胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 吉野は、アテネ・アクロポリス入場口からひたすら石畳の階段を登っていた。途中、足を止め、ヘロド・アティクス音楽堂の遺跡を見おろす。

 なんだって人間ってのはいつの時代でも、少しでも高いところへ上りたがるのだろう――。

 音楽堂の背後に広がるアテネ市街地を眺め、吐息を漏らす。
 高く上れば天に手が届くと、本気で考えていたとは思えない。それよりも、ここは純粋に軍事的な要塞だと考える方がよほど納得がいく。
 古今東西、どこに行っても人間の考えること、求めるもの、やることに大差はないのだ。 

 足を進めるにつれ、眼下にアテネ全景が広がっていく。濃い緑に包まれた近景の向こうに、白い建物の密集する街並みが霞んで見えた。

 プロピュライアと呼ばれる前門にたどり着く。ここからさらに石段を登る。

「それがニケの神殿だよ」
 石段の端に腰かけていたマルセルが、吉野を呼び止めた。
 その視線の先の勝利の女神ニケを祀る小さな神殿は、台座の上に東西に四本ずつの円柱を並べた柱廊を持ち、崖に張りだすように築かれていた。

「勝利の女神がアクロポリスの門番か?」
 吉野はマルセルの手前で足を止める。
「ニケはアテネの守護神だよ。アテネのニケには翼がないんだ。勝利が逃げてしまわぬように、アテネ市民はニケの翼を切り落としてしまったんだ」
 マルセルは苦笑して、自分の上に影を作る吉野を見あげる。
「ひどいまねをするんだな。だから勝利に見放されたんじゃないの?」
 唇の右端だけ上げて笑う吉野を、マルセルは目を細めて見つめ返す。

「僕はきみの翼を切り落としたりしない。きみは今まで通り、自由に飛び廻ってくれていいんだ。何も変わらないよ、ヨシノ、だから――」

 吉野はそれには応えずに、顎で石段の先を示して歩きだす。マルセルは小さく息をついてそのあとに続いた。

 前門を抜けると、目の前にパルテノン神殿が壮麗な姿を現した。わずかに丸みを帯びた白大理石のドリス式円柱が、リズミカルに空を透かして立ち並ぶ。

「なぁ、ニケはさぁ、ゼウスの随神だろ? ここアテネじゃ、女神アテナの随神でもある。お前が俺をニケに例えるならさ、」

 吉野は途中で言葉を切って、ゆるゆると神殿前を通りすぎ、角を曲がる。ごろりとそこら中に石材の放置されているなか、横倒しにされた石柱の断片の一つに腰かけていた目当ての相手をやっと見つけ、少し遅れ気味に背後を歩くマルセルを振り返った。

「ニケには、当然、忠誠を誓う主君がいる。勝者を決めるのはニケじゃない。ニケは主君が勝たせようと思っている側に味方する」

 吉野の声に嬉しそうに振り返って立ちあがり、彼の背後のマルセルに気がつくなり、笑みをそのまま顔に貼りつかせて固まってしまったアレンに向かって、吉野はそのまま足を進めた。

『こいつが、俺の選んだ主君だ』
 マルセルにスペイン語でそう告げると、吉野は傍らのアレンの手を取り、その手の甲に唇を当てた。
『俺がお前に言える選択は、こいつに跪くか、お前の片割れをこいつに跪かせるか、のどちらかだけだ。俺は、誰のキスも受けない』

 マルセルは眉根を寄せて顔を背けた。アレンは唖然として、吉野と、俯いたまま立ち尽くしているマルセルを見比べている。

 突然、マルセルはその場にくずおれた。ばらばらと黒ずくめの男たちが駆け寄ってくる。その内の一人がマルセルを抱えあげる。

「残念だな」
 ルキーノは歪んだ微笑みを見せて呟くと、蒼白い顔をして苦し気に呼吸するマルセルを抱きかかえて踵を返し、足早にその場を去っていった。



「あいつ、すげぇ身体が弱いの」
 ふっと視線を伏せて呟いた吉野の言葉の続きを、アレンは顔を傾げて待った。
「だから間抜けな弟に家督を譲らなきゃいけなくなった。あいつがルベリーニのナンバー2なら、なんの問題もなかったのに」
「もしそうなら、きみ自身がルベリーニの接吻を受けた?」
「それはないな」
 吉野はひょいっと肩をすくめる。

「あ! お前、」
「僕がスペイン語が解るのは想定外?」
 自慢気にふふんと鼻を鳴らすアレンの旋毛を、吉野は拳でぐりぐりと小突く。

「お前、隠してただろ!」
「なに? そんなことで怒る? 僕はきみの主君なんだろ?」

 吉野は顔をしかめて、冗談めかして笑っているアレンの額を指でピンっと弾いた。

「痛!」
「調子に乗るな!」
「言葉が解ったってどうせ意味は判らないよ。反対ならまだしも、僕がきみの王様だなんてあり得ないもの! どうせ彼を断る言い訳に使ったんだろ?」

 唇を尖らせて拗ねるアレンの頭を、今度は目を細めてくしゃと撫でた。

「あつぅ! お前、熱射病になるぞ!」
「きみが来るのが遅いからだよ」
「せめて日陰で待ってろよ!」
「この角度から見るパルテノンが綺麗なんだ」

 にっこりと笑うアレンに呆れたように吐息を漏らし、吉野は地面に転がる石柱に腰をおろした。

「日が沈むまでいるか? 大理石の柱が夕日で金色に輝いてすげぇ綺麗だって、」

 言い終わらないうちに瞳を輝かせてこくこくと頷いている相手を、吉野は、にっと笑っているような鳶色の瞳で見あげた。

「じゃあ、まずは日陰で休んでからだぞ」





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