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五章
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「ヨシノ、間に合わなかったね」
クリスは残念そうに鏡の前に腰かけているアレンに声をかけた。コンサートホールの控室は、廊下から聞こえてくる華やいだざわめきとは裏腹に、奇妙なほど沈んでいる。
「遅くても十日もすれば、って言っていたのに、もう二週間だ」
アレンは苦笑しながら呟いて、鏡の中の蒼白い自分の顔をぼんやりと見つめる。
吉野がいないと、僕はまるで実体のない幽霊みたいだ――。
去年、米国に戻っていた時以上の喪失感と寂寞が、アレンの胸を埋め尽くしていた。
創立前夜祭の定期コンサートには、絶対にきてくれると約束したのに――。
吉野との約束は、守られるよりも破られることの方が多い。吉野はいつもふらっとどこかへ消えてしまうから。今回のように行先の分かっている方が珍しいくらいだ。分かっているのに、本当にちゃんと戻ってきてくれるのか、とアレンは不安でたまらないのだ。
誰も彼を縛れない。地上に繋ぎ留めてはおけない。
そんな堂々巡りの考えに押し流されて心に澱が溜まっていく。どろりと重く粘りを持った想いにすぐに支配されてしまう。
人形のような、感情のないガラス玉のようだった自分の瞳が、寂しさと、腹立たしさ、そして何よりも自己嫌悪で燃えあがる。こんなことでは駄目だと、アレンは自分の頬を両手で挟み、ピシャリと叩いた。
不快なだけの自分の生気のない顔に見切りをつけて、席を立つ。
「ヨシノから連絡はないの?」
コンサートホールはすでに満席で、通路まで立ち見客で埋まっている。開演五分前のブザーが鳴る。
フレデリックはそわそわと落ちつかない様子で隣に座るサウードに話しかけた。
「ロンドンには戻っているはずなんだよ」
訊かれた当人も訝しげに首を傾げている。
「空港まで確かに送り届けて、迎えの方も来ていたって報告は受けているのだけどね」
「迎え? ラザフォード卿かな?」
どうだろう? と首をすくめるサウード。フレデリックも埒が明かない諦めたのか、小さく吐息をついてそれ以上は訊ねなかった。
「今年のクリスは安定しているね」
「去年と演目も同じバッハだし、自信がついてきたんじゃないかな」
堂々とした姿勢で喝采に応えるクリスを割れんばかりの拍手で湛えながら、フレデリックも、サウードも、ここしばらくチェロの練習に打ちこんでいたクリスの成果を自分のことのように喜んでいる。
「でも、」
「次だね」
フレデリックはサウードと顔を見合わせ、不安そうに頬を引きつらせる。
クリスに変わり舞台上に現れたアレンは、遠目にも判るほど顔色が悪い。ただでさえぬけるように色白の肌が透明感を増し、透き通る彼の空気をより静謐に見せている。客席に向かい一礼した彼の目線が一瞬、一点を捉えた。アレンは、ふわりと、緊張がほぐれたかのように微笑んだ。と同時に、きゃー、と黄色い歓声があがる。
「うわ……」
隣のサウードをちらりと見ると、やはり笑いを噛み殺している。
溜息を漏らすフレデリックに、「ヨシノ、間に合ったみたいだね」サウードが耳許で囁いた。
アンコールに応えることもなくそそくさと舞台から引っ込んだアレンに、ブーイングと拍手とがごちゃ混ぜになり客席は騒然としていた。
「ヨシノ、どの辺りだろうね?」
フレデリックは首を伸ばして客席を見廻しながら、いるはずの吉野を探している。
「とりあえず出よう。彼も最後まではいないだろう?」
サウードは立ち上がり、「それにしても、えらい騒ぎだな……」と目で不快感を露わにしながら、先に立って人混みをかきわけてロビーに向かった。
ホールの扉を開けロビーに出ると、閑散としたフロアの柱にもたれた吉野が手を振っていた。
「よう! 変わりないか?」
「お帰り。元気そうだね!」
いつもの屈託ない吉野の笑顔に、ほっとして笑みがこぼれたる。駆け寄ったフレデリックは、急に立ち止まり、息を呑んで、緊張した面持ちで柱の陰にいて気づかなかった長身の男を見あげる。
その背後から歩み寄ったサウードが、その肩をポンと叩く。
「お帰り、ヨシノ。はじめまして、ルベリーニ公」
サウードは鷹揚に微笑みながら、正装しているロレンツォに握手を求める。ロレンツォも悠然と挨拶を返している。
「なぁ、中、えらい騒ぎだけど、あれどうしたんだ?」
のんびりとした吉野の問いに、フレデリックは困ったように肩をすくめた。
「――クリスマスの時もすごかったけどさ、ここのホールはそれに輪をかけて、規模が三分の一しかないから……。すさまじかったよ、今年のチケット争奪戦」
「あいつも花くらい受け取ってやればいいのに」
「ああ、きみもサウードも、クリスマスは見にいかなかったんだったね。それをすると時間内に終わらなくなるんだ。ほら、」とフレデリックは受付を指さした。『お花はこちらへどうぞ』の張り紙がしてある。
「クリスマスコンサートは後半、滅茶苦茶になったからね。教訓だよ」
「ヘンリーの時もすごかったよ。だが、それ以上かもな。懐かしいよ」
ロレンツォが目を細めて笑っている。
「チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲?」
一瞬暗く影の差した瞳で呟いた吉野に、ロレンツォが応える。
「そっちじゃなくて、ベートーベン」
「ああ、あんたが跪いたやつね」
蒼白になるフレデリックの前で、ロレンツォは豪快な笑い声をあげた。
「よく知っているな!」
軽口を叩きあい、しばらく雑談してロレンツォが立ち去った後、フレデリックは深く溜息をついてその場にしゃがみこむ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
自分を見下ろす吉野を見あげ、フレデリックはまた、深々と吐息を漏らす。
「緊張したー。本物のルベリーニ公に会えるなんて――。おまけに、握手までしていただけて……。しばらくこの手は洗えないよ、もったいなくてさ」
「変な奴」
「だって、ルベリーニ公だよ! 欧州中の王族と血縁関係のあるルベリーニ一族の宗主だよ! 王室の方々と変わらないご身分の方にあんなに気さくに接していただけるなんて――。僕はこの日のことを一生忘れないよ!」
「僕も王族なんだけどな」
サウードがフレデリックの横にしゃがみこんで呟いた。
「ああ、忘れていた」
真顔で呟くフレデリックに、吉野も、サウードも、吹きだしながら顔を見合わせる。
「お前、意外と大物だな」
揶揄うように細められた吉野の目を見返しながら、フレデリックはくいっと眉毛をあげて、照れくさそうに微笑んだ。
クリスは残念そうに鏡の前に腰かけているアレンに声をかけた。コンサートホールの控室は、廊下から聞こえてくる華やいだざわめきとは裏腹に、奇妙なほど沈んでいる。
「遅くても十日もすれば、って言っていたのに、もう二週間だ」
アレンは苦笑しながら呟いて、鏡の中の蒼白い自分の顔をぼんやりと見つめる。
吉野がいないと、僕はまるで実体のない幽霊みたいだ――。
去年、米国に戻っていた時以上の喪失感と寂寞が、アレンの胸を埋め尽くしていた。
創立前夜祭の定期コンサートには、絶対にきてくれると約束したのに――。
吉野との約束は、守られるよりも破られることの方が多い。吉野はいつもふらっとどこかへ消えてしまうから。今回のように行先の分かっている方が珍しいくらいだ。分かっているのに、本当にちゃんと戻ってきてくれるのか、とアレンは不安でたまらないのだ。
誰も彼を縛れない。地上に繋ぎ留めてはおけない。
そんな堂々巡りの考えに押し流されて心に澱が溜まっていく。どろりと重く粘りを持った想いにすぐに支配されてしまう。
人形のような、感情のないガラス玉のようだった自分の瞳が、寂しさと、腹立たしさ、そして何よりも自己嫌悪で燃えあがる。こんなことでは駄目だと、アレンは自分の頬を両手で挟み、ピシャリと叩いた。
不快なだけの自分の生気のない顔に見切りをつけて、席を立つ。
「ヨシノから連絡はないの?」
コンサートホールはすでに満席で、通路まで立ち見客で埋まっている。開演五分前のブザーが鳴る。
フレデリックはそわそわと落ちつかない様子で隣に座るサウードに話しかけた。
「ロンドンには戻っているはずなんだよ」
訊かれた当人も訝しげに首を傾げている。
「空港まで確かに送り届けて、迎えの方も来ていたって報告は受けているのだけどね」
「迎え? ラザフォード卿かな?」
どうだろう? と首をすくめるサウード。フレデリックも埒が明かない諦めたのか、小さく吐息をついてそれ以上は訊ねなかった。
「今年のクリスは安定しているね」
「去年と演目も同じバッハだし、自信がついてきたんじゃないかな」
堂々とした姿勢で喝采に応えるクリスを割れんばかりの拍手で湛えながら、フレデリックも、サウードも、ここしばらくチェロの練習に打ちこんでいたクリスの成果を自分のことのように喜んでいる。
「でも、」
「次だね」
フレデリックはサウードと顔を見合わせ、不安そうに頬を引きつらせる。
クリスに変わり舞台上に現れたアレンは、遠目にも判るほど顔色が悪い。ただでさえぬけるように色白の肌が透明感を増し、透き通る彼の空気をより静謐に見せている。客席に向かい一礼した彼の目線が一瞬、一点を捉えた。アレンは、ふわりと、緊張がほぐれたかのように微笑んだ。と同時に、きゃー、と黄色い歓声があがる。
「うわ……」
隣のサウードをちらりと見ると、やはり笑いを噛み殺している。
溜息を漏らすフレデリックに、「ヨシノ、間に合ったみたいだね」サウードが耳許で囁いた。
アンコールに応えることもなくそそくさと舞台から引っ込んだアレンに、ブーイングと拍手とがごちゃ混ぜになり客席は騒然としていた。
「ヨシノ、どの辺りだろうね?」
フレデリックは首を伸ばして客席を見廻しながら、いるはずの吉野を探している。
「とりあえず出よう。彼も最後まではいないだろう?」
サウードは立ち上がり、「それにしても、えらい騒ぎだな……」と目で不快感を露わにしながら、先に立って人混みをかきわけてロビーに向かった。
ホールの扉を開けロビーに出ると、閑散としたフロアの柱にもたれた吉野が手を振っていた。
「よう! 変わりないか?」
「お帰り。元気そうだね!」
いつもの屈託ない吉野の笑顔に、ほっとして笑みがこぼれたる。駆け寄ったフレデリックは、急に立ち止まり、息を呑んで、緊張した面持ちで柱の陰にいて気づかなかった長身の男を見あげる。
その背後から歩み寄ったサウードが、その肩をポンと叩く。
「お帰り、ヨシノ。はじめまして、ルベリーニ公」
サウードは鷹揚に微笑みながら、正装しているロレンツォに握手を求める。ロレンツォも悠然と挨拶を返している。
「なぁ、中、えらい騒ぎだけど、あれどうしたんだ?」
のんびりとした吉野の問いに、フレデリックは困ったように肩をすくめた。
「――クリスマスの時もすごかったけどさ、ここのホールはそれに輪をかけて、規模が三分の一しかないから……。すさまじかったよ、今年のチケット争奪戦」
「あいつも花くらい受け取ってやればいいのに」
「ああ、きみもサウードも、クリスマスは見にいかなかったんだったね。それをすると時間内に終わらなくなるんだ。ほら、」とフレデリックは受付を指さした。『お花はこちらへどうぞ』の張り紙がしてある。
「クリスマスコンサートは後半、滅茶苦茶になったからね。教訓だよ」
「ヘンリーの時もすごかったよ。だが、それ以上かもな。懐かしいよ」
ロレンツォが目を細めて笑っている。
「チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲?」
一瞬暗く影の差した瞳で呟いた吉野に、ロレンツォが応える。
「そっちじゃなくて、ベートーベン」
「ああ、あんたが跪いたやつね」
蒼白になるフレデリックの前で、ロレンツォは豪快な笑い声をあげた。
「よく知っているな!」
軽口を叩きあい、しばらく雑談してロレンツォが立ち去った後、フレデリックは深く溜息をついてその場にしゃがみこむ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
自分を見下ろす吉野を見あげ、フレデリックはまた、深々と吐息を漏らす。
「緊張したー。本物のルベリーニ公に会えるなんて――。おまけに、握手までしていただけて……。しばらくこの手は洗えないよ、もったいなくてさ」
「変な奴」
「だって、ルベリーニ公だよ! 欧州中の王族と血縁関係のあるルベリーニ一族の宗主だよ! 王室の方々と変わらないご身分の方にあんなに気さくに接していただけるなんて――。僕はこの日のことを一生忘れないよ!」
「僕も王族なんだけどな」
サウードがフレデリックの横にしゃがみこんで呟いた。
「ああ、忘れていた」
真顔で呟くフレデリックに、吉野も、サウードも、吹きだしながら顔を見合わせる。
「お前、意外と大物だな」
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