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五章
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「停めて!」
通りすぎる車窓から、一瞬、歩道に面したカフェの表に意外すぎる人を見つけたフィリップは、思わず声をあげていた。ハイヤーを降り、行きすぎた道を駆け戻る。
くすんだ紫のシェードの下に張りだされたオープンテラスのテーブルで、ライトベージュのトレンチコートをきっちりと着こなしたアレンが、ぼんやりと通りを眺めている。
オフィス街の一角の、スーツ姿のビジネスマンばかりが行き交うこの通りで、木製のカフェチェアに気だるげにもたれる彼は、あまりにも異質だった。忙しく足早に通りすぎる流れの中でも、何人もが振り返っては、彼を見ている。
ああ、やっぱりこの方は違う――。
黒のロートアイアンと小さな植えこみで囲われた、わずかに三、四テーブル置かれただけの狭いテラスの前で足を止め、フィリップは迷いながら声をかけた。
「おはようございます。こんなところで、どうされたのですか?」
「おはよう」
また無視されるかと心がすくんでいたのに、こちらに気づいて顔をあげた彼は、意外にも挨拶を返してくれた。
「ご一緒させていただいても、かまいませんか?」
「どうぞ」
駄目もとで訊いたつもりが、またすんなりと許可がおりた。フィリップはほっと吐息を漏らし、アレンの向かいに腰かけた。
「あなたが、こんなところにいるなんて」
機嫌を損ねないように控え目に言ったつもりだったが、返事はない。
しばらくたってから、「ここは待っていても注文を取りにきてはくれないよ。デリカフェだからね。カウンターで注文して、自分で持ってくるんだ。お奨めは、キッシュ。人気なのは、スクランブルエッグ」と、アレンが通りを眺めながら独り言のように呟く。だが、目を見開いて唖然としているフィリップに気づくと、彼は今日初めて口許を綻ばせた。
「僕も初めての時にはそんな顔をしていたのかな? ヨシノに笑われるわけだ」
フィリップは、テーブルに頬杖をついてクスクスと笑う彼から目を逸らし、きまりが悪そうに立ちあがる。
「注文してきます」
フィリップが戻ってきてみると、今まで座っていた席が占領されている。彼が通りを気にしていたのは待ち合わせをしていたからか――、と憮然としながら、空いているもう一方の椅子に座る。
「おはようございます、先輩」
アレンと真剣な顔で話しこんでいたクリス・ガストンが、きっと睨めつけてきた。
「どうしてきみがここにいるの?」
「偶然ですよ。叔父の家が近くなので。僕、休暇中は叔父のフラットにお世話になっているんです」
クリスの顔がぱぁっと明るくなる。
「ルベリーニ卿の?」
「良かったら遊びにいらっしゃいますか?」
「うん! あ――、今は駄目だ……、アレン、どうする?」
「ん――。ヨシノは、休暇中はハワード教授のところで缶詰だって言ってたし。サウードもいないし、どうしようかなぁ」
「全く、今年のAレベルを受けるなんて! 6thフォームに進むって、去年は言っていたのに!」
憂い顔のアレンに同意して、クリスも思い切り頬を膨らませて不満そうな顔をしている。
「彼、ケンブリッジを受けるのですか?」
フィリップが、紺色の瞳を訝しそうに眇めて口を挟んできた。
「昨日は、日本へ帰ろうって、お兄さんと話していたのに」と言いながら、彼は上目遣いにアレンを見つめる。見逃してしまいそうなほどわずかに眉を寄せたアレンの表情の変化に、失敗した――、と心の中で舌打ちし、「僕、日本語判るんです。聞き取りだけですけど。あんなズルズルした発音、難しすぎて喋る方は全然なんですけどね。」と誤魔化すように、いっけん花のような笑顔を作ってみせる。
「へぇ、素知らぬ顔して盗み聞きなんて、ずいぶん趣味がいいんだね」
予想通りのアレンの冷たい声が降ってきた。フィリップは唇をひき結んで恥ずかしそうに目線を伏せた。
「日本に帰るって?」
そんなことよりも、とクリスがフィリップの腕を掴んで注意を引く。だがフィリップにとっては渡りに船だ。
「彼のお兄さんと、そう話していたんです」
チラチラとアレンの顔色を伺いながら、彼の機嫌をこれ以上損ねないようにと、控えめにとつとつと続ける。
「ヘンリー卿のところへ帰らないのなら、そうしようって」
クリスは不安そうにアレンを見つめ、アレンはそれに応えるように小さく笑った。
「ケンブリッジにしろ、日本にしろ、来年度ヨシノがこの学校にいないのなら、僕もここにいる意味はないよ」
虚ろな笑みを浮かべたアレンに、クリスは思わず声を高めて立ちあがった。
「やめろよ! きみまで、そんなことを言うなんて!」
「クリス、ついでに僕のも買ってきて。ドリップコーヒーがいい」
「え?」
「注文してきなよ。ここのお奨めは、」
「キッシュと、スクランブル・エッグ!!」
アレンの掲げたしなやかな掌にハイタッチして、クリスは苦笑しながら店内に向かう。
その後ろ姿を目で追い、すでにカウンター前に長い行列ができ始めているのを確かめると、アレンはゆっくりと視線を戻してフィリップを正面から見据える。
「どういうことか、ちゃんと説明しなよ。きみはヨシノの内情、知っているんだろ?」
ざわざわとした雑踏と時折通り過ぎる車の走行音が聞こえる中で、フィリップにはアレンの周りだけが、世界から切り取られたように静かに、清廉に、澄みきって見えていた――。
自分に向けられた冷ややかな視線にゾクゾクとする陶酔感を覚えながら、彼は唾を呑みこみ頷いて、この抗いようのない自分の定めた主人の美しい顔に魅入っていた。
通りすぎる車窓から、一瞬、歩道に面したカフェの表に意外すぎる人を見つけたフィリップは、思わず声をあげていた。ハイヤーを降り、行きすぎた道を駆け戻る。
くすんだ紫のシェードの下に張りだされたオープンテラスのテーブルで、ライトベージュのトレンチコートをきっちりと着こなしたアレンが、ぼんやりと通りを眺めている。
オフィス街の一角の、スーツ姿のビジネスマンばかりが行き交うこの通りで、木製のカフェチェアに気だるげにもたれる彼は、あまりにも異質だった。忙しく足早に通りすぎる流れの中でも、何人もが振り返っては、彼を見ている。
ああ、やっぱりこの方は違う――。
黒のロートアイアンと小さな植えこみで囲われた、わずかに三、四テーブル置かれただけの狭いテラスの前で足を止め、フィリップは迷いながら声をかけた。
「おはようございます。こんなところで、どうされたのですか?」
「おはよう」
また無視されるかと心がすくんでいたのに、こちらに気づいて顔をあげた彼は、意外にも挨拶を返してくれた。
「ご一緒させていただいても、かまいませんか?」
「どうぞ」
駄目もとで訊いたつもりが、またすんなりと許可がおりた。フィリップはほっと吐息を漏らし、アレンの向かいに腰かけた。
「あなたが、こんなところにいるなんて」
機嫌を損ねないように控え目に言ったつもりだったが、返事はない。
しばらくたってから、「ここは待っていても注文を取りにきてはくれないよ。デリカフェだからね。カウンターで注文して、自分で持ってくるんだ。お奨めは、キッシュ。人気なのは、スクランブルエッグ」と、アレンが通りを眺めながら独り言のように呟く。だが、目を見開いて唖然としているフィリップに気づくと、彼は今日初めて口許を綻ばせた。
「僕も初めての時にはそんな顔をしていたのかな? ヨシノに笑われるわけだ」
フィリップは、テーブルに頬杖をついてクスクスと笑う彼から目を逸らし、きまりが悪そうに立ちあがる。
「注文してきます」
フィリップが戻ってきてみると、今まで座っていた席が占領されている。彼が通りを気にしていたのは待ち合わせをしていたからか――、と憮然としながら、空いているもう一方の椅子に座る。
「おはようございます、先輩」
アレンと真剣な顔で話しこんでいたクリス・ガストンが、きっと睨めつけてきた。
「どうしてきみがここにいるの?」
「偶然ですよ。叔父の家が近くなので。僕、休暇中は叔父のフラットにお世話になっているんです」
クリスの顔がぱぁっと明るくなる。
「ルベリーニ卿の?」
「良かったら遊びにいらっしゃいますか?」
「うん! あ――、今は駄目だ……、アレン、どうする?」
「ん――。ヨシノは、休暇中はハワード教授のところで缶詰だって言ってたし。サウードもいないし、どうしようかなぁ」
「全く、今年のAレベルを受けるなんて! 6thフォームに進むって、去年は言っていたのに!」
憂い顔のアレンに同意して、クリスも思い切り頬を膨らませて不満そうな顔をしている。
「彼、ケンブリッジを受けるのですか?」
フィリップが、紺色の瞳を訝しそうに眇めて口を挟んできた。
「昨日は、日本へ帰ろうって、お兄さんと話していたのに」と言いながら、彼は上目遣いにアレンを見つめる。見逃してしまいそうなほどわずかに眉を寄せたアレンの表情の変化に、失敗した――、と心の中で舌打ちし、「僕、日本語判るんです。聞き取りだけですけど。あんなズルズルした発音、難しすぎて喋る方は全然なんですけどね。」と誤魔化すように、いっけん花のような笑顔を作ってみせる。
「へぇ、素知らぬ顔して盗み聞きなんて、ずいぶん趣味がいいんだね」
予想通りのアレンの冷たい声が降ってきた。フィリップは唇をひき結んで恥ずかしそうに目線を伏せた。
「日本に帰るって?」
そんなことよりも、とクリスがフィリップの腕を掴んで注意を引く。だがフィリップにとっては渡りに船だ。
「彼のお兄さんと、そう話していたんです」
チラチラとアレンの顔色を伺いながら、彼の機嫌をこれ以上損ねないようにと、控えめにとつとつと続ける。
「ヘンリー卿のところへ帰らないのなら、そうしようって」
クリスは不安そうにアレンを見つめ、アレンはそれに応えるように小さく笑った。
「ケンブリッジにしろ、日本にしろ、来年度ヨシノがこの学校にいないのなら、僕もここにいる意味はないよ」
虚ろな笑みを浮かべたアレンに、クリスは思わず声を高めて立ちあがった。
「やめろよ! きみまで、そんなことを言うなんて!」
「クリス、ついでに僕のも買ってきて。ドリップコーヒーがいい」
「え?」
「注文してきなよ。ここのお奨めは、」
「キッシュと、スクランブル・エッグ!!」
アレンの掲げたしなやかな掌にハイタッチして、クリスは苦笑しながら店内に向かう。
その後ろ姿を目で追い、すでにカウンター前に長い行列ができ始めているのを確かめると、アレンはゆっくりと視線を戻してフィリップを正面から見据える。
「どういうことか、ちゃんと説明しなよ。きみはヨシノの内情、知っているんだろ?」
ざわざわとした雑踏と時折通り過ぎる車の走行音が聞こえる中で、フィリップにはアレンの周りだけが、世界から切り取られたように静かに、清廉に、澄みきって見えていた――。
自分に向けられた冷ややかな視線にゾクゾクとする陶酔感を覚えながら、彼は唾を呑みこみ頷いて、この抗いようのない自分の定めた主人の美しい顔に魅入っていた。
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