325 / 751
五章
5
しおりを挟む
「ヨシノ、間に合わなかったね」
クリスは残念そうに鏡の前に腰かけているアレンに声をかけた。コンサートホールの控室は、廊下から聞こえてくる華やいだざわめきとは裏腹に、奇妙なほど沈んでいる。
「遅くても十日もすれば、って言っていたのに、もう二週間だ」
アレンは苦笑しながら呟いて、鏡の中の蒼白い自分の顔をぼんやりと見つめる。
吉野がいないと、僕はまるで実体のない幽霊みたいだ――。
去年、米国に戻っていた時以上の喪失感と寂寞が、アレンの胸を埋め尽くしていた。
創立前夜祭の定期コンサートには、絶対にきてくれると約束したのに――。
吉野との約束は、守られるよりも破られることの方が多い。吉野はいつもふらっとどこかへ消えてしまうから。今回のように行先の分かっている方が珍しいくらいだ。分かっているのに、本当にちゃんと戻ってきてくれるのか、とアレンは不安でたまらないのだ。
誰も彼を縛れない。地上に繋ぎ留めてはおけない。
そんな堂々巡りの考えに押し流されて心に澱が溜まっていく。どろりと重く粘りを持った想いにすぐに支配されてしまう。
人形のような、感情のないガラス玉のようだった自分の瞳が、寂しさと、腹立たしさ、そして何よりも自己嫌悪で燃えあがる。こんなことでは駄目だと、アレンは自分の頬を両手で挟み、ピシャリと叩いた。
不快なだけの自分の生気のない顔に見切りをつけて、席を立つ。
「ヨシノから連絡はないの?」
コンサートホールはすでに満席で、通路まで立ち見客で埋まっている。開演五分前のブザーが鳴る。
フレデリックはそわそわと落ちつかない様子で隣に座るサウードに話しかけた。
「ロンドンには戻っているはずなんだよ」
訊かれた当人も訝しげに首を傾げている。
「空港まで確かに送り届けて、迎えの方も来ていたって報告は受けているのだけどね」
「迎え? ラザフォード卿かな?」
どうだろう? と首をすくめるサウード。フレデリックも埒が明かない諦めたのか、小さく吐息をついてそれ以上は訊ねなかった。
「今年のクリスは安定しているね」
「去年と演目も同じバッハだし、自信がついてきたんじゃないかな」
堂々とした姿勢で喝采に応えるクリスを割れんばかりの拍手で湛えながら、フレデリックも、サウードも、ここしばらくチェロの練習に打ちこんでいたクリスの成果を自分のことのように喜んでいる。
「でも、」
「次だね」
フレデリックはサウードと顔を見合わせ、不安そうに頬を引きつらせる。
クリスに変わり舞台上に現れたアレンは、遠目にも判るほど顔色が悪い。ただでさえぬけるように色白の肌が透明感を増し、透き通る彼の空気をより静謐に見せている。客席に向かい一礼した彼の目線が一瞬、一点を捉えた。アレンは、ふわりと、緊張がほぐれたかのように微笑んだ。と同時に、きゃー、と黄色い歓声があがる。
「うわ……」
隣のサウードをちらりと見ると、やはり笑いを噛み殺している。
溜息を漏らすフレデリックに、「ヨシノ、間に合ったみたいだね」サウードが耳許で囁いた。
アンコールに応えることもなくそそくさと舞台から引っ込んだアレンに、ブーイングと拍手とがごちゃ混ぜになり客席は騒然としていた。
「ヨシノ、どの辺りだろうね?」
フレデリックは首を伸ばして客席を見廻しながら、いるはずの吉野を探している。
「とりあえず出よう。彼も最後まではいないだろう?」
サウードは立ち上がり、「それにしても、えらい騒ぎだな……」と目で不快感を露わにしながら、先に立って人混みをかきわけてロビーに向かった。
ホールの扉を開けロビーに出ると、閑散としたフロアの柱にもたれた吉野が手を振っていた。
「よう! 変わりないか?」
「お帰り。元気そうだね!」
いつもの屈託ない吉野の笑顔に、ほっとして笑みがこぼれたる。駆け寄ったフレデリックは、急に立ち止まり、息を呑んで、緊張した面持ちで柱の陰にいて気づかなかった長身の男を見あげる。
その背後から歩み寄ったサウードが、その肩をポンと叩く。
「お帰り、ヨシノ。はじめまして、ルベリーニ公」
サウードは鷹揚に微笑みながら、正装しているロレンツォに握手を求める。ロレンツォも悠然と挨拶を返している。
「なぁ、中、えらい騒ぎだけど、あれどうしたんだ?」
のんびりとした吉野の問いに、フレデリックは困ったように肩をすくめた。
「――クリスマスの時もすごかったけどさ、ここのホールはそれに輪をかけて、規模が三分の一しかないから……。すさまじかったよ、今年のチケット争奪戦」
「あいつも花くらい受け取ってやればいいのに」
「ああ、きみもサウードも、クリスマスは見にいかなかったんだったね。それをすると時間内に終わらなくなるんだ。ほら、」とフレデリックは受付を指さした。『お花はこちらへどうぞ』の張り紙がしてある。
「クリスマスコンサートは後半、滅茶苦茶になったからね。教訓だよ」
「ヘンリーの時もすごかったよ。だが、それ以上かもな。懐かしいよ」
ロレンツォが目を細めて笑っている。
「チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲?」
一瞬暗く影の差した瞳で呟いた吉野に、ロレンツォが応える。
「そっちじゃなくて、ベートーベン」
「ああ、あんたが跪いたやつね」
蒼白になるフレデリックの前で、ロレンツォは豪快な笑い声をあげた。
「よく知っているな!」
軽口を叩きあい、しばらく雑談してロレンツォが立ち去った後、フレデリックは深く溜息をついてその場にしゃがみこむ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
自分を見下ろす吉野を見あげ、フレデリックはまた、深々と吐息を漏らす。
「緊張したー。本物のルベリーニ公に会えるなんて――。おまけに、握手までしていただけて……。しばらくこの手は洗えないよ、もったいなくてさ」
「変な奴」
「だって、ルベリーニ公だよ! 欧州中の王族と血縁関係のあるルベリーニ一族の宗主だよ! 王室の方々と変わらないご身分の方にあんなに気さくに接していただけるなんて――。僕はこの日のことを一生忘れないよ!」
「僕も王族なんだけどな」
サウードがフレデリックの横にしゃがみこんで呟いた。
「ああ、忘れていた」
真顔で呟くフレデリックに、吉野も、サウードも、吹きだしながら顔を見合わせる。
「お前、意外と大物だな」
揶揄うように細められた吉野の目を見返しながら、フレデリックはくいっと眉毛をあげて、照れくさそうに微笑んだ。
クリスは残念そうに鏡の前に腰かけているアレンに声をかけた。コンサートホールの控室は、廊下から聞こえてくる華やいだざわめきとは裏腹に、奇妙なほど沈んでいる。
「遅くても十日もすれば、って言っていたのに、もう二週間だ」
アレンは苦笑しながら呟いて、鏡の中の蒼白い自分の顔をぼんやりと見つめる。
吉野がいないと、僕はまるで実体のない幽霊みたいだ――。
去年、米国に戻っていた時以上の喪失感と寂寞が、アレンの胸を埋め尽くしていた。
創立前夜祭の定期コンサートには、絶対にきてくれると約束したのに――。
吉野との約束は、守られるよりも破られることの方が多い。吉野はいつもふらっとどこかへ消えてしまうから。今回のように行先の分かっている方が珍しいくらいだ。分かっているのに、本当にちゃんと戻ってきてくれるのか、とアレンは不安でたまらないのだ。
誰も彼を縛れない。地上に繋ぎ留めてはおけない。
そんな堂々巡りの考えに押し流されて心に澱が溜まっていく。どろりと重く粘りを持った想いにすぐに支配されてしまう。
人形のような、感情のないガラス玉のようだった自分の瞳が、寂しさと、腹立たしさ、そして何よりも自己嫌悪で燃えあがる。こんなことでは駄目だと、アレンは自分の頬を両手で挟み、ピシャリと叩いた。
不快なだけの自分の生気のない顔に見切りをつけて、席を立つ。
「ヨシノから連絡はないの?」
コンサートホールはすでに満席で、通路まで立ち見客で埋まっている。開演五分前のブザーが鳴る。
フレデリックはそわそわと落ちつかない様子で隣に座るサウードに話しかけた。
「ロンドンには戻っているはずなんだよ」
訊かれた当人も訝しげに首を傾げている。
「空港まで確かに送り届けて、迎えの方も来ていたって報告は受けているのだけどね」
「迎え? ラザフォード卿かな?」
どうだろう? と首をすくめるサウード。フレデリックも埒が明かない諦めたのか、小さく吐息をついてそれ以上は訊ねなかった。
「今年のクリスは安定しているね」
「去年と演目も同じバッハだし、自信がついてきたんじゃないかな」
堂々とした姿勢で喝采に応えるクリスを割れんばかりの拍手で湛えながら、フレデリックも、サウードも、ここしばらくチェロの練習に打ちこんでいたクリスの成果を自分のことのように喜んでいる。
「でも、」
「次だね」
フレデリックはサウードと顔を見合わせ、不安そうに頬を引きつらせる。
クリスに変わり舞台上に現れたアレンは、遠目にも判るほど顔色が悪い。ただでさえぬけるように色白の肌が透明感を増し、透き通る彼の空気をより静謐に見せている。客席に向かい一礼した彼の目線が一瞬、一点を捉えた。アレンは、ふわりと、緊張がほぐれたかのように微笑んだ。と同時に、きゃー、と黄色い歓声があがる。
「うわ……」
隣のサウードをちらりと見ると、やはり笑いを噛み殺している。
溜息を漏らすフレデリックに、「ヨシノ、間に合ったみたいだね」サウードが耳許で囁いた。
アンコールに応えることもなくそそくさと舞台から引っ込んだアレンに、ブーイングと拍手とがごちゃ混ぜになり客席は騒然としていた。
「ヨシノ、どの辺りだろうね?」
フレデリックは首を伸ばして客席を見廻しながら、いるはずの吉野を探している。
「とりあえず出よう。彼も最後まではいないだろう?」
サウードは立ち上がり、「それにしても、えらい騒ぎだな……」と目で不快感を露わにしながら、先に立って人混みをかきわけてロビーに向かった。
ホールの扉を開けロビーに出ると、閑散としたフロアの柱にもたれた吉野が手を振っていた。
「よう! 変わりないか?」
「お帰り。元気そうだね!」
いつもの屈託ない吉野の笑顔に、ほっとして笑みがこぼれたる。駆け寄ったフレデリックは、急に立ち止まり、息を呑んで、緊張した面持ちで柱の陰にいて気づかなかった長身の男を見あげる。
その背後から歩み寄ったサウードが、その肩をポンと叩く。
「お帰り、ヨシノ。はじめまして、ルベリーニ公」
サウードは鷹揚に微笑みながら、正装しているロレンツォに握手を求める。ロレンツォも悠然と挨拶を返している。
「なぁ、中、えらい騒ぎだけど、あれどうしたんだ?」
のんびりとした吉野の問いに、フレデリックは困ったように肩をすくめた。
「――クリスマスの時もすごかったけどさ、ここのホールはそれに輪をかけて、規模が三分の一しかないから……。すさまじかったよ、今年のチケット争奪戦」
「あいつも花くらい受け取ってやればいいのに」
「ああ、きみもサウードも、クリスマスは見にいかなかったんだったね。それをすると時間内に終わらなくなるんだ。ほら、」とフレデリックは受付を指さした。『お花はこちらへどうぞ』の張り紙がしてある。
「クリスマスコンサートは後半、滅茶苦茶になったからね。教訓だよ」
「ヘンリーの時もすごかったよ。だが、それ以上かもな。懐かしいよ」
ロレンツォが目を細めて笑っている。
「チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲?」
一瞬暗く影の差した瞳で呟いた吉野に、ロレンツォが応える。
「そっちじゃなくて、ベートーベン」
「ああ、あんたが跪いたやつね」
蒼白になるフレデリックの前で、ロレンツォは豪快な笑い声をあげた。
「よく知っているな!」
軽口を叩きあい、しばらく雑談してロレンツォが立ち去った後、フレデリックは深く溜息をついてその場にしゃがみこむ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
自分を見下ろす吉野を見あげ、フレデリックはまた、深々と吐息を漏らす。
「緊張したー。本物のルベリーニ公に会えるなんて――。おまけに、握手までしていただけて……。しばらくこの手は洗えないよ、もったいなくてさ」
「変な奴」
「だって、ルベリーニ公だよ! 欧州中の王族と血縁関係のあるルベリーニ一族の宗主だよ! 王室の方々と変わらないご身分の方にあんなに気さくに接していただけるなんて――。僕はこの日のことを一生忘れないよ!」
「僕も王族なんだけどな」
サウードがフレデリックの横にしゃがみこんで呟いた。
「ああ、忘れていた」
真顔で呟くフレデリックに、吉野も、サウードも、吹きだしながら顔を見合わせる。
「お前、意外と大物だな」
揶揄うように細められた吉野の目を見返しながら、フレデリックはくいっと眉毛をあげて、照れくさそうに微笑んだ。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
霧のはし 虹のたもとで
萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。
古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。
ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。
美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。
一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。
そして晃の真の目的は?
英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
夏の嵐
萩尾雅縁
キャラ文芸
垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。
全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた
楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。
この作品はハーメルン様でも掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる