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六章
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泥のように眠った。夢のひとつも見ることなく。
アレンがようやく目覚めた時には、もうすでに日は高く昇っていた。
慌てて身支度を調え、アレンは階下のリビングルームに向かう。吹き抜けの踊り場から、連続する大きな窓の外に広がる輝く青空とエメラルドの海に背を向けて、ヘンリーが考えこむように肘掛椅子に腰かけているのが見えた。
昼近くになってやっと起きてきた自分を恥じ入るような小さな声で、「おはようございます」とアレンは兄に声をかけた。
ヘンリーはふっと視線をあげ、柔らかく微笑んで応えた。
「おはよう。ヨシノがお前のために朝食を作ってくれているよ」
立ちあがり、ついてくるように視線で示すと、そのまま右手にあるダイニングテーブルに向かう。
アレンのいた位置からは見えなかったダイニングにはフィリップがいて、あれこれと使用人に指示を出していた。
こんな子どもでもこの家の主人なのだな、とアレンが妙なところで感心していると、フィリップはアレンの前におずおずと進みでて物怖じした表情で謝った。
「お身体の具合を悪くされていませんか? 本当に申し訳ありませんでした」
「なにが?」
アレンは訝しげにフィリップを見つめ返す。
「昨夜、プールのタイルで滑って転落されてしまった、と伺いました。あのプールは潰してもっと滑りにくいものに作り替えます! 駄目になったお洋服もすぐに替わりを用意させますから!」
泣きそうな顔で自分を見つめるフィリップに、アレンは、はぁ? と、口元を引きつらせる。
「滑ったんじゃない。暑かったから、自分で飛びこんだんだ。きみが気にすることじゃないよ」
素っ気なく言い捨ててアレンはテーブルに着いた。その向いにヘンリーが座る。
そして、目の前に置かれた金の縁取りのある白いプレートにのっている三切れの黄色い物体を、アレンはまじまじと見つめている。
これが例の『だし巻き玉子』というものらしいのは、一目で分かった。飛鳥が話してくれた通りだったから。玉子料理――、オムレツよりもミルクレープに似ている。
「アスカさんが作ってくれたものと、ぜんぜん違う」
カトラリーを手にして切り分け、口に運んだ。柔らかな甘さと、じゅわりとした不思議な風味が舌先に広がる。冷めてしまっているのに、ふわふわと柔らかく弾力がある。思わずにっこりと笑った弟を、ヘンリーはとても静かに見つめていた。
「ヨシノはもう出発したのですね?」
一口一口、食べ終わる時を引き延ばすように、ゆっくりと口に運んでいたアレンが手を休めて兄に訊ねた。
「イタリアにね。ルベリーニ公と一緒に発ったよ。公の招待を受けてね。彼が発つ前にお前に声をかけるべきだったかな?」
いつもよりも若干優しげな兄の声音にほっとしながら、アレンは微笑んで首を横に振った。
「もともと三日間の約束でしたから。今日は四日目です」
「お前もイタリアに行くかい? ロレンツォに言えば、」
アレンはまた首を振る。
「ヨシノの邪魔をしたくない。――それに、今は彼の傍にいたくない」
黙って聞いているヘンリーから視線を逸らし、アレンは小さく微笑んで、プレートにひとつ残っただし巻き玉子を食い入るように見つめて言った。
「近くにいると辛いんです。隣の部屋にいるとドアを叩きたくなる。横にいると話しかけたくなる。彼の邪魔をしたくないのに。かまって欲しいと思ってしまう。僕は、そんな自分が嫌いだ」
ぐっと唇を引き結んだ弟に、ヘンリーはいったん席を立ち、テーブルをまわってその横に座った。
「一週間後にパリ見本市と体験予約販売会があるんだ。僕は午後にはパリに向かう。お前、僕について来るかい?」
ゆっくりと顔をあげたアレンに、ヘンリーは確認するようにちょっと首を傾けてみせた。アレンが驚いた顔でぎこちなく頷くと、ヘンリーはポケットから白い皮手袋を出しテーブルに置いた。
「これを使うといいよ。握手のとき、『植物かぶれをおこしてしまい酷い状態なので、手袋のまま失礼します』と言えばいい。これで、しつこく手を握ってくる輩もぐっと減るはずだよ」
ぽかんとするアレンのセレストブルーの大きな瞳に、ヘンリーの苦笑いが映る。
「僕も握手は嫌いだった。今はさすがに断るわけにはいかないけどね」
「……ありがとうございます」
嬉しすぎて、泣いてしまいそうだった。
兄が自分を見ていてくれたことが、信じられなかった。自分のことを気遣ってくれている事実が、奇跡のように思えた。昨夜はあんなにきつく怒られたのに――。みっともないと。あまりにも僕がみっともない顔をしていたから、広間から出るように言われたのだと思っていたのに――。
吉野の言った通りだ……。
――あいつはきついし、厭味ったらしいし、甘ったるい言葉なんかかけちゃくれないけれど、ちゃんと見ているんだ。相手に何が必要かってこと。だから俺、ヘンリーに飛鳥を預けていられるんだ。
じんわりと浮かんできた涙にアレンが瞼を瞬かせていたとき、背後でいきなり明るい声が響いた。
「おはよう、やっと起きたんだね、きみ! あ、ヨシノのだし巻き玉子だ! 僕も彼に作ってもらったよ! 彼、サイコーに料理上手いよね!」
馴れ馴れしく声高に喋る口調に覚えがあった。アレンはぐっと唾を呑み込み、立ちあがる。
「初めまして」
「あれ? 昨夜会わなかったっけ、テラスで。でも挨拶はまだだったね」
「いいえ、初対面です」
「暗かったしね。僕はマルセッロ・ボルージャ。よろしく」
にこやかな笑顔とともに差しだされた手を、アレンはしっかりと握り返す。
「ヨシノはあなたをマルセルと呼んでいましたよ。マルセッロ・ボルージャと区別するために」
冷ややかな視線を向けるアレンを、マルセルは笑みを消し睨み返した。
座ったままのヘンリーはふたりから視線を逸らし、クスリと笑う。
「何のことかな。――別にいいよ、マルセルでも。フランス語読みでも、ぜんぜんかまわないよ。スペイン語の発音が難しいのならね」
マルセルはそんな些細なこと、どうでもいいとばかりに微笑んで、吹き抜けになっている広い漆喰壁の前に立つ執事に声をかけた。
「ジャン、僕にもコーヒーを」
アレンは着席すると大きく口を開け、残っていただし巻き玉子を一口で頬ばった。まるで、これを見られることすら腹立たしいと言わんばかりに。盗られるのではないかと、恐れているかのように……。
アレンがようやく目覚めた時には、もうすでに日は高く昇っていた。
慌てて身支度を調え、アレンは階下のリビングルームに向かう。吹き抜けの踊り場から、連続する大きな窓の外に広がる輝く青空とエメラルドの海に背を向けて、ヘンリーが考えこむように肘掛椅子に腰かけているのが見えた。
昼近くになってやっと起きてきた自分を恥じ入るような小さな声で、「おはようございます」とアレンは兄に声をかけた。
ヘンリーはふっと視線をあげ、柔らかく微笑んで応えた。
「おはよう。ヨシノがお前のために朝食を作ってくれているよ」
立ちあがり、ついてくるように視線で示すと、そのまま右手にあるダイニングテーブルに向かう。
アレンのいた位置からは見えなかったダイニングにはフィリップがいて、あれこれと使用人に指示を出していた。
こんな子どもでもこの家の主人なのだな、とアレンが妙なところで感心していると、フィリップはアレンの前におずおずと進みでて物怖じした表情で謝った。
「お身体の具合を悪くされていませんか? 本当に申し訳ありませんでした」
「なにが?」
アレンは訝しげにフィリップを見つめ返す。
「昨夜、プールのタイルで滑って転落されてしまった、と伺いました。あのプールは潰してもっと滑りにくいものに作り替えます! 駄目になったお洋服もすぐに替わりを用意させますから!」
泣きそうな顔で自分を見つめるフィリップに、アレンは、はぁ? と、口元を引きつらせる。
「滑ったんじゃない。暑かったから、自分で飛びこんだんだ。きみが気にすることじゃないよ」
素っ気なく言い捨ててアレンはテーブルに着いた。その向いにヘンリーが座る。
そして、目の前に置かれた金の縁取りのある白いプレートにのっている三切れの黄色い物体を、アレンはまじまじと見つめている。
これが例の『だし巻き玉子』というものらしいのは、一目で分かった。飛鳥が話してくれた通りだったから。玉子料理――、オムレツよりもミルクレープに似ている。
「アスカさんが作ってくれたものと、ぜんぜん違う」
カトラリーを手にして切り分け、口に運んだ。柔らかな甘さと、じゅわりとした不思議な風味が舌先に広がる。冷めてしまっているのに、ふわふわと柔らかく弾力がある。思わずにっこりと笑った弟を、ヘンリーはとても静かに見つめていた。
「ヨシノはもう出発したのですね?」
一口一口、食べ終わる時を引き延ばすように、ゆっくりと口に運んでいたアレンが手を休めて兄に訊ねた。
「イタリアにね。ルベリーニ公と一緒に発ったよ。公の招待を受けてね。彼が発つ前にお前に声をかけるべきだったかな?」
いつもよりも若干優しげな兄の声音にほっとしながら、アレンは微笑んで首を横に振った。
「もともと三日間の約束でしたから。今日は四日目です」
「お前もイタリアに行くかい? ロレンツォに言えば、」
アレンはまた首を振る。
「ヨシノの邪魔をしたくない。――それに、今は彼の傍にいたくない」
黙って聞いているヘンリーから視線を逸らし、アレンは小さく微笑んで、プレートにひとつ残っただし巻き玉子を食い入るように見つめて言った。
「近くにいると辛いんです。隣の部屋にいるとドアを叩きたくなる。横にいると話しかけたくなる。彼の邪魔をしたくないのに。かまって欲しいと思ってしまう。僕は、そんな自分が嫌いだ」
ぐっと唇を引き結んだ弟に、ヘンリーはいったん席を立ち、テーブルをまわってその横に座った。
「一週間後にパリ見本市と体験予約販売会があるんだ。僕は午後にはパリに向かう。お前、僕について来るかい?」
ゆっくりと顔をあげたアレンに、ヘンリーは確認するようにちょっと首を傾けてみせた。アレンが驚いた顔でぎこちなく頷くと、ヘンリーはポケットから白い皮手袋を出しテーブルに置いた。
「これを使うといいよ。握手のとき、『植物かぶれをおこしてしまい酷い状態なので、手袋のまま失礼します』と言えばいい。これで、しつこく手を握ってくる輩もぐっと減るはずだよ」
ぽかんとするアレンのセレストブルーの大きな瞳に、ヘンリーの苦笑いが映る。
「僕も握手は嫌いだった。今はさすがに断るわけにはいかないけどね」
「……ありがとうございます」
嬉しすぎて、泣いてしまいそうだった。
兄が自分を見ていてくれたことが、信じられなかった。自分のことを気遣ってくれている事実が、奇跡のように思えた。昨夜はあんなにきつく怒られたのに――。みっともないと。あまりにも僕がみっともない顔をしていたから、広間から出るように言われたのだと思っていたのに――。
吉野の言った通りだ……。
――あいつはきついし、厭味ったらしいし、甘ったるい言葉なんかかけちゃくれないけれど、ちゃんと見ているんだ。相手に何が必要かってこと。だから俺、ヘンリーに飛鳥を預けていられるんだ。
じんわりと浮かんできた涙にアレンが瞼を瞬かせていたとき、背後でいきなり明るい声が響いた。
「おはよう、やっと起きたんだね、きみ! あ、ヨシノのだし巻き玉子だ! 僕も彼に作ってもらったよ! 彼、サイコーに料理上手いよね!」
馴れ馴れしく声高に喋る口調に覚えがあった。アレンはぐっと唾を呑み込み、立ちあがる。
「初めまして」
「あれ? 昨夜会わなかったっけ、テラスで。でも挨拶はまだだったね」
「いいえ、初対面です」
「暗かったしね。僕はマルセッロ・ボルージャ。よろしく」
にこやかな笑顔とともに差しだされた手を、アレンはしっかりと握り返す。
「ヨシノはあなたをマルセルと呼んでいましたよ。マルセッロ・ボルージャと区別するために」
冷ややかな視線を向けるアレンを、マルセルは笑みを消し睨み返した。
座ったままのヘンリーはふたりから視線を逸らし、クスリと笑う。
「何のことかな。――別にいいよ、マルセルでも。フランス語読みでも、ぜんぜんかまわないよ。スペイン語の発音が難しいのならね」
マルセルはそんな些細なこと、どうでもいいとばかりに微笑んで、吹き抜けになっている広い漆喰壁の前に立つ執事に声をかけた。
「ジャン、僕にもコーヒーを」
アレンは着席すると大きく口を開け、残っていただし巻き玉子を一口で頬ばった。まるで、これを見られることすら腹立たしいと言わんばかりに。盗られるのではないかと、恐れているかのように……。
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