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五章
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早朝から響く激しいノックの音に、アレンは眠い眼を擦りながらドアを開けた。
「朝市に行くぞ」
「えーと、乗馬クラブが、」
「今日は日曜日だよ!」
吉野の後ろから、クリスがぴょこっと顔をだす。
「ん――。着替える」
一旦ドアを閉めた。
吉野もクリスも、私服だったから……。と、アレンが覚めきらない頭でぼんやりと立ち尽くしていたら、またもやドアがノックされ、フレデリックが入ってきた。
「目、覚めている? きみ、低血圧だから……」
「ん」
ぼーと突っ立っているアレンの部屋のクローゼットを開け、フレデリックはテキパキとドレスシャツ、スラックス、と順番に引っ張りだしていく。
「ほら、先に洗面を済ませて」
「ん」
アレンはノロノロと備えつけの洗面台に向かい、顔を洗う。振り向くと直ぐにタオルを差しだされた。
「ありがとう」
いつもの習慣で、ベッドに腰を下ろした。当前のようにフレデリックが髪を梳いてくれる。
「髪、伸びたね」
肩をとっくに過ぎている、柔らかな金髪を結わえながらフレデリックが呟く。
「ん。さすがにもう切りたい」
アレンはぼんやりと応えていた。
「ほら、着替えて」
「ん」
服を押しつけるように渡して、フレデリックは一足先に部屋をでた。
「手間のかかる奴」
身支度を整えてドアを開けるなり、吉野に笑われた。アレンは軽く彼を睨んでふくれっ面をする。
「昨日のうちに言ってくれれば、ちゃんと起きたのに」
「フレッドに起こしてくれって、頼んでおいたのに、だろ?」
「遅くまで勉強していたんだよね」
フレデリックがとりなすように口を挟む。
「今日は息抜きだ」
吉野の手が、クシャとアレンの頭を撫でていく。
学校から20分ほど歩いて、橋を渡った向こう岸にある隣町の朝市は、月二回、隔週の日曜日に開催される。
傾斜のあるメインストリートを、彼らは黙々と下っていた。五月に入っても、朝方の空気はいまだ冷たく肌寒い。久しぶりの抜けるような青空を見あげ、身体が温もるように早足で歩く。
大聖堂前の広場を埋めつくす80ほどの屋台の端で、まずは簡易テーブルを確保し、コーヒーと紅茶を買ってきた。
「きみ、すっかりコーヒー派になったんだね。前は飲まなかったのに」
「紅茶も好きだよ。でも朝はコーヒー」
アレンもすっきりと目が覚めたのか、柔らかく微笑んで紙コップのコーヒーを口に運んでいる。
「お腹が空いちゃったよ。早く朝ご飯を買いにいこう!」
クリスはそわそわと辺りを見回しながら、もう腰を浮かせている。
「ここにいて。適当に食い物買ってくる」
コーヒーを飲み切って、吉野はさっさと立ちあがった。
連れだって屋台をひやかしながら歩く二人を、アレンはぼんやりと見送った。人混みに紛れてすぐに見えなくなった。
朝市は野菜や果物、総菜や焼きたてパンなどの食料品が中心だが、土産物や骨董品、手作りのアクセサリーなどの店もある。狭い通路は人で溢れ、地元の人だけではなくカメラ片手の観光客の姿も多い。
「朝から元気だねぇ、あの二人――」
こんな朝っぱらから、あの人混みに入っていく気力のわかないアレンは、少し羨ましげに呟いた。
「ヨシノは相当ストレスが溜まっているみたいだからね」
フレデリックは軽く吐息を漏らす。
「今日、彼がどれほど食べるかみものだよ」
不思議そうなアレンの瞳に、フレデリックは苦笑しながらつけ加えた。
「彼、お兄さんと喧嘩してるんだって、ぼやいていたから」
信じられない――。といったふうに目を丸くしているアレンの前で、フレデリックは人差し指を立ててクスリと笑う。
「だから、今日は僕たちも覚悟しとかなきゃ。きっと彼、丸一日中食べづめだよ」
ほどなくして、目の前のトレーに並べられた魅力的な朝食を、アレンはじっと見つめていた。
四種のベリーのヨーグルトかけか、イングリッシュ・マフィンのベーコンエッグサンドか、この水色のクリームにキラキラのミンツが散りばめられ、星型の砂糖菓子の飾られたカップケーキか――。
どれもみな新鮮で、可愛らしくて、美味しそうで、アレンは「選べないよ……」ともどかしそうに吐息を漏らす。
「全部は食いきれないだろ。どれかひとつ選べよ」
吉野の残酷な言葉に、アレンは唇を尖らせる。
「――じゃ、これ」
イングリッシュ・マフィンに、白い指が伸びた。
「うわぁ!」
クリスの絶叫に唖然として、そのままアレンの手が止まる。
「僕の負けだ!」
クリスはふくれっ面をして吉野を睨んでいる。
「な。俺の言った通りだろ」
吉野はコーニッシュパスティを頬張りながら、にこにこしている。
「絶対にベリーか、カップケーキだと思ったのに!」
「……やっぱり、こっち」
アレンは吉野を睨んで、プラスチックカップに入ったベリーの方へ手を伸ばす。
「変更禁止」
吉野に言われてアレンは唇を尖らせた。
「賭けの商品は何? ここの支払い?」
「俺が勝ったら、夕食までつき合うこと」
「クリスが勝ったら?」
「夕食はケーキ」
「…………」
クリス、ごめん。と心の中で謝りながら、アレンはマフィンを手に取った。クリスは溜息をつきながら肩をすくめ、「せっかくヨシノをぎゃふんと言わせるチャンスだったのに。まぁ、いいよ」とおもむろに、トレーのカップケーキに手を伸ばす。
「だめ。それも食べるから」
アレンに軽く睨まれ、クリスはケラケラと笑った。
「やっぱりきみ、こういうのが好きなんじゃないか! もっと色んな種類があったよ。後で一緒に見にいこうよ!」
ベーグルサンドからプラスチックトレーのパエリアに移っても、まだまだ食べ続けている吉野と、紅茶のおかわりをしたフレデリックを残して、今度はアレンとクリスが席を立つ。
「二人で大丈夫?」
「いつもの奴ら、ちゃんといるよ。あいつが嫌がるから判らないようにガードしているんだ。それにサウードからも人数借りてる」
「イースター前に比べると、かなり楽になったね」
「ごめんな」
フレデリックは目を伏せて、小さく首を振る。
「僕は時々、彼がフェイラーだってこと、忘れてしまっているんだ。多分、今の方が普通なんだよ」
「あいつって不思議だよな」
「きみには、彼はどんなふうに見えているの?」
「変な奴」
吉野の返事に、フレデリックは笑みを浮かべて首を傾げた。
「ヘンリーは理解できる。あの男には他人に有無を言わさない強さがある。でも、あいつは違うだろ。なんでみんな、あいつのこと好きになるんだ? あんな不安定で、曖昧で、訳の判らない奴なのに」
「彼、綺麗だろ」
「見てくれのいい奴なら、いくらだっているだろ」
「彼が天使って呼ばれるのは、彼の容姿が、いわゆる人間の理想を具現化しているからだよ。きみはそうは思わないの?」
「俺、日本人だぞ。天使に興味ない。それに、金髪碧眼は好きじゃない」
彼の容姿に惹かれない人がいるなんて――。意外な返答に驚いて、思わずフレデリックは目を瞠って絶句する。吉野はそんな彼の前で、黙々と食事を消化していくだけだ。
「じゃ、きみは彼の何に惹かれているの?」
「自分じゃ何もできない赤ん坊のくせに、他人を惹きつけるところ。訳が判らないから」
忘れた頃に再開された会話に吉野はこともなげに答え、やっとテーブルいっぱいに置かれていた食品群をあらかた食べ終わり、二杯目のコーヒーに口をつけた。
「でも、あいつは芯が強いな。そういうところは気にいってるよ」
僕は彼を、どんなふうに見ていたんだろう?
フレデリックはアレンと入学当初から二年間同じ部屋で暮らして、誰よりもアレンを身近に知っていると思っていたのだ。他人と慣れあわず、一見冷淡で、だけどとても優しい、そんな彼の親しみをこめた笑顔が自分に向けられることに、優越感さえ感じていた。でも――。
僕は、そんな彼の内面を見ようとしたことがあっただろうか……。
そんな当たり前のことに今更気づいて、フレデリックは胸の奥底がずきりと痛んでいた。
眉根を寄せ、黙りこんでしまったフレデリックに、吉野が怪訝な視線を向けている。
「俺、変なこと言ったか?」
フレデリックは、ひきつるように無理に微笑んで、大きく首を横に振った。
「朝市に行くぞ」
「えーと、乗馬クラブが、」
「今日は日曜日だよ!」
吉野の後ろから、クリスがぴょこっと顔をだす。
「ん――。着替える」
一旦ドアを閉めた。
吉野もクリスも、私服だったから……。と、アレンが覚めきらない頭でぼんやりと立ち尽くしていたら、またもやドアがノックされ、フレデリックが入ってきた。
「目、覚めている? きみ、低血圧だから……」
「ん」
ぼーと突っ立っているアレンの部屋のクローゼットを開け、フレデリックはテキパキとドレスシャツ、スラックス、と順番に引っ張りだしていく。
「ほら、先に洗面を済ませて」
「ん」
アレンはノロノロと備えつけの洗面台に向かい、顔を洗う。振り向くと直ぐにタオルを差しだされた。
「ありがとう」
いつもの習慣で、ベッドに腰を下ろした。当前のようにフレデリックが髪を梳いてくれる。
「髪、伸びたね」
肩をとっくに過ぎている、柔らかな金髪を結わえながらフレデリックが呟く。
「ん。さすがにもう切りたい」
アレンはぼんやりと応えていた。
「ほら、着替えて」
「ん」
服を押しつけるように渡して、フレデリックは一足先に部屋をでた。
「手間のかかる奴」
身支度を整えてドアを開けるなり、吉野に笑われた。アレンは軽く彼を睨んでふくれっ面をする。
「昨日のうちに言ってくれれば、ちゃんと起きたのに」
「フレッドに起こしてくれって、頼んでおいたのに、だろ?」
「遅くまで勉強していたんだよね」
フレデリックがとりなすように口を挟む。
「今日は息抜きだ」
吉野の手が、クシャとアレンの頭を撫でていく。
学校から20分ほど歩いて、橋を渡った向こう岸にある隣町の朝市は、月二回、隔週の日曜日に開催される。
傾斜のあるメインストリートを、彼らは黙々と下っていた。五月に入っても、朝方の空気はいまだ冷たく肌寒い。久しぶりの抜けるような青空を見あげ、身体が温もるように早足で歩く。
大聖堂前の広場を埋めつくす80ほどの屋台の端で、まずは簡易テーブルを確保し、コーヒーと紅茶を買ってきた。
「きみ、すっかりコーヒー派になったんだね。前は飲まなかったのに」
「紅茶も好きだよ。でも朝はコーヒー」
アレンもすっきりと目が覚めたのか、柔らかく微笑んで紙コップのコーヒーを口に運んでいる。
「お腹が空いちゃったよ。早く朝ご飯を買いにいこう!」
クリスはそわそわと辺りを見回しながら、もう腰を浮かせている。
「ここにいて。適当に食い物買ってくる」
コーヒーを飲み切って、吉野はさっさと立ちあがった。
連れだって屋台をひやかしながら歩く二人を、アレンはぼんやりと見送った。人混みに紛れてすぐに見えなくなった。
朝市は野菜や果物、総菜や焼きたてパンなどの食料品が中心だが、土産物や骨董品、手作りのアクセサリーなどの店もある。狭い通路は人で溢れ、地元の人だけではなくカメラ片手の観光客の姿も多い。
「朝から元気だねぇ、あの二人――」
こんな朝っぱらから、あの人混みに入っていく気力のわかないアレンは、少し羨ましげに呟いた。
「ヨシノは相当ストレスが溜まっているみたいだからね」
フレデリックは軽く吐息を漏らす。
「今日、彼がどれほど食べるかみものだよ」
不思議そうなアレンの瞳に、フレデリックは苦笑しながらつけ加えた。
「彼、お兄さんと喧嘩してるんだって、ぼやいていたから」
信じられない――。といったふうに目を丸くしているアレンの前で、フレデリックは人差し指を立ててクスリと笑う。
「だから、今日は僕たちも覚悟しとかなきゃ。きっと彼、丸一日中食べづめだよ」
ほどなくして、目の前のトレーに並べられた魅力的な朝食を、アレンはじっと見つめていた。
四種のベリーのヨーグルトかけか、イングリッシュ・マフィンのベーコンエッグサンドか、この水色のクリームにキラキラのミンツが散りばめられ、星型の砂糖菓子の飾られたカップケーキか――。
どれもみな新鮮で、可愛らしくて、美味しそうで、アレンは「選べないよ……」ともどかしそうに吐息を漏らす。
「全部は食いきれないだろ。どれかひとつ選べよ」
吉野の残酷な言葉に、アレンは唇を尖らせる。
「――じゃ、これ」
イングリッシュ・マフィンに、白い指が伸びた。
「うわぁ!」
クリスの絶叫に唖然として、そのままアレンの手が止まる。
「僕の負けだ!」
クリスはふくれっ面をして吉野を睨んでいる。
「な。俺の言った通りだろ」
吉野はコーニッシュパスティを頬張りながら、にこにこしている。
「絶対にベリーか、カップケーキだと思ったのに!」
「……やっぱり、こっち」
アレンは吉野を睨んで、プラスチックカップに入ったベリーの方へ手を伸ばす。
「変更禁止」
吉野に言われてアレンは唇を尖らせた。
「賭けの商品は何? ここの支払い?」
「俺が勝ったら、夕食までつき合うこと」
「クリスが勝ったら?」
「夕食はケーキ」
「…………」
クリス、ごめん。と心の中で謝りながら、アレンはマフィンを手に取った。クリスは溜息をつきながら肩をすくめ、「せっかくヨシノをぎゃふんと言わせるチャンスだったのに。まぁ、いいよ」とおもむろに、トレーのカップケーキに手を伸ばす。
「だめ。それも食べるから」
アレンに軽く睨まれ、クリスはケラケラと笑った。
「やっぱりきみ、こういうのが好きなんじゃないか! もっと色んな種類があったよ。後で一緒に見にいこうよ!」
ベーグルサンドからプラスチックトレーのパエリアに移っても、まだまだ食べ続けている吉野と、紅茶のおかわりをしたフレデリックを残して、今度はアレンとクリスが席を立つ。
「二人で大丈夫?」
「いつもの奴ら、ちゃんといるよ。あいつが嫌がるから判らないようにガードしているんだ。それにサウードからも人数借りてる」
「イースター前に比べると、かなり楽になったね」
「ごめんな」
フレデリックは目を伏せて、小さく首を振る。
「僕は時々、彼がフェイラーだってこと、忘れてしまっているんだ。多分、今の方が普通なんだよ」
「あいつって不思議だよな」
「きみには、彼はどんなふうに見えているの?」
「変な奴」
吉野の返事に、フレデリックは笑みを浮かべて首を傾げた。
「ヘンリーは理解できる。あの男には他人に有無を言わさない強さがある。でも、あいつは違うだろ。なんでみんな、あいつのこと好きになるんだ? あんな不安定で、曖昧で、訳の判らない奴なのに」
「彼、綺麗だろ」
「見てくれのいい奴なら、いくらだっているだろ」
「彼が天使って呼ばれるのは、彼の容姿が、いわゆる人間の理想を具現化しているからだよ。きみはそうは思わないの?」
「俺、日本人だぞ。天使に興味ない。それに、金髪碧眼は好きじゃない」
彼の容姿に惹かれない人がいるなんて――。意外な返答に驚いて、思わずフレデリックは目を瞠って絶句する。吉野はそんな彼の前で、黙々と食事を消化していくだけだ。
「じゃ、きみは彼の何に惹かれているの?」
「自分じゃ何もできない赤ん坊のくせに、他人を惹きつけるところ。訳が判らないから」
忘れた頃に再開された会話に吉野はこともなげに答え、やっとテーブルいっぱいに置かれていた食品群をあらかた食べ終わり、二杯目のコーヒーに口をつけた。
「でも、あいつは芯が強いな。そういうところは気にいってるよ」
僕は彼を、どんなふうに見ていたんだろう?
フレデリックはアレンと入学当初から二年間同じ部屋で暮らして、誰よりもアレンを身近に知っていると思っていたのだ。他人と慣れあわず、一見冷淡で、だけどとても優しい、そんな彼の親しみをこめた笑顔が自分に向けられることに、優越感さえ感じていた。でも――。
僕は、そんな彼の内面を見ようとしたことがあっただろうか……。
そんな当たり前のことに今更気づいて、フレデリックは胸の奥底がずきりと痛んでいた。
眉根を寄せ、黙りこんでしまったフレデリックに、吉野が怪訝な視線を向けている。
「俺、変なこと言ったか?」
フレデリックは、ひきつるように無理に微笑んで、大きく首を横に振った。
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