胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 グループ学習用の狭い自習室で、アレンは退屈そうに窓の外を眺めていた。約束の時間はもうとっくに過ぎている。手元の教科書を見る気にもなれず、変化のない灰色の空を仕方なく、それがさも面白いものでもあるかのように眺めていた。

「あなたと彼は、恋人同士なのですか?」
 話しかけられるのが嫌でそっぽを向いていたのに、向い合わせに座っていたフィリップは真摯な瞳で、唐突に不躾な質問をぶつけてきた。

「きみはそういう性癖なの?」
 アレンは逆に訊き返す。表情の読めない夜空のような瞳を据えたまま逸らさない、けれど、黙ったまま答えもしない相手に、ふっと小さく嗤い、面倒くさそうに言い加える。

「きみのゴシップ好きな好奇心に応えてあげられなくて申し訳ないけれど、僕と彼はそんな関係じゃないよ」

 ほっ、と緊張を緩めるフィリップを、アレンは薄笑いを浮かべた冷めたいセレストブルーの瞳で一瞥する。
「彼が僕に構うのは、僕がヘンリー・ソールスベリーの弟だからだよ」

 まったく、何だってこんな奴相手に、こんな話をしなきゃいけないんだ――。

 あのポスターから、そんな噂が囁かれるようになったのは知っている。面と向かって訊かれた事も初めてではない。からかわれたり、あてこすられたりしたことも何度かあった。クリスやフレデリックはその度に憤慨して、あんな下種な奴らは放っておけ、と言ってくれる。でも、眼前の年下の少年に自分と吉野の事をとやかく言われるのは、アレンには無性に腹立たしいのだ。


「フランス人は、何でも愛だの恋だのに結びつけなきゃ、気が済まないものなのかな?」
 つんと澄ましたアレンの嫌味に、「それは一理あるかも、」と、フィリップは薔薇の花びらのような唇の前に人差し指を立て、微笑んだ。

「フランス人は愛を語り、日本人はビジネスを語る。――そうですよね、あなたと彼じゃ釣り合わない……。何だってあれで銀ボタンなんだろう?」

 呆れたように大袈裟にため息をついてみせるフィリップの言葉に、アレンは耳を疑った。フィリップは、猫のように目を細め、媚びを含んだ視線でじっと自分を見つめている。

 こいつ……!

 アレンはふわりと表情を緩め、声を立てて笑った。

「そう、きみには彼の価値が判らないの?」


 ぴんと張り詰めた空気を破るように響いた軽いノックの音と同時に、アレンは椅子を引いた。

「ヨシノ、僕はやっぱり自室で勉強するよ。他人と一緒じゃ集中できない」

 アレンは静かに立ちあがり、遅れて入ってきたばかりの吉野に極上の笑顔を向け、朗らかに告げた。

「なんだ、楽しそうな笑い声がしていたのに」
「だからだよ。可笑しすぎて勉強にならない」

 アレンは微笑んだまま、吉野の肩をぽんと叩いて部屋を後にする。
 机についたまま憮然としているフィリップに吉野が視線を移すと、彼は納得がいかないようすで、か細い肩をひょいとすくめた。

「怒らせちゃったみたいです」
「あいつ、難しいからなぁ」

 ぽつりと呟いたフィリップに、吉野は慰めるような同情的な視線を向けた。

「まぁ、頑張れ」
「とりなして下さい」

 フィリップは唇を尖らせて、甘えるような上目遣いで吉野を見あげた。その視線を受け止めた吉野は、困惑気味に瞬きして苦笑する。

「あいつもかなり面倒くさい奴だけれど、お前もたいがいだな……」

 くしゃっと鼻の頭に皺を寄せ、溜息を吐く。



 初めて彼を目にした瞬間、釘づけにされた。金縛りにあったように一歩も動けなくなった。遠目に見たアレン・フェイラーは、それほどに衝撃的だったのだ。
 彼が友人たちに囲まれてホールに入ってきただけで、空気が一瞬にして華やいだ。まるで、神が祝福しているかのように、彼の周りの空気は金色に輝いて、そこだけが澄んでみえた。天上の美貌と異名を取る理由がやっと理解できた。ポスターのようにCGの羽なんかつけなくたって、本当に羽があるかのように見える。人間の生なましさをまったく感じさせない透き通った雰囲気に、息をすることすら忘れてしまいそうに、フィリップは魅いられたのだ。

 同じ学校、同じ寮なのに、学年の違う彼にフィリップが会える機会はカレッジ・ホールでの昼食会くらいだ。だが彼は、朝食にも、夕食にも出てこない。カテドラルでのミサや全体朝礼は取り巻きに囲まれていて、顔なぞ拝めやしない。何か月もかかって、やっと交友関係と行動パターンを把握してここまで近づけたのだ!

 その神々しいまでに美しい彼は、ほんの一部の友人にしか気を許さないことでも有名だった。学年代表で、一、二学年の時、同室だったフレデリック・キングスリーや、ガストン卿の子息、皇太子殿下は、まだ理解できる。

 だがなんなんだ、この杜月吉野は!
 彼の兄の会社の開発者の弟というだけで、当たり前の顔をして、いつも彼の隣にいる!


 そんな内心で渦巻く想いはおくびにも見せず、フィリップは花のように妖艶な笑みを浮かべて、甘えた猫なで声で吉野にねだる。

「お願い、ヨシノ。彼と仲良くなりたいんだ。なにが気に障ったのか、まるで判らないの。僕、何か失言してしまったのなら、いくらでも謝るから……」

 吉野の傍ににじり寄りその肩に手を添えると、顔を寄せて覗きこむように傾げ、フィリップは媚びるように見つめる。

「失言っていうより、あいつ、たんに気まぐれなんだよ」
 吉野はくすっと目を細めて笑う。

 フィリップは、一瞬目に険を含ませてぴっと眉を釣りあげる。だが、すぐに小さく吐息を漏らし、「じゃあ、僕のせいじゃないのかなぁ? ヨシノ~、一緒に勉強しようって、彼を呼んできて。こんなふうに出ていかれたんじゃ、僕だって傷つくよ」と目に涙を溜め、煙るような長い睫毛を瞬かせながら、鼻に掛かった甘ったるいフランス訛りを吉野の耳許で囁く。

「分かったよ」
 吉野は口許を引き締めて立ちあがった。唇の端がかすかにひくひくとひきつっている。

「すぐ戻るから」と、吉野はいそいそとドアを開け部屋を後にした。

 フィリップは、ちょろいものさ、とほくそ笑み、継いで、その整った顔をしかめて、ドアに向かってべぇーと舌を出す。




 後ろ手に閉めたドアの向こう側では、「なにあれ――、あいつ、すっげー面白い。なんであんな芝居がかってんだろ? 地味な日本人おれにはついていけねぇよ、あの感覚……。フランス人、面白すぎ――」と吉野は長い指先で口許を覆い、笑いを噛み殺している。

 そして吉野は楽しげに鼻歌を口ずさみながら、アレンの部屋へ向かうのだった。





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