胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

迷路

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「吉野!」
 サラと並んで見ていたインターネットテレビに映しだされたとんでもない映像に、飛鳥は思わず大声を上げ飛びあがっていた。

 画面の中では、吉野が階段の途中から手摺を超えて飛び降りて、ガン・エデン社CEOリック・カールトンと対峙している。アナウンサーの見当違いな話が流れているせいで、会話の内容は判らない。だが、画面に背を向けた吉野の背中は只ならぬ緊張を孕んでいる。とりあえず、二人が握手を交わしたところで、飛鳥は深く息をつき、へなへなとくずおれた。

 ソファーに座ったままじっと画面を見つめていたサラが、その透き通るペリドットの瞳を煌めかせて、「ヨシノって、そんなにあの人のファンなの?」と、感心したように飛鳥に尋ねた。

「は?」
「ほら、アナウンサーが言っていたじゃない。あんな高いところから飛び降りてまで、ファンがリック・カールトンに駆けよって握手を求めている、って」

 飛鳥は苦笑いしながら首を横に振った。

「その逆」


 飛鳥が日本にいるころは意識して情報を遮断し、吉野には、会社のことには一切触れさせないようにしてきたのに、やはり無理だったのだ。吉野は、いつの間にか自分で調べあげ事実にたどり着いていた。ちょっと検索をかければ、裁判だの何だので、『杜月』とガン・エデン社の面白おかしく書かれた因縁話の記事が出てくるのだから、それも当然の帰結なのかもしれない。

 想像していたよりは冷静な吉野の対応と、すぐにヘンリーが来て二人を引き離してくれたことで、飛鳥はほっと息をついてソファーに座り直した。そして、首を傾げているサラに困ったような笑みを向ける。サラにはおそらくこの笑みの意味は判らないだろうな……、と飛鳥自身自嘲的な気分に落ち込んだまま。

 だが、ほっとしたのも束の間、飛鳥は入れ替わり立ち替わり出入りする一群の中に見つけた人物に、顔色を変える羽目になる。

「やっぱり、吉野を米国なんかに行かせるんじゃなかった――」

 低い呟きに、サラはまた不思議そうに飛鳥を見あげ、その強張った表情に、じきに不安げな視線を投げかけた。





 オープニング・セレモニーを盛況のうちに終えたヘンリーは、吉野たちの帰国後も、米国で息を継ぐ暇もなくばたばたと慌ただしい日々を送っていた。次は三日間に渡るラスベガスの国際見本市を明後日に控えているのだ。
 米国支部店長のサリー・フィールドとの最終打ち合わせをしながら、ヘンリーは、二階窓際に置かれたソファーから、ぼんやりとガラス越しに広がるコンクリート広場を見下ろしていた。灰色の冬空に呼応するような寒々とした灰色の広場にはひっきりなしに観光客が行きかい、この新しくできた店舗の前で記念写真を撮っている。だがそんな喜ばしい風景とは裏腹に、ヘンリーはただ一点のことに囚われていた。

 飛鳥はいったい、僕に、どれほどの嘘をついているのだろうか――、と。

 祭の後、ヘンリーの胸の内に残り火のようにチラチラと燻っているのは、そんな疑問ばかりだった。
 自分がはたして飛鳥に対して常に正直だったかと問われれば、答えはノーだ。それなのに、飛鳥にばかりに忠節を求めるのは間違っている。それは理解している。けれど……。

 ――あんた達、本当の飛鳥を知らないもの。

 吉野の言葉が、何度も、何度も、頭の中で木霊するのだ。
 目の前で創生される宇宙に鳥肌が立った。
 これが、飛鳥の宇宙――。互いに共鳴しあう音叉のような宇宙。ヘンリーには、かつて、わずかに垣間見ることしかできなかったサラの世界がそこにあった。


 次に彼に会った時、僕は彼を、僕の知っているのと同じ飛鳥だと、認識できるのだろうか――、と、そんな疑念が彼の胸を塞いでいた。
 その才能も感情も剥きだしの吉野と、依頼した事だけを完璧にこなす飛鳥――。飛鳥は何も言わない。いつも「OK、ヘンリー」とはにかむように笑い期待に120%応えてくれる――。そんな過去ばかりが、泡のように際限なく浮かんでくるのだ。

 僕の夢が、飛鳥の夢だと、いつの間にこんなにも傲慢に思いこんでいたのだろう? 僕は、彼のことを、何も、知りはしなかったのに!

 吉野が自分を嫌うのは、自分が飛鳥を理解していないからだ。肩を並べて歩くには、あまりにつり合っていないからだと、ヘンリーの胸中に自責の念が圧し掛かる。パブリックスクールの頃と何一つ変わっていない、自分の狭い価値観で飛鳥を判断し、弱みにつけこんでは彼自身を押しつける、そんな自分が情けなくて仕方がなかった。

 彼も、あの頃のまま。自身よりも『杜月』を、家族を、そして何よりも弟を優先して自分のことは二の次だ――。

 解っていたのに、知っていたのに、ヘンリーはその事実から目を逸らせ続けていたのだ。そうすることが彼本来の望みなのだと、自分に言い聞かせて――。

 飛鳥自身の本当の望みは何なのか?


 狂おしいほどの渇望に、ヘンリーは視界を遮りぎゅっと目を瞑る。



 ふと気がつくと、資料を揃えに席を立ったサリーが戻っていた。ローテーブルに一枚づつ並べては身振り手振りで示しながら、とっくにしゃべり始めている。そのサリーの熱弁もどこか上の空で、ヘンリーはどうでも良さそうに、適当に相槌を打つばかりだ。

 さすがにサリーも、ここは一息つくべきかと言葉を切り、「弟さんが英国に戻ってしまわれて、お寂しいですね」と、派手な赤い唇に愛想笑いを浮かべて話題を変えた。

「そこの広場、地味すぎるね。何かモニュメントでも作るかい? それとも、もう少し木でも増やす?」

 ヘンリーは、外を眺めたまま呟くように言った。

「でも、」
「うん、判っているよ。規模の大きなモニュメントになると、どうしても太陽光に負けてしまうものね。こまかな調節に、人手もコストもかかり過ぎてしまう」
「皆、セレモニーの時の宇宙を望んでいますわ」
「あれは駄目だよ。みんなあそこで留まってしまって、店に入ってくれなくなる」

 ヘンリーは、上品に微笑んで、また黙り込んでしまった。

「あれだけのインパクトを出したのだから、もう僕がラスベガスへ行く必要はないんじゃないかな? 今回は講演がある訳でもないし、ブースに立って愛想を言ってまわるだけだろ?」

 しばらくしておもむろに繰りだされたCEOのこの無責任な発言に、サリーは目を瞠り呆れたようにヘンリーを見据えた。ラスベガスの見本市をこなした翌日に、ここニューヨーク一号店は正式にオープンするのだ。会社のトップがこうも投げ遣りでは、全社員の士気に係わるではないか。

「ああ、そうだ、面白いことを思いついたよ」

 かわらずにぼんやりと、重厚で高級感のあるビルに三方を囲まれた灰色の広場を眺めていたヘンリーは、ようやっと視線をサリーに戻し、悪戯っぽく瞳を輝かせて言った。





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