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五章
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パトリック・ウェザーのことは、嫌いじゃない――。
吉野は、灰緑のソファーの肘掛けに頭をのせて寝そべったまま、窓際の執務机で静かに書類に目を通すパトリックをじっと眺めていた。
窓からの逆光を受け、光に透けるプラチナブロンドがただでさえ冷たく見えるパトリックの怜悧な表情を際立たせている。氷のパトリックと囁かれるのはあながち批判的な意味でもなく、冷静沈着、感情に流されない無駄のない思考は教師からの信頼も厚い。その一見冷たく、近寄り難い雰囲気にも関わらず生徒からも慕われている理由は、ひとえに、前カレッジ寮寮長であり監督生代表でもあったベンジャミン・ハロルドの片腕として周知されていたからだ。
「言いたいことがあるなら、言いたまえ」
パトリックが書類から顔をあげることもなく、声をかけてきた。
「あんたが寮長だったら、安心できたのにな」
「ケネス・アボットは良くやってくれているよ」
「そうだな、あんたの手足としては充分だな」
「それよりきみ、どうしていつも昼間に寝てばかりいるんだい? また夜中に寮を抜けだしているのかい?」
パトリックは執務机に頬杖をつき、吉野の何度目かの大あくびを見咎めて、薄い青色の瞳を不審げに眇めている。
「ちゃんと大人しくしているよ」
起きあがった吉野は首の後ろを揉みほぐしながら吐息を漏らす。
「ここのソファー、寝心地悪ぃ。クッションか何かないの?」
「きみの昼寝のために置いてあるんじゃない」
パトリックは、また手元の書類に視線を戻す。
「お茶淹れるよ?」
吉野は立ちあがり、勝手知ったる様子で部屋の隅のティーセットを設置したキャビネットに向かう。備えつけの湯沸かしポットで湯を沸かし、カップにミルクを注ぎ紅茶を淹れる。
じきに、立ちあがった芳香が執務室を満たしていた。
吉野は、砂糖壺とカップの一方をパトリックの机に、もう一方を、幾分かスペースを取ってドーナツ型に配置されている会議用机の上に置いた。そのまま、並べられている二十客もの椅子の一つに腰を下ろす。
「俺、あんたには不満はないよ。見込み通りだ」
吉野は優雅にティーカップを口に運ぶパトリックを眺めながら、にっと笑いかけた。
「手際もいいし、人望もある。あんたならここの連中を抑えられる。もうちょっと口煩くなかったら完璧なんだけどな」
「きみがもう少し規律に従うなら、僕のそのマイナス点も改善されるんじゃないのか?」
パトリックは、口の端に皮肉な笑みを浮かべて応えた。
「完璧は望むなってこと?」
吉野は鼻の頭に皺を寄せてくしゃっと笑ったが、思うところがあるのか憂鬱そうな表情をみせた。
「でも、ド・パルデュは外したかもな……。いまだにアレンの気持ちひとつ掴めないなんて、想定外だよ。二カ月近く一緒に試験勉強して、忠誠を捧げられたんだぞ。普通なら少しは気心知れるだろ? 信じられるか? アレンの奴、相変わらずあいつの顔を見つけた瞬間、毛虫でも見たような顔するんだぞ!」
知っている、と同意を示すようにパトリックは口許を緩める。
「いじめだよなぁ、あれ。ほんと正直すぎるよ、あいつは」
吉野は仏頂面で溜息をつく。
「このまま、主従関係が成立しないなら別の手を考えなきゃ――」
「結論を急ぎすぎるな。あまりド・パルデュを侮らない方がいい。それに、彼が冷淡なのはド・パルデュに対してだけではないだろう?」
パトリックは、冷ややかな目許を優しく緩ませ、微かな笑みを湛えて言った。
「そうか? 周りの奴らがうるさく騒ぎすぎるからなんじゃないの? あいつは基本、優しいぞ。わがままだけどな」
吉野は立ちあがり再度キャビネットの前に立つと、お湯を沸かし始める。
「おかわりは?」
首を横に振るパトリックに軽く頷き返し、アーチ形の高い窓の外に目をやる。
「やたら咽喉が乾くよ。すっかり春だな」
そのまま窓辺によって、吉野は眼下を眺めている。柔らかな日差しに照らされる芝生を行き交う生徒は少ない。黒々とした日陰の小道にはいまだ冬の冷徹な空気が残っているのか、芝生に立ち入れない下級生が、身を縮めるようにして歩いている。
お湯が沸くまでのわずかな時間、吉野はぼんやりとその様子を眺めていたが、ティーポットの茶葉を入れ替え、湯を注ぐとポットごと抱えて会議机に戻った。
「なぁ、留学生でも監督生になれるの?」
吉野はポットを置くと、椅子には座らず執務机の横に立ってパトリックに訊ねた。
「監督生になるつもりか?」
パトリックの冷ややかな瞳に力が籠る。
「俺じゃない。あいつだよ」
「前例がない訳じゃない」
のんびりとした吉野への返答には、いくぶん緊張したトーンが含まれていた。
「あんたの推薦が欲しい。成績は問題ないよ。だけど、人格に問題ありだろ? あいつ協調性がないから」
パトリックわずかに眉根を寄せる。
「なぜ監督生に? 彼は大学は本国へ帰るのだろう? 監督生になると大学進学に有利になるぶん、自国民が優先される。難しいと思う」
「サッカー部と、ラクビ―部に気色悪い奴らがいるんだよ。そいつらは、次年度の生徒会入りはほぼ決定済。このままじゃ、あいつも確実に生徒会入りだ。他寮の寮長が次年度あいつを推薦するって言ってたんだよ。投票じゃ、間違いなくダントツで票を集めるだろ?」
吉野は溜息をついて首をすくめた。
「まったく、美人の妹を持った気分だよ――」
「妹って、きみ――」
パトリックは苦笑し、物憂げに頬杖をついた。
「監督生になれば回避できる、か……」
考えこむパトリックに背を向け、吉野は自分のティーカップに紅茶を注ぐ。そして、「あまった。あんたも飲む?」と、厳しい顔をしたまま、なにげなく頷いた彼の飲みさしのカップにも、紅茶を継ぎたした。
吉野は、灰緑のソファーの肘掛けに頭をのせて寝そべったまま、窓際の執務机で静かに書類に目を通すパトリックをじっと眺めていた。
窓からの逆光を受け、光に透けるプラチナブロンドがただでさえ冷たく見えるパトリックの怜悧な表情を際立たせている。氷のパトリックと囁かれるのはあながち批判的な意味でもなく、冷静沈着、感情に流されない無駄のない思考は教師からの信頼も厚い。その一見冷たく、近寄り難い雰囲気にも関わらず生徒からも慕われている理由は、ひとえに、前カレッジ寮寮長であり監督生代表でもあったベンジャミン・ハロルドの片腕として周知されていたからだ。
「言いたいことがあるなら、言いたまえ」
パトリックが書類から顔をあげることもなく、声をかけてきた。
「あんたが寮長だったら、安心できたのにな」
「ケネス・アボットは良くやってくれているよ」
「そうだな、あんたの手足としては充分だな」
「それよりきみ、どうしていつも昼間に寝てばかりいるんだい? また夜中に寮を抜けだしているのかい?」
パトリックは執務机に頬杖をつき、吉野の何度目かの大あくびを見咎めて、薄い青色の瞳を不審げに眇めている。
「ちゃんと大人しくしているよ」
起きあがった吉野は首の後ろを揉みほぐしながら吐息を漏らす。
「ここのソファー、寝心地悪ぃ。クッションか何かないの?」
「きみの昼寝のために置いてあるんじゃない」
パトリックは、また手元の書類に視線を戻す。
「お茶淹れるよ?」
吉野は立ちあがり、勝手知ったる様子で部屋の隅のティーセットを設置したキャビネットに向かう。備えつけの湯沸かしポットで湯を沸かし、カップにミルクを注ぎ紅茶を淹れる。
じきに、立ちあがった芳香が執務室を満たしていた。
吉野は、砂糖壺とカップの一方をパトリックの机に、もう一方を、幾分かスペースを取ってドーナツ型に配置されている会議用机の上に置いた。そのまま、並べられている二十客もの椅子の一つに腰を下ろす。
「俺、あんたには不満はないよ。見込み通りだ」
吉野は優雅にティーカップを口に運ぶパトリックを眺めながら、にっと笑いかけた。
「手際もいいし、人望もある。あんたならここの連中を抑えられる。もうちょっと口煩くなかったら完璧なんだけどな」
「きみがもう少し規律に従うなら、僕のそのマイナス点も改善されるんじゃないのか?」
パトリックは、口の端に皮肉な笑みを浮かべて応えた。
「完璧は望むなってこと?」
吉野は鼻の頭に皺を寄せてくしゃっと笑ったが、思うところがあるのか憂鬱そうな表情をみせた。
「でも、ド・パルデュは外したかもな……。いまだにアレンの気持ちひとつ掴めないなんて、想定外だよ。二カ月近く一緒に試験勉強して、忠誠を捧げられたんだぞ。普通なら少しは気心知れるだろ? 信じられるか? アレンの奴、相変わらずあいつの顔を見つけた瞬間、毛虫でも見たような顔するんだぞ!」
知っている、と同意を示すようにパトリックは口許を緩める。
「いじめだよなぁ、あれ。ほんと正直すぎるよ、あいつは」
吉野は仏頂面で溜息をつく。
「このまま、主従関係が成立しないなら別の手を考えなきゃ――」
「結論を急ぎすぎるな。あまりド・パルデュを侮らない方がいい。それに、彼が冷淡なのはド・パルデュに対してだけではないだろう?」
パトリックは、冷ややかな目許を優しく緩ませ、微かな笑みを湛えて言った。
「そうか? 周りの奴らがうるさく騒ぎすぎるからなんじゃないの? あいつは基本、優しいぞ。わがままだけどな」
吉野は立ちあがり再度キャビネットの前に立つと、お湯を沸かし始める。
「おかわりは?」
首を横に振るパトリックに軽く頷き返し、アーチ形の高い窓の外に目をやる。
「やたら咽喉が乾くよ。すっかり春だな」
そのまま窓辺によって、吉野は眼下を眺めている。柔らかな日差しに照らされる芝生を行き交う生徒は少ない。黒々とした日陰の小道にはいまだ冬の冷徹な空気が残っているのか、芝生に立ち入れない下級生が、身を縮めるようにして歩いている。
お湯が沸くまでのわずかな時間、吉野はぼんやりとその様子を眺めていたが、ティーポットの茶葉を入れ替え、湯を注ぐとポットごと抱えて会議机に戻った。
「なぁ、留学生でも監督生になれるの?」
吉野はポットを置くと、椅子には座らず執務机の横に立ってパトリックに訊ねた。
「監督生になるつもりか?」
パトリックの冷ややかな瞳に力が籠る。
「俺じゃない。あいつだよ」
「前例がない訳じゃない」
のんびりとした吉野への返答には、いくぶん緊張したトーンが含まれていた。
「あんたの推薦が欲しい。成績は問題ないよ。だけど、人格に問題ありだろ? あいつ協調性がないから」
パトリックわずかに眉根を寄せる。
「なぜ監督生に? 彼は大学は本国へ帰るのだろう? 監督生になると大学進学に有利になるぶん、自国民が優先される。難しいと思う」
「サッカー部と、ラクビ―部に気色悪い奴らがいるんだよ。そいつらは、次年度の生徒会入りはほぼ決定済。このままじゃ、あいつも確実に生徒会入りだ。他寮の寮長が次年度あいつを推薦するって言ってたんだよ。投票じゃ、間違いなくダントツで票を集めるだろ?」
吉野は溜息をついて首をすくめた。
「まったく、美人の妹を持った気分だよ――」
「妹って、きみ――」
パトリックは苦笑し、物憂げに頬杖をついた。
「監督生になれば回避できる、か……」
考えこむパトリックに背を向け、吉野は自分のティーカップに紅茶を注ぐ。そして、「あまった。あんたも飲む?」と、厳しい顔をしたまま、なにげなく頷いた彼の飲みさしのカップにも、紅茶を継ぎたした。
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