胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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「なぁ、ここのセキュリティって大丈夫なの?」
 ローザンヌ研究所の一室で、リクライニングチェアーを上げたり下げたり微妙な角度の調節しながら、吉野は独り言のように呟いた。
 飛鳥と話した応接室から、今は研究員の休憩・仮眠室に移動している。ベッド替わりのリクライニングチェアーがいくつかと、応接セット。壁際には湯沸かしと、セルフサービスのコーヒーメーカーが置いてあるだけの窓のない四角い箱のような殺風景な部屋だ。

「万全だよ」
 ソファーに腰かけているアーネストは、手にした書類から顔もあげずに答える。
「インターネットは?」
「専用線」
「知っているけどさ、大丈夫なの?」
 結局、リクライニングチェアーを目いっぱい倒し、吉野は黒い牛皮の座面に身を横たえて、壁と同じ白い天井を見あげている。
「君ねぇ、」
「ちょっと侵入してみてもいい?」

 お茶にでも誘うように気楽に訊ねられ、アーネストは思わず苦笑って、手にしていた書類をばさりと膝におろした。

「ここのセキュリティに問題があると思っているの?」
「ここさぁ、けっこう古いだろ? 建物の管理もだらしない感じでさぁ」
「外の芝生のこと? それには同感」
 アーネストもくっくっと笑い頷く。
「建物内はうちの管理だから心配いらないよ。老朽化していたものは取り換えているし、回線もすべてやり換えている」
「専用線でサラと話したいんだ。ヘンリーでもいい」
「きみ、話をするためにわざわざクラッキングするわけ? それって、今すぐ必要なの?」

 身体を起こして頷いた吉野に、アーネストは声を立てて笑いながら自分のTSを立ちあげた。

「どうぞ。ただし僕の前で使って。アスカからきつく言われているからね。きみの自由にさせるわけにはいかないよ」
「そっちこそ誰にも言うなよ。とくに飛鳥には」

 吉野は勢い良く床に飛び降りて、これで部外者立ち入り禁止の施設内に戻った飛鳥が今日の仕事を終えるまで暇つぶしができる、とニヤリと唇の端をあげた。




 一連の作業を終えた吉野は、眼前のTS画面を指でピンと弾いて消した。と同時に、「きみ、どこからこの情報を手に入れたの?」横に並ぶアーネストが厳しい表情で詰問する。
「数字に出てただろ。説明がいる?」
 意外そうに言う吉野に、アーネストは両眉を持ちあげクスリと笑い、首を横に振る。
「数字だけじゃ常識の範囲内。こんな飛躍につながらない。もっとあるでしょ」

 ヘーゼルの神秘的な瞳で揶揄うように軽く睨まれ、吉野は頭をかいて肩をすくめる。だが誤魔化す気もないらしく、内緒話のようにアーネストの耳許に口を寄せて小声で囁いた。ほかに誰もいないというのに――。



「内緒な」
 目をむいて自分を凝視するアーネストに、吉野は目を細めて唇の前で人差し指を立てている。脱力してクスクスと笑いだしながら、アーネストは信じられないと小さく首を振っている。

「きみ、いくつだっけ? 淫行罪だ。捕まるぞ」
「俺?」
「彼女の方」
「アーニーがチクる? いいよ、それでも。俺、被害者です、って法廷で泣いてみせるよ」
 面白そうに目を細める吉野の額を、アーネストは唇を窄め眉根を寄せてとんっと突いた。
「この悪ガキ! まったく、誰がこんなふうに教育したんだ!」
「え? それ、アーニーが訊く? 同じ母校だぞ、先輩。俺たち、英国最高峰の教育を受けているんだろ?」

 アーネストは腹を抱えて笑いだし、吉野の肩を組んで引き寄せた。

「で、きみ達つきあっているの?」
「まさか、いくつ違うと思ってるんだよ」
「怖いねぇ、最近の子は!」
「大したことじゃないだろ?」

 意外にも真顔で尋ねられ、アーネストは深くため息を漏らした。

「子どもが、ぶるんじゃないよ」
「いいじゃん、どうせ俺、馬鹿で未熟なお子さまだもの! でもヘンリーには内緒な。あいつにバレたら、嬉々としてルベリーニを脅迫しかねないもの。なぁ、あの二人の関係って面白れぇよなぁ。あんな仲が悪いのに、パートナーシップ組んでるんだもんなぁ」

 吉野のあっけらかんとした言いように呆れながらも、よく見ているものだな、と苦笑交じりに内心同意する。アーネストは、そんな内面を悟らせないために、ふざけた様子で両手を広げた。

「よく判っているじゃないか! はいはい、それじゃあ、お坊ちゃん、これからどうなさいますか?」

 やっと本題に漕ぎつけた。吉野は居住まいを正し、その鳶色の瞳を楽しそうに輝かせた。

「ルドルフ・フォン・ヴォルフに、渡りをつけてくれる?」
「まだ早くないかい?」
「恩を売っておきたいんだ。今回のテロでまたがっつりスイスフランに買いが入っただろ? こっちには、米国のジェームズ・テイラーのポジションって餌がある。これからさらにどの程度のスイスフラン買いが積み上がるか、スイスが今一番欲しい情報だよ。それに、もうじき欧州中央銀行ECBが動く」
「きみ、もしかして――」
「俺さぁ、結構恨んでいるんだ、この傷」
 吉野はすっと頬に貼られたテープの上を指でなぞった。
「アレンに言われるまで気づかなかったよ。不慮の事故なんて、俺に起こっていいわけがないだろ! 絶対に許さない」

 顎を引き、アーネストは傍らの吉野をもう一度まじまじと見つめた。足を組み、背筋を伸ばして腰かける吉野は、表情のないおもても、きつく引き結ばれた唇もそのままなのに、悠然と、不敵に、笑っているように見えるのだ。

 まるで、ヘンリーだ――。
 今は動けない彼の代わりに、この子が動いているのか。

「今のきみ、まさしく教育の賜物だね」

 アーネストは、ソファーの背もたれに肘をかけて吉野に向き合うと、苦笑交じりにそう告げた。





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