美人さんだな。あの怖い兄貴よりはずっと扱いやすそうだ」
唇を歪めて嗤うマルセッロに向かい合うルキーノは、黙ったままだ。
「あの美人さんが、マルセルのご執心の東洋人の弱点なのか?」
探るように自分を見つめる視線に、ルキーノは表情の見えない黒いサングラスの下でにやりと微笑んで応えた。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
伊藤とサトウ
海野 次朗
歴史・時代
幕末に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウと、後に初代総理大臣となる伊藤博文こと伊藤俊輔の活動を描いた物語です。終盤には坂本龍馬も登場します。概ね史実をもとに描いておりますが、小説ですからもちろんフィクションも含まれます。モットーは「目指せ、司馬遼太郎」です(笑)。
基本参考文献は萩原延壽先生の『遠い崖』(朝日新聞社)です。
もちろんサトウが書いた『A Diplomat in Japan』を坂田精一氏が日本語訳した『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)も参考にしてますが、こちらは戦前に翻訳された『維新日本外交秘録』も同時に参考にしてます。さらに『図説アーネスト・サトウ』(有隣堂、横浜開港資料館編)も参考にしています。
他にもいくつかの史料をもとにしておりますが、明記するのは難しいので必要に応じて明記するようにします。そのまま引用する場合はもちろん本文の中に出典を書いておきます。最終回の巻末にまとめて百冊ほど参考資料を載せておきました。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる