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六章
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「ほら、走れ走れ!」
吉野は笑いながら、ごつごつした狭い石畳を全力で疾走している。そのすぐ後を、絶えず後ろを振り返りながらアリーが続く。
中心に小さな噴水が据えられてある裏路地の交差する広場で、二人はやっと立ち止まった。噴水といっても、大人の背丈よりもわずかに高い程度の白い円柱の上に彫刻が置かれ、柱の下方側面にある黒い鉄製の犬のような顔の口から、水がちょろちょろと流れているだけだったが。
息を整えながら、アリーが腹立たしげな視線を吉野に向けた。
「いい加減に、危ない地区に行くのは止めにしませんか?」
「あんたがいないと、もっと楽に見てまわれるんだけどさ。ほら、あんたがそんないかつい顔をしているからさ、すぐに警戒されて追っかけられるような目に遭うんだよ」
円柱を中心に白い滑らやかな石で丸く囲まれた綺麗な水を湛える噴水の縁に腰かけて、吉野はアリーを見あげた。アリーは返事の代わりに腹立たしげに眉根をよせ、くるりと吉野を庇うように背を向ける。
「あーあ、ヤバそうな奴らがうじゃうじゃ出てきたな」
吉野はどことなく嬉しそうに、アリーに喋りかけている。そして「よく見えないんだ。そこ、どいて」と前に立つアリーのTシャツの裾を引っ張る。もちろん、彼が動くはずがない。アリーは、じりじりと囲むように間合いを詰めている、黒づくめの服装の五、六人のスキンヘッドや、モヒカンの男たちを睨めつけている。
『なぁ、この噴水の天辺にいるのって、犬なの?』
立ちあがり、アリーの背後から顔をだした吉野は、目の前の男たちに、にっこりと笑いかけてドイツ語で訊ねた。だが返事はない。
『尻尾が狼ぽいだろ? どっちなんだろう? この像の女の子さぁ、もしかして狼と赤ずきんちゃんなのかな?』
のんびりと喋り続ける吉野なぞ無視した、無表情、無言のままの男たちはじりじりと詰め寄っている。すっと右手を腰に廻したアリーに、吉野は小声で囁いた。
「手を出すなよ、アリー」
『移民はみな死んじまえ!』
その一声を合図に、男たちは次々とナイフを取りだしてその手に握りしめた。
「まだだ」
吉野は、アリーの背後で小さく呟く。
地面を一蹴りすれば届きそうな位置まできたとき、銃声が空気を切り裂いた。銃を構えたアリーに彼らの視線が集中する。当の本人は狐に抓まれた顔をしながらも、動揺して急に及び腰になり、後退りし始めた連中を、ギラギラした眼光で脅しつける。
「来たな――」
吉野は再び噴水の縁に腰をおろし、俯いて、透き通る水に掌を浸しゆらゆらと水面を揺らした。
壁に囲まれたこの狭い空間に、うめき声と押し殺すような悲鳴が鈍く響きわたる。
吉野は堪らず顔をあげ、声を荒げた。
「おい! 殺すなよ! そいつらまだガキなんだぞ!」
彼の視界の先では、逃げ道を塞ぐように十字路の四方に立つ黒いスーツ姿の男たちに、スキンヘッドの若者たちが叩きのめされている。彼らのサングラスを落とされた下から覗く顔は、想像以上に幼い。
吉野は不愉快そうに顔をしかめ、濡れた片手を振って滴をピシッと切ると、スーツ姿の男の一人に歩み寄ろうと足を踏みだした。アリーは銃を構えたまま反対の手で吉野の腕を掴み、自分の身体を盾にするように前に進みでた。
吉野はかまわずアリー越しに大声をあげた。
「なぁ、あんた達、どこのルベリーニ?」
「あまり危険なマネはなさらないで下さい。宗主がご心配されています」
「ふーん、ロレンツォの直属かぁ」
返ってきた相手の綺麗なクイーンズ・イングリッシュに、吉野は納得したように頷いた。アリーも警戒心を若干解いて、すっと吉野の横に身体を退けた。
「なぁ、あんた達がごっそりついてくるからさ、俺、警戒されてなかなか情報収集できなくて迷惑しているんだ」
高級そうなスーツを着こなしている紳士然とした、だが、どこかキナ臭い臭いのする体躯の良い男に真っ直ぐな視線を向けて、吉野は唇を尖らせ抗議した。男はカラカラと笑った。
「困ったお坊ちゃんだな!」
「参るよ、まったく。サウードの寄越したのは、厳つい軍人上がりだし、ヘンリーは、まるでMI6かなにかの諜報員みたいなあいつだろ。その上あんた達ときたら、見た目もろマフィアじゃないか。俺、いったいどこの裏組織の坊ちゃんだよ?」
吉野のぼやきに、スーツの男もアリーも苦笑しながら、やれやれと首を振っている。
「もう一人はどうしました?」
「宿で待たせている。あんな見るからに英国紳士と一緒じゃ、イスラム地区には行きづらいからな」
真面目な顔に戻った男に、吉野はちょっと訝しげな視線を向けて応え、クスリと笑っている男に重ねて訊ねた。
「あんた達、知り合い?」
「ええ、まぁ」
曖昧に応え、男は顎をしゃくって辺りに散らばる配下に目線を送る。
「それでは、ほどほどにされて下さいよ」
現れた時と同じように瞬く間に姿を消したルベリーニの配下たちに、吉野とアリーはそれぞれが苦笑を浮かべあう。
「ルベリーニまで護衛をつけていましたか」
だが、ふんっと鼻を鳴らすアリーに対し、吉野は不思議そうに首を捻っている。
「ドイツやフランス分家ならともかく、本家に面倒みてもらうような義理はないんだけどな――。ヘンリーがウィル以外につけるとも思えないし」
「あなたが手に負えないから応援要請したんじゃありませんか?」
アリーの揶揄うような瞳に、吉野はひょいと首をすくめた。
「まぁ、そう言うなよ。現地を見てまわるって大事なんだぞ。あんたの雇い主はアラブの王さまになる奴なんだからさ」
かすかに表情を変えたアリーから目を逸らし、吉野は大袈裟に息を吐いた。
「そうはいっても、前途多難だけどな」
「行きましょうか」
また元の無表情に戻り顎で先を促すアリーに並んで、吉野は、高い石造りの壁と壁の間から覗く、薄く雲のかかる青空を見やりながら、狭い裏路地を歩きだした。
吉野は笑いながら、ごつごつした狭い石畳を全力で疾走している。そのすぐ後を、絶えず後ろを振り返りながらアリーが続く。
中心に小さな噴水が据えられてある裏路地の交差する広場で、二人はやっと立ち止まった。噴水といっても、大人の背丈よりもわずかに高い程度の白い円柱の上に彫刻が置かれ、柱の下方側面にある黒い鉄製の犬のような顔の口から、水がちょろちょろと流れているだけだったが。
息を整えながら、アリーが腹立たしげな視線を吉野に向けた。
「いい加減に、危ない地区に行くのは止めにしませんか?」
「あんたがいないと、もっと楽に見てまわれるんだけどさ。ほら、あんたがそんないかつい顔をしているからさ、すぐに警戒されて追っかけられるような目に遭うんだよ」
円柱を中心に白い滑らやかな石で丸く囲まれた綺麗な水を湛える噴水の縁に腰かけて、吉野はアリーを見あげた。アリーは返事の代わりに腹立たしげに眉根をよせ、くるりと吉野を庇うように背を向ける。
「あーあ、ヤバそうな奴らがうじゃうじゃ出てきたな」
吉野はどことなく嬉しそうに、アリーに喋りかけている。そして「よく見えないんだ。そこ、どいて」と前に立つアリーのTシャツの裾を引っ張る。もちろん、彼が動くはずがない。アリーは、じりじりと囲むように間合いを詰めている、黒づくめの服装の五、六人のスキンヘッドや、モヒカンの男たちを睨めつけている。
『なぁ、この噴水の天辺にいるのって、犬なの?』
立ちあがり、アリーの背後から顔をだした吉野は、目の前の男たちに、にっこりと笑いかけてドイツ語で訊ねた。だが返事はない。
『尻尾が狼ぽいだろ? どっちなんだろう? この像の女の子さぁ、もしかして狼と赤ずきんちゃんなのかな?』
のんびりと喋り続ける吉野なぞ無視した、無表情、無言のままの男たちはじりじりと詰め寄っている。すっと右手を腰に廻したアリーに、吉野は小声で囁いた。
「手を出すなよ、アリー」
『移民はみな死んじまえ!』
その一声を合図に、男たちは次々とナイフを取りだしてその手に握りしめた。
「まだだ」
吉野は、アリーの背後で小さく呟く。
地面を一蹴りすれば届きそうな位置まできたとき、銃声が空気を切り裂いた。銃を構えたアリーに彼らの視線が集中する。当の本人は狐に抓まれた顔をしながらも、動揺して急に及び腰になり、後退りし始めた連中を、ギラギラした眼光で脅しつける。
「来たな――」
吉野は再び噴水の縁に腰をおろし、俯いて、透き通る水に掌を浸しゆらゆらと水面を揺らした。
壁に囲まれたこの狭い空間に、うめき声と押し殺すような悲鳴が鈍く響きわたる。
吉野は堪らず顔をあげ、声を荒げた。
「おい! 殺すなよ! そいつらまだガキなんだぞ!」
彼の視界の先では、逃げ道を塞ぐように十字路の四方に立つ黒いスーツ姿の男たちに、スキンヘッドの若者たちが叩きのめされている。彼らのサングラスを落とされた下から覗く顔は、想像以上に幼い。
吉野は不愉快そうに顔をしかめ、濡れた片手を振って滴をピシッと切ると、スーツ姿の男の一人に歩み寄ろうと足を踏みだした。アリーは銃を構えたまま反対の手で吉野の腕を掴み、自分の身体を盾にするように前に進みでた。
吉野はかまわずアリー越しに大声をあげた。
「なぁ、あんた達、どこのルベリーニ?」
「あまり危険なマネはなさらないで下さい。宗主がご心配されています」
「ふーん、ロレンツォの直属かぁ」
返ってきた相手の綺麗なクイーンズ・イングリッシュに、吉野は納得したように頷いた。アリーも警戒心を若干解いて、すっと吉野の横に身体を退けた。
「なぁ、あんた達がごっそりついてくるからさ、俺、警戒されてなかなか情報収集できなくて迷惑しているんだ」
高級そうなスーツを着こなしている紳士然とした、だが、どこかキナ臭い臭いのする体躯の良い男に真っ直ぐな視線を向けて、吉野は唇を尖らせ抗議した。男はカラカラと笑った。
「困ったお坊ちゃんだな!」
「参るよ、まったく。サウードの寄越したのは、厳つい軍人上がりだし、ヘンリーは、まるでMI6かなにかの諜報員みたいなあいつだろ。その上あんた達ときたら、見た目もろマフィアじゃないか。俺、いったいどこの裏組織の坊ちゃんだよ?」
吉野のぼやきに、スーツの男もアリーも苦笑しながら、やれやれと首を振っている。
「もう一人はどうしました?」
「宿で待たせている。あんな見るからに英国紳士と一緒じゃ、イスラム地区には行きづらいからな」
真面目な顔に戻った男に、吉野はちょっと訝しげな視線を向けて応え、クスリと笑っている男に重ねて訊ねた。
「あんた達、知り合い?」
「ええ、まぁ」
曖昧に応え、男は顎をしゃくって辺りに散らばる配下に目線を送る。
「それでは、ほどほどにされて下さいよ」
現れた時と同じように瞬く間に姿を消したルベリーニの配下たちに、吉野とアリーはそれぞれが苦笑を浮かべあう。
「ルベリーニまで護衛をつけていましたか」
だが、ふんっと鼻を鳴らすアリーに対し、吉野は不思議そうに首を捻っている。
「ドイツやフランス分家ならともかく、本家に面倒みてもらうような義理はないんだけどな――。ヘンリーがウィル以外につけるとも思えないし」
「あなたが手に負えないから応援要請したんじゃありませんか?」
アリーの揶揄うような瞳に、吉野はひょいと首をすくめた。
「まぁ、そう言うなよ。現地を見てまわるって大事なんだぞ。あんたの雇い主はアラブの王さまになる奴なんだからさ」
かすかに表情を変えたアリーから目を逸らし、吉野は大袈裟に息を吐いた。
「そうはいっても、前途多難だけどな」
「行きましょうか」
また元の無表情に戻り顎で先を促すアリーに並んで、吉野は、高い石造りの壁と壁の間から覗く、薄く雲のかかる青空を見やりながら、狭い裏路地を歩きだした。
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