胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 石造り学舎の向こうにわずかに茜色の残る夕暮れ時、吉野は自室の開け放った窓枠に腰かけて空を眺め、くすくすと笑っていた。すでに夜といっていい時間なのに陽射しは薄く、長く、部屋の内部まで忍びむように残っている。だがその明るさとは裏腹に窓から入る冷気は、ひんやりと彼の肌を刺していた。

「ずいぶん嬉しそうだね」
 ベッドに胡坐をかいて座っているサウードは、呆れたように眉をあげ、鷹揚に微笑んだ。
「飛鳥が、ヘンリーのところへ戻ったんだ」
「安心した?」
「うん。飛鳥、頑固だからさ。長引いたらどうしようかって心配だったもの」

 サウードからは見えない空中画面を、吉野は指で弾いて消した。

「それにさ、やっと、サラのコズモスに侵入できなくなったよ。あいつ、温室育ちだから危機管理意識がすげー低いんだ。俺が開けた穴、いつまでも塞がねぇし、しつこく追いかけてくるし――」
「教えてあげればいいのに」
「それは嫌だ。また飛鳥に怒られる」
 子どものように口を尖らせる吉野を見て、サウードは声を立てて笑う。
「でも、良かったじゃないか、間に合って」
「うん、ほんとそれ」と吉野は窓枠から下りて、サウードの横に並んで腰かけた。

 そして空中に画面を出し、スライドさせていく。

「な、これ、完全に狙われているだろ? 」

 画面に映し出されている棒グラフや、折れ線グラフを指で示しながら、吉野はいきなり画像の解説をし始めた。サウードも承知のことらしく、無表情ながら、視線は真剣に画像に見入っている。

「これが、スタンレー投資銀行の株式ポートフォリオ。買いポジションは、とことん売られているし、売りポジションは踏み上げられている。ジムと他の三人が組んだ制裁だよ」
 サウードの反応を確かめるように、吉野は言葉を切る。
「それで、ご当人はどうなるの? こんな大きな損失を出すことになって、消されるの?」
「まさか! ん千万ドルの報酬が削られて、ボーナスが出ないだけだよ」
「会社に損失を与えるのに?」
「この程度なら許容範囲だろ。ジムもプレーヤーが退場するほどには、追い詰めはしない。長年の仲だしな」
「甘いね」
「ゲームだもの」
 呆れ顔のサウードに、吉野はあっけらかんと笑って言った。

「商品は俺」

 サウードは黙ったまま、眉をひそめる。

「オズボーンは、抜け駆けしたのと、ルールを破って俺の関係者を傷つけたから制裁を受けたんだ。それに、俺に関する権利は、ジムにあるしな。このままじゃスタンレー投資銀行は、今期、赤字転落だ。次は、もっとなりふりかまわず仕掛けてくるだろうな」

 吉野は苦笑しながらため息を漏らした。

「以前俺が組んだプログラムはな、ゲームの勝者だったジムが独占しているんだ。でも、あれはもう賞味期限切れだ。あいつら、俺に新しいプログラムを組ませたいんだよ。市場をパニックに陥れるようなやつをな」

 静かに頷いたサウードに、吉野は笑いを収め、真面目な視線を空中に浮かびあがる画面に向けた。

「気をつけろよ。次のターゲットはお前だ。ほら、第二ラウンドはもう始まっているんだ」

 吉野の指し示す画面に目をやり、サウードも気をひき締めるかのように唇を引いた。





「昨日は自習室に来ないで何やってたんですか?」

 昼食時間を終えたばかりの執務室のソファーで背を向けて眠る吉野に、フィリップは苦々しげに声をかける。だが返事はない。無視を決めこんでいる吉野の身体を奥へ押しやり、狭い隙間に割りこんで腰を下ろす。

「今日は起きないね。本当に熟睡している」
 窓際の執務机から、パトリックが静かな声で告げる。
「この人、いったい何やっているんですか? いつも寝てばっかりで!」
「さぁ?」
 パトリックは気がなさそうな返事をして、冷たく澄んだ水色の瞳をフィリップに向け、抑揚のない声をかけた。
「きみも、邪魔しにきたのなら帰ってくれるかな」

「この人を迎えにきたのです。僕の親戚が面会したいそうなので」
 フィリップは溜息交じりに、撫でるような声をだし、言い訳するように微笑んだ。

「誰?」

 だが背中越しに聞こえてきた声に、一瞬で、彼の顔は怒りに引きつっていた。「やっぱり寝た振りじゃないか……」と、口の中でいまいましげに呟いて立ちあがる。

「ドイツ? それともスイス?」
 寝返りをうって顔を向けた吉野に、フィリップは腹立たしげに声を荒げた。
「ドイツです」
「へぇー、対応早いな。それで、なんで俺なわけ? 目当てはアレンじゃないの?」
 欠伸をしながら面倒くさそうに喋る吉野をキッと睨めつけ、フィリップは高慢な素振りでつんと顔を背ける。
「もちろんそうです。あなたなんて、ただのおまけですからね!」

 吉野はクックッと哂いながら、フィリップを見あげて揶揄うような声音で訊ねた。

「美人?」
 不愉快そうに顔を向けたフィリップに、吉野はもう一度畳みかける。
「派手目な美人?」
「本人を目の前にして、絶対に、そんな失礼な言い方はしないで下さい!」
「あいつに気に入られたいなら、すっぴんで来いって、言ってやれよ。間違っても、顔で張りあおうとするなよ、って」

 長い睫毛を瞬かせ、大きな眼を見開いてフィリップはわなわなと拳を握りしめた。

「女性にそんなこと、言えるわけないでしょう!」
「じゃ、覚悟しとけよ」

 吉野はやっと身体を起こして首を廻し、頭を載せていた羽枕の形を整えた。

「あいつ、派手で美人な女が何より嫌いだから。まず、視界にさえ入れてもらえない」

 吉野はフィリップを通り越し、手元の書類から目を離して表情のない瞳をこちらに向けていたパトリックに声をかけた。

「なぁ、パット、あいつのああいうところ、何とかなんないかな?」

 パトリックは眉根を少し寄せ、苦笑して、頬杖をついたまま肩をすくめてみせただけだった。



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