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五章
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「ジャック、厨房借りるぞ!」
発砲スチロールの大きな箱を抱えて店に入って来た吉野を、ジャックはいつも通りのしわがれた豪快な笑い声で迎える。
「おう、坊主! 旨いもの食わせてくれよ!」
忙しいランチタイムを過ぎ、ちょうどひと息ついたところのようだ。
肩で厨房の扉を開けると、ジャックの息子のジェイクがパンを齧りながら、夕食分のカレーを仕込んでいた。
「ジェイク、悪いな、邪魔して。仕込み、手伝うよ」
「いや、もう終わるよ。で、今日は何を作るんだい?」
ジェイクは吉野を見るなり相好を崩し、好奇心いっぱいの瞳で吉野の持つ箱をまじまじと見つめる。
「ほら、すごいだろ! ビリングズゲートから届いたばかりの奴だぞ!」
吉野は意気揚々と、発泡スチロールの蓋を開けて見せる。いっぱいに詰められた氷の上に、青々とした魚が何匹も並んでいる。
「鯖? 薫製にでもするのか?」
「里心がついてきたのかなぁ。やたら日本食が食いたくってさぁ。これ、煮付けにするんだ。ジェイクも夕飯に食ってくれよ」
「日本食か、そりゃ、楽しみだな」
にこにこと笑うジェイクに、「ここに置いてあるインスタントよりもずっと旨いよ」と、吉野は冗談めかしてにっと笑う。
ジェイクは日本食のファンなのだ。ビールのつまみは柿の種だし、レトルトのご飯を温めて食べたりもするらしい。吉野が選別したレトルト食品は全部制覇したと言っていた。今では日本食品輸入販売の仕入れも発注もすべてジェイクが仕切って、すっかりこのパブの主人らしい風格も身についたようだ。
「アンは元気にしている?」
「ああ、ロンドン大学の一年生だ。夏には戻るよ」
「そうか、俺、夏はいないよ。いつもすれ違いだな」
吉野は残念そうに肩をすくめた。
「ヨシノ、何か手伝えることある?」
アレンが出入り口からおずおずと遠慮がちに覗いている。
「ない」
憮然として口を尖らせるその顔に、吉野はため息交じりで追い払うように手を振ってみせる。
「俺、今から魚をさばくんだぞ。そんなのを見たら、お前、食えなくなるだろ? せっかくお前が食える数少ない食い物なのに」
「そんなの平気だよ。――魚く……らい……」
つかつかと歩み寄って発泡スチロールの箱を覗きこんだアレンの顔は、みるみる蒼くなっていた。
「ヨシノ、この魚、僕を睨んでるよ――」
「いいから、上に行ってろって」
アレンは血の気のひいた顔色のまま頑なに首を振り、震える声で呟いた。
「ここで見てる」
翡翠色の壁紙に映えるフラミンゴピンクのクロスの上に、吉野の手で次々と白い皿が置かれていく。刻んだキャベツと、皿の中央にはカラメル色のソースに染まる魚の切り身。カフェオレボールに盛られたご飯に、ティーカップの味噌汁。テーブルについた面々は、じっと黙ったまま並べられたプレートを凝視している。
サーブを終え席に着いた吉野は、意外そうにジェイクを見上げた。
「ずいぶん可愛いクロスに替えたんだな。女の子の客が多いの?」
「美人がくるからね」
ジェイクは片目を瞑ってニッと笑い、意味ありげに吉野の肩をぽんと叩いた。
「ごゆっくりどうぞ」
「鯖の生姜煮定食だよ。箸で食べるんだ」
「僕、箸を使うの得意だよ! 家でもよく中華の宅配を頼んでいたんだ!」
クリスは嬉しそうに目を輝かせ、もう箸を手に取っている。その向いに座るフレデリックは、傍らの、俯いたままの蒼白なアレンを心配そうに見ている。
「こうやって手を合わせて。いただきます」
吉野の真似をして、皆で手を合わせた。アレンも泣きだしそうな面をあげて、慌てて真似をする。
「イタダキマス!」
皿に目を落とし、次いで怖々と吉野を見あげるアレンを、案の定、吉野はじっと見つめている。
「ちゃんと食えよ。――食うっていうのはな、生き物の命を貰うことなんだからな。殺したら残さず食う。それが食わなきゃ生きていけない生き物の、最低限の礼儀ってもんだぞ」
からかわれて嗤われるのかと思ったら、吉野は真面目な顔をしてそう言った。
「――だからきみは、そんなに強いのかな?」
おもむろに箸を取り、アレンは吉野にぎこちなく微笑みかけた。
「たくさんの命を貰っているから」
「ヨシノは、何でも食べるもんね」
クリスはリスのように頬を膨らませてモグモグと咀嚼しながら箸を振り回し、納得したように口を挟む。
「それに、最高に美味しく食べてあげるもの!」
「うん。美味しいよ」
フレデリックも、食べ始めたアレンに安心したように微笑んで相槌を打った。
食後はやはり日本茶か? それともコーヒーか? と、皆が決めかねている頃、貸し切りのフロアに上品で場違いな声がかかった。
「こんばんは。ずいぶんとお早いお食事なのね」
一斉にきょとんとした視線が声の主に集まる。
「ご一緒してもよろしいかしら?」
「悪いけれど、世間話につきあっている暇はないんだ」
吉野の冷淡な返事を気にする様子もなく、明るい薔薇色のワンピースを着たマリーネは、すぐに柔らかな微笑をフレデリックに、次いでクリスに向け、小鳥のように小首を傾げた。
「僕は別にかまわないよ」
「僕も――」
二人はそろって、真っ赤になりながらもぞもぞと返事をしている。その上フレデリックは慌てて立ちあがって、隣のテーブルから新たな椅子を用意したり――。
「フレッド、かまわないよ。俺、下を片づけにいくから」
「僕も手伝うよ」
マリーネと入れ違いに出口から消えた吉野を、すぐにアレンが追い駆けた。
その一瞬の展開に呆気に取られ、すでに誰もいない出入り口を信じ難い思いで睨めつけていたマリーネは、よもやそんな様子はおくびにも出さずにテーブルに振りむくと、残る二人に艶やかな花のような笑みを向けた。
「ごめんなさいね。お邪魔してしまって」
発砲スチロールの大きな箱を抱えて店に入って来た吉野を、ジャックはいつも通りのしわがれた豪快な笑い声で迎える。
「おう、坊主! 旨いもの食わせてくれよ!」
忙しいランチタイムを過ぎ、ちょうどひと息ついたところのようだ。
肩で厨房の扉を開けると、ジャックの息子のジェイクがパンを齧りながら、夕食分のカレーを仕込んでいた。
「ジェイク、悪いな、邪魔して。仕込み、手伝うよ」
「いや、もう終わるよ。で、今日は何を作るんだい?」
ジェイクは吉野を見るなり相好を崩し、好奇心いっぱいの瞳で吉野の持つ箱をまじまじと見つめる。
「ほら、すごいだろ! ビリングズゲートから届いたばかりの奴だぞ!」
吉野は意気揚々と、発泡スチロールの蓋を開けて見せる。いっぱいに詰められた氷の上に、青々とした魚が何匹も並んでいる。
「鯖? 薫製にでもするのか?」
「里心がついてきたのかなぁ。やたら日本食が食いたくってさぁ。これ、煮付けにするんだ。ジェイクも夕飯に食ってくれよ」
「日本食か、そりゃ、楽しみだな」
にこにこと笑うジェイクに、「ここに置いてあるインスタントよりもずっと旨いよ」と、吉野は冗談めかしてにっと笑う。
ジェイクは日本食のファンなのだ。ビールのつまみは柿の種だし、レトルトのご飯を温めて食べたりもするらしい。吉野が選別したレトルト食品は全部制覇したと言っていた。今では日本食品輸入販売の仕入れも発注もすべてジェイクが仕切って、すっかりこのパブの主人らしい風格も身についたようだ。
「アンは元気にしている?」
「ああ、ロンドン大学の一年生だ。夏には戻るよ」
「そうか、俺、夏はいないよ。いつもすれ違いだな」
吉野は残念そうに肩をすくめた。
「ヨシノ、何か手伝えることある?」
アレンが出入り口からおずおずと遠慮がちに覗いている。
「ない」
憮然として口を尖らせるその顔に、吉野はため息交じりで追い払うように手を振ってみせる。
「俺、今から魚をさばくんだぞ。そんなのを見たら、お前、食えなくなるだろ? せっかくお前が食える数少ない食い物なのに」
「そんなの平気だよ。――魚く……らい……」
つかつかと歩み寄って発泡スチロールの箱を覗きこんだアレンの顔は、みるみる蒼くなっていた。
「ヨシノ、この魚、僕を睨んでるよ――」
「いいから、上に行ってろって」
アレンは血の気のひいた顔色のまま頑なに首を振り、震える声で呟いた。
「ここで見てる」
翡翠色の壁紙に映えるフラミンゴピンクのクロスの上に、吉野の手で次々と白い皿が置かれていく。刻んだキャベツと、皿の中央にはカラメル色のソースに染まる魚の切り身。カフェオレボールに盛られたご飯に、ティーカップの味噌汁。テーブルについた面々は、じっと黙ったまま並べられたプレートを凝視している。
サーブを終え席に着いた吉野は、意外そうにジェイクを見上げた。
「ずいぶん可愛いクロスに替えたんだな。女の子の客が多いの?」
「美人がくるからね」
ジェイクは片目を瞑ってニッと笑い、意味ありげに吉野の肩をぽんと叩いた。
「ごゆっくりどうぞ」
「鯖の生姜煮定食だよ。箸で食べるんだ」
「僕、箸を使うの得意だよ! 家でもよく中華の宅配を頼んでいたんだ!」
クリスは嬉しそうに目を輝かせ、もう箸を手に取っている。その向いに座るフレデリックは、傍らの、俯いたままの蒼白なアレンを心配そうに見ている。
「こうやって手を合わせて。いただきます」
吉野の真似をして、皆で手を合わせた。アレンも泣きだしそうな面をあげて、慌てて真似をする。
「イタダキマス!」
皿に目を落とし、次いで怖々と吉野を見あげるアレンを、案の定、吉野はじっと見つめている。
「ちゃんと食えよ。――食うっていうのはな、生き物の命を貰うことなんだからな。殺したら残さず食う。それが食わなきゃ生きていけない生き物の、最低限の礼儀ってもんだぞ」
からかわれて嗤われるのかと思ったら、吉野は真面目な顔をしてそう言った。
「――だからきみは、そんなに強いのかな?」
おもむろに箸を取り、アレンは吉野にぎこちなく微笑みかけた。
「たくさんの命を貰っているから」
「ヨシノは、何でも食べるもんね」
クリスはリスのように頬を膨らませてモグモグと咀嚼しながら箸を振り回し、納得したように口を挟む。
「それに、最高に美味しく食べてあげるもの!」
「うん。美味しいよ」
フレデリックも、食べ始めたアレンに安心したように微笑んで相槌を打った。
食後はやはり日本茶か? それともコーヒーか? と、皆が決めかねている頃、貸し切りのフロアに上品で場違いな声がかかった。
「こんばんは。ずいぶんとお早いお食事なのね」
一斉にきょとんとした視線が声の主に集まる。
「ご一緒してもよろしいかしら?」
「悪いけれど、世間話につきあっている暇はないんだ」
吉野の冷淡な返事を気にする様子もなく、明るい薔薇色のワンピースを着たマリーネは、すぐに柔らかな微笑をフレデリックに、次いでクリスに向け、小鳥のように小首を傾げた。
「僕は別にかまわないよ」
「僕も――」
二人はそろって、真っ赤になりながらもぞもぞと返事をしている。その上フレデリックは慌てて立ちあがって、隣のテーブルから新たな椅子を用意したり――。
「フレッド、かまわないよ。俺、下を片づけにいくから」
「僕も手伝うよ」
マリーネと入れ違いに出口から消えた吉野を、すぐにアレンが追い駆けた。
その一瞬の展開に呆気に取られ、すでに誰もいない出入り口を信じ難い思いで睨めつけていたマリーネは、よもやそんな様子はおくびにも出さずにテーブルに振りむくと、残る二人に艶やかな花のような笑みを向けた。
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