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五章
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一足飛びに階段を飛びおり、戸口に立っていたイスハ―クを押しのけて、吉野は一階フロアに続くドアを開けた。
改装後のジャックのパブは、一階フロアと、二階フロアへ続く階段と、二つの出入り口が設けられている。酒を出す一階を通らずに二階に上がれるようになったことで、以前にも増してエリオット校生御用達の食堂として重宝されている。
「飛鳥、どうしたんだ!」
カウンター席の前でジャックと立ち話をしていた飛鳥は、開け放たれたドアから薄暗い店内にさしこむ温かな灯りと共に、血相を変えて駆けこんできた吉野を見あげ、くしゃっと笑い、継いでわざと顔をしかめて見せる。
「吉野、どうしたの、その顔?」
歩みより、飛鳥は吉野の赤く腫れあがった頬に手を当てた。
「喧嘩? ……じゃないね? 女の子に叩かれたんだろ?」
揶揄うように瞳が笑っている。
「手が冷え切っている」
吉野は、怒ったように唇を窄め、首を傾けた。
「メシは?」
首を振る飛鳥にますます渋い顔を見せ、「ジャック、カレーまだある? ……じゃ、サンドイッチとコーヒー、頼むよ」と傍らのジャックに告げると、吉野は飛鳥の腕を掴んで二階に続くドアを開けた。
「俺のダチ」
階上の踊り場で、心配そうに固まって立っていた連中を見あげ、吉野は照れくさそうに笑って言った。
吉野と、その背後に続く飛鳥の姿に、皆は何ともいえない様子で顔を見合わせている。
「アレン、久しぶり」
明るく微笑む飛鳥にアレンも軽く会釈して返す。
「初めまして、殿下」
一歩引いて待つ飛鳥に、サウードは手を差しだして握手を交わす。
「初めまして」
「きみがクリス・ガストンかな? 吉野が一度、きみのお宅にお邪魔したよね、ありがとう」
緊張からか、クリスはどこかぎこちない。
「それから、フレデリック。アーニーからいつも聞いているよ。こいつ、世話が焼けるだろ? いつもありがとう」
飛鳥は順繰りに握手を交わしていく。だが、パトリックの前で若干戸惑いをみせ、紹介を促して吉野を振り返った。
「パトリック・ウェザー、監督生代表だよ」
「杜月飛鳥です。吉野がいつもお世話になり、ありがとうございます」
真っ直ぐに見あげる飛鳥に握手を返すと、パトリックはきまり悪げに目線を伏せた。
テーブルに戻りしばらくすると、「坊主、取りにこい!」と、ジャックに呼ばれて吉野は席を外した。その姿が消えたとたんに、飛鳥は声を潜めて、「ねぇ、吉野のあの頬――、女の子に叩かれたの?」と好奇心いっぱいの瞳でテーブルを囲む面々を見回す。
微妙な沈黙にクリスやサウードは忍び笑いし、アレンは真っ赤になって俯いている。フレデリックはおたおたと何か上手い言い訳をと、頭を巡らせてはいるが思いつかないようだ。
「男子校でも、やっぱり出会いはあるんだねぇ。吉野はね、ああ見えてもすごく女の子にもてるんだよ。小学校の頃から、毎年バレンタインにはチョコレートを貰ってきてたんだ」
「チョコレートを貰うのですか? あげるのじゃなくて?」
クリスが瞳を輝かせて口を挟む。
「うん、日本では、女の子が好きな男の子にチョコレートをあげるんだよ」
「へぇ~! 英国じゃ反対です。普通は、男の子が女の子に贈り物をするんです」
「やっぱり、チョコレートとか、花なんかを」
フレデリックが続けて言った。
「それで、ヨシノはチョコレートを貰って、その後は?」
アレンが、伏し目がちな目線をそっと上げて訊ねる。
「そうそう、それでね、吉野はもてるんだけどね、いかんせん、デリカシーがなくてさ……。しょっちゅう女の子を怒らせて、ぶん殴られて帰ってたんだよ」
へぇー、と意外そうに目を丸くする中で、アレンだけが居心地悪そうに俯いている。
「ごめんなさい。ヨシノを叩いたのは僕です」
消え入りそうなアレンの告白に、「痴話喧嘩?」と飛鳥はちょっと眉をよせて即座に訊ね返した。周囲は一斉に吹き出して、慌てて口を押えている。アレンは唖然と目を見開いて、飛鳥を見つめている。
「どうせあいつが失礼なことをしたんだろ? 手、大丈夫だった? 怪我しなかった?」
ふにゃっと強張っていた表情を崩し、アレンは頭を傾げて首を振った。
「吉野に一番効果的な反撃の仕方、教えてあげようか?」
飛鳥は顔を寄せ、悪戯っぽく鳶色の瞳を輝かせる。
「飛鳥、ほら」
吉野が戻ってきて、飛鳥の前にコーヒーとサンドイッチの皿を置く。飛鳥はにんまりと笑って、隣に座った吉野の肩を抱くと、耳許ではっきりと、だが囁くように礼を言う。
「ありがとう、マイ・ハニー」
少し掠れた飛鳥の色っぽい声に、吉野は総毛立ち顔色を変える。
「すごく美味しそうだね、マイ・スウィーティ」
「飛鳥!」
「何だい、ダーリン?」
椅子を弾き飛ばすようにして立ちあがった吉野を、飛鳥はクスクスと笑いながら見つめている。そしてこの悪戯に瞳を輝かせて、呆気に取られている一同を見回した。
「分かった? こいつの弱点。日本人には受け入れられないんだよねぇ、こういう呼びかけって。気恥ずかしくってさ」
「でもそれ、恋人への呼びかけでしょう?」
怪訝な顔で見返すアレンに、「え? 僕、普通に使っているよ」と逆にクリスは驚いた様子で返し、フレデリックも続いて神妙な顔つきで頷いて同意を示す。
「家族とか、親しい友達にはつい言っちゃうかなぁ」
眉をひそめて神経を逆立てている吉野を、皆、意味ありげに含み笑いながら見あげている。
「お前ら、絶対に使うなよ! 言ったら絶交だぞ!」
「OK、マイ・ディア」
「それも、駄目!」
艶っぽい声で囁くように言われた一言に、吉野はぞわりと背筋を粟立てる。
「そりゃ、女の子にぶん殴られるわけだ――」
やがて納得したように呟いたサウードに、皆、我慢しきれず笑い転げたのだった。
改装後のジャックのパブは、一階フロアと、二階フロアへ続く階段と、二つの出入り口が設けられている。酒を出す一階を通らずに二階に上がれるようになったことで、以前にも増してエリオット校生御用達の食堂として重宝されている。
「飛鳥、どうしたんだ!」
カウンター席の前でジャックと立ち話をしていた飛鳥は、開け放たれたドアから薄暗い店内にさしこむ温かな灯りと共に、血相を変えて駆けこんできた吉野を見あげ、くしゃっと笑い、継いでわざと顔をしかめて見せる。
「吉野、どうしたの、その顔?」
歩みより、飛鳥は吉野の赤く腫れあがった頬に手を当てた。
「喧嘩? ……じゃないね? 女の子に叩かれたんだろ?」
揶揄うように瞳が笑っている。
「手が冷え切っている」
吉野は、怒ったように唇を窄め、首を傾けた。
「メシは?」
首を振る飛鳥にますます渋い顔を見せ、「ジャック、カレーまだある? ……じゃ、サンドイッチとコーヒー、頼むよ」と傍らのジャックに告げると、吉野は飛鳥の腕を掴んで二階に続くドアを開けた。
「俺のダチ」
階上の踊り場で、心配そうに固まって立っていた連中を見あげ、吉野は照れくさそうに笑って言った。
吉野と、その背後に続く飛鳥の姿に、皆は何ともいえない様子で顔を見合わせている。
「アレン、久しぶり」
明るく微笑む飛鳥にアレンも軽く会釈して返す。
「初めまして、殿下」
一歩引いて待つ飛鳥に、サウードは手を差しだして握手を交わす。
「初めまして」
「きみがクリス・ガストンかな? 吉野が一度、きみのお宅にお邪魔したよね、ありがとう」
緊張からか、クリスはどこかぎこちない。
「それから、フレデリック。アーニーからいつも聞いているよ。こいつ、世話が焼けるだろ? いつもありがとう」
飛鳥は順繰りに握手を交わしていく。だが、パトリックの前で若干戸惑いをみせ、紹介を促して吉野を振り返った。
「パトリック・ウェザー、監督生代表だよ」
「杜月飛鳥です。吉野がいつもお世話になり、ありがとうございます」
真っ直ぐに見あげる飛鳥に握手を返すと、パトリックはきまり悪げに目線を伏せた。
テーブルに戻りしばらくすると、「坊主、取りにこい!」と、ジャックに呼ばれて吉野は席を外した。その姿が消えたとたんに、飛鳥は声を潜めて、「ねぇ、吉野のあの頬――、女の子に叩かれたの?」と好奇心いっぱいの瞳でテーブルを囲む面々を見回す。
微妙な沈黙にクリスやサウードは忍び笑いし、アレンは真っ赤になって俯いている。フレデリックはおたおたと何か上手い言い訳をと、頭を巡らせてはいるが思いつかないようだ。
「男子校でも、やっぱり出会いはあるんだねぇ。吉野はね、ああ見えてもすごく女の子にもてるんだよ。小学校の頃から、毎年バレンタインにはチョコレートを貰ってきてたんだ」
「チョコレートを貰うのですか? あげるのじゃなくて?」
クリスが瞳を輝かせて口を挟む。
「うん、日本では、女の子が好きな男の子にチョコレートをあげるんだよ」
「へぇ~! 英国じゃ反対です。普通は、男の子が女の子に贈り物をするんです」
「やっぱり、チョコレートとか、花なんかを」
フレデリックが続けて言った。
「それで、ヨシノはチョコレートを貰って、その後は?」
アレンが、伏し目がちな目線をそっと上げて訊ねる。
「そうそう、それでね、吉野はもてるんだけどね、いかんせん、デリカシーがなくてさ……。しょっちゅう女の子を怒らせて、ぶん殴られて帰ってたんだよ」
へぇー、と意外そうに目を丸くする中で、アレンだけが居心地悪そうに俯いている。
「ごめんなさい。ヨシノを叩いたのは僕です」
消え入りそうなアレンの告白に、「痴話喧嘩?」と飛鳥はちょっと眉をよせて即座に訊ね返した。周囲は一斉に吹き出して、慌てて口を押えている。アレンは唖然と目を見開いて、飛鳥を見つめている。
「どうせあいつが失礼なことをしたんだろ? 手、大丈夫だった? 怪我しなかった?」
ふにゃっと強張っていた表情を崩し、アレンは頭を傾げて首を振った。
「吉野に一番効果的な反撃の仕方、教えてあげようか?」
飛鳥は顔を寄せ、悪戯っぽく鳶色の瞳を輝かせる。
「飛鳥、ほら」
吉野が戻ってきて、飛鳥の前にコーヒーとサンドイッチの皿を置く。飛鳥はにんまりと笑って、隣に座った吉野の肩を抱くと、耳許ではっきりと、だが囁くように礼を言う。
「ありがとう、マイ・ハニー」
少し掠れた飛鳥の色っぽい声に、吉野は総毛立ち顔色を変える。
「すごく美味しそうだね、マイ・スウィーティ」
「飛鳥!」
「何だい、ダーリン?」
椅子を弾き飛ばすようにして立ちあがった吉野を、飛鳥はクスクスと笑いながら見つめている。そしてこの悪戯に瞳を輝かせて、呆気に取られている一同を見回した。
「分かった? こいつの弱点。日本人には受け入れられないんだよねぇ、こういう呼びかけって。気恥ずかしくってさ」
「でもそれ、恋人への呼びかけでしょう?」
怪訝な顔で見返すアレンに、「え? 僕、普通に使っているよ」と逆にクリスは驚いた様子で返し、フレデリックも続いて神妙な顔つきで頷いて同意を示す。
「家族とか、親しい友達にはつい言っちゃうかなぁ」
眉をひそめて神経を逆立てている吉野を、皆、意味ありげに含み笑いながら見あげている。
「お前ら、絶対に使うなよ! 言ったら絶交だぞ!」
「OK、マイ・ディア」
「それも、駄目!」
艶っぽい声で囁くように言われた一言に、吉野はぞわりと背筋を粟立てる。
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やがて納得したように呟いたサウードに、皆、我慢しきれず笑い転げたのだった。
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