275 / 758
五章
6
しおりを挟む
真の革命家が下層階級から生まれることはない。ガンディーしかり、レーニンしかりさ。
自らが支配階級だからこそ、他からの支配を命を賭してまで拒み切ることができたんだ。民衆は旧支配者から新支配者に乗り換えるだけさ。新体制が、少しでも、自分たちを楽にしてくれると信じてね。
人間てね、支配されたがる生き物なんだよ。本物の教養のある者だけが、己の存在の矛盾に気づくんだ。知性も教養も持ち合わせない連中は、自らが支配されていることにすら気づかない。
でも、僕は知ってしまった。知性や教養があったところで、この事実に変わりはないってことを。それどころか、知性も教養もあるからこそ、自分よりもさらに強いものに支配されたがるってことにね。教会に通うよりも、神に見立てた身近な人間に跪く方が、こころの安定を得られるのさ。
ヘンリーは、そう言って嗤った。さも、つまらなそうに――。
あいつは、ここで何をやっていたのだろう?
上級生になっても、監督生にも生徒会役員にもならなかったのに、誰よりも絶対的な指導力と影響力を持っていた。そして、その全てを投げ捨てて出ていった。何がしたかったんだ? 何に失望したんだ? あいつは、アレンをいったいどうしたいんだ?
情報が少なすぎる――。
吉野は、ぼんやりと眼前に広がる常緑の芝生を眺めたまま、思い巡らしているのだ。
「ヨシノ! そんなところにいないで上がってこない?」
頭上を見あげると、二階の窓からクリスとアレンが笑って見下ろしている。
「いや、いいよ。ここ、陽だまりが暖かくて気持ちがいいんだ」
吉野は地面に座り込み、赤煉瓦の壁にもたれたまま顔だけ動かし返事をする。
「終わるまで、待っていてよ!」
「ああ」
軽く手を振ると、上の二人も大きく手を振り返して頭を引っ込めた。
「ヨシノ、この間の続きを教えてくれる?」
目を開けると、今度はサウードが眼前に立ち、覗きこんでいる。
「なんだっけ?」
吉野の返事に呆れたように肩をすくめ、サウードは隣に腰を下ろす。
「ヘンリー卿の話だよ」
「ああ……」
吉野は、コの字型に配置された、古めかしい音楽棟の中庭のだだっ広い芝生に視線を漂わせた。
「例えばな、アレンのポスターが出てから、ウェザーはアレンに護衛をつけただろ? 俺の時もだ。ベンが同じようにしただろ? ヘンリーからなんだよ。あいつが自分の取り巻き連中を、他寮生の嫌がらせからの防御壁に使ったんだ。そこからが伝統。一生徒に何かあったら全寮生で結束して守るべきだってさ」
でも、アレンが一学年生の時、初め、チャールズはそうしなかった。俺一人に援護を求め、寮としての何の対策も講じなかった。あの、チャールズが――。
「それから、下級生の外出に上級生がつき添うようにしたのも、ヘンリーで――。それで、街でカツアゲに遭う回数も激減したって……」
何かが、おかしい――。
話しながら、吉野は左手の爪を噛む。
「ヨシノ」
ふっと視線を向けた吉野の手を、サウードが仕方がないな、と軽く押さえている。
「その癖、久しぶりだね。――何か、悩んでいる?」
「いや」
サウードは心配そうに吉野をじっと見据えている。
「えっと、なんだっけ? イスハ―クの噂か……。パトリックが俺に対してやっただろう? あれと同じだよ。噂の流し方も決まったルートがあるんだよ。それもヘンリーが作った。監督生と生徒会は一見仲が悪いだろ? でも、その実そうじゃないんだ。生徒会は監督生の傀儡でさ、監督生のほとんどがカレッジ寮生だ。ヘンリーの作った規律が、あいつ自身がうちの寮の規範で、監督生がそれを全校生徒に広めているんだ」
吉野は、悪戯っぽく笑って肩をすくめる。
「だからさ、俺も試してみたんだ。どの程度、有効かなって。だって、ああもアレンにびったりくっついていられちゃ、話もできないだろ?」
「それで、イスハ―クに目をつけられたら不敬罪?」
サウードはちらっと、離れて立つイスハ―クの不愛想な顔を眺めると、肩を震わせて笑った。
「俺なんか、軽く百回は死んでいるな」
首をすくめてみせる吉野と一頻り笑いあった後で、サウードは小首を傾げて訊ねた。
「でもきみの言う通りに、パトリック・ウェザーがヘンリー卿の意向で動いているとして、どうしてきみを放校処分にしようとしたのかな? そんな事をヘンリー卿は望まないだろ?」
「それが、ひとの心の不確定性ってやつだよ」
吉野は面白そうに、にやっと笑う。
「あいつも、まさか杜月飛鳥の弟に、子飼いが手を出すなんて思わなかったんだろ。俺だって信じられなかったもん」
苦笑するサウードに、「でも、なんか変なんだよ。その不確定性を加味してみても計算が合わないんだ。何かがまだ足りない……」吉野は、唇を突きだして、思いっきり渋面を作ってみせるのだ。サウードはサウードで、どう応えていいのか判らないまま、ただ黙ってそんな吉野を見つめていた。
「ヨシノ! なんて顔しているんだよ」
頭上から落ちて来たクスクスと笑う声に、吉野もにっこりと微笑み返した。
「二人とも、お疲れ。今年もまた、パガニーニと、サラサーテ?」
「僕は、リストを弾くよ」
柔らかく微笑むアレンを、吉野は眼を眇めて見あげる。逆光が、その金の髪を炎のように輝かせている。
不確定要素だ――。
「どうせ超絶技巧練習曲第六番か、第三番だろ」
「当たり。今年は、第三番だ」
「俺が吹いたやつだ」
「負けないよ」
アレンは、陽だまりの中で声を立てて笑った。クリスがその脇を肘で小突いて、じゃれついている。
「今年のツィゴイネルワイゼンは僕のものだよ!」
神様はサイコロ遊びをなさるんだよ。ヘンリー、賽を振るのはお前じゃない。たとえここがお前の盤上でも、そうそう好きにさせるかよ――。
そんな吉野の鬱屈とした想いとは裏腹に、三方を壁に囲まれた中庭には、明るい笑い声の残響が空気を震わせて響いていた。
自らが支配階級だからこそ、他からの支配を命を賭してまで拒み切ることができたんだ。民衆は旧支配者から新支配者に乗り換えるだけさ。新体制が、少しでも、自分たちを楽にしてくれると信じてね。
人間てね、支配されたがる生き物なんだよ。本物の教養のある者だけが、己の存在の矛盾に気づくんだ。知性も教養も持ち合わせない連中は、自らが支配されていることにすら気づかない。
でも、僕は知ってしまった。知性や教養があったところで、この事実に変わりはないってことを。それどころか、知性も教養もあるからこそ、自分よりもさらに強いものに支配されたがるってことにね。教会に通うよりも、神に見立てた身近な人間に跪く方が、こころの安定を得られるのさ。
ヘンリーは、そう言って嗤った。さも、つまらなそうに――。
あいつは、ここで何をやっていたのだろう?
上級生になっても、監督生にも生徒会役員にもならなかったのに、誰よりも絶対的な指導力と影響力を持っていた。そして、その全てを投げ捨てて出ていった。何がしたかったんだ? 何に失望したんだ? あいつは、アレンをいったいどうしたいんだ?
情報が少なすぎる――。
吉野は、ぼんやりと眼前に広がる常緑の芝生を眺めたまま、思い巡らしているのだ。
「ヨシノ! そんなところにいないで上がってこない?」
頭上を見あげると、二階の窓からクリスとアレンが笑って見下ろしている。
「いや、いいよ。ここ、陽だまりが暖かくて気持ちがいいんだ」
吉野は地面に座り込み、赤煉瓦の壁にもたれたまま顔だけ動かし返事をする。
「終わるまで、待っていてよ!」
「ああ」
軽く手を振ると、上の二人も大きく手を振り返して頭を引っ込めた。
「ヨシノ、この間の続きを教えてくれる?」
目を開けると、今度はサウードが眼前に立ち、覗きこんでいる。
「なんだっけ?」
吉野の返事に呆れたように肩をすくめ、サウードは隣に腰を下ろす。
「ヘンリー卿の話だよ」
「ああ……」
吉野は、コの字型に配置された、古めかしい音楽棟の中庭のだだっ広い芝生に視線を漂わせた。
「例えばな、アレンのポスターが出てから、ウェザーはアレンに護衛をつけただろ? 俺の時もだ。ベンが同じようにしただろ? ヘンリーからなんだよ。あいつが自分の取り巻き連中を、他寮生の嫌がらせからの防御壁に使ったんだ。そこからが伝統。一生徒に何かあったら全寮生で結束して守るべきだってさ」
でも、アレンが一学年生の時、初め、チャールズはそうしなかった。俺一人に援護を求め、寮としての何の対策も講じなかった。あの、チャールズが――。
「それから、下級生の外出に上級生がつき添うようにしたのも、ヘンリーで――。それで、街でカツアゲに遭う回数も激減したって……」
何かが、おかしい――。
話しながら、吉野は左手の爪を噛む。
「ヨシノ」
ふっと視線を向けた吉野の手を、サウードが仕方がないな、と軽く押さえている。
「その癖、久しぶりだね。――何か、悩んでいる?」
「いや」
サウードは心配そうに吉野をじっと見据えている。
「えっと、なんだっけ? イスハ―クの噂か……。パトリックが俺に対してやっただろう? あれと同じだよ。噂の流し方も決まったルートがあるんだよ。それもヘンリーが作った。監督生と生徒会は一見仲が悪いだろ? でも、その実そうじゃないんだ。生徒会は監督生の傀儡でさ、監督生のほとんどがカレッジ寮生だ。ヘンリーの作った規律が、あいつ自身がうちの寮の規範で、監督生がそれを全校生徒に広めているんだ」
吉野は、悪戯っぽく笑って肩をすくめる。
「だからさ、俺も試してみたんだ。どの程度、有効かなって。だって、ああもアレンにびったりくっついていられちゃ、話もできないだろ?」
「それで、イスハ―クに目をつけられたら不敬罪?」
サウードはちらっと、離れて立つイスハ―クの不愛想な顔を眺めると、肩を震わせて笑った。
「俺なんか、軽く百回は死んでいるな」
首をすくめてみせる吉野と一頻り笑いあった後で、サウードは小首を傾げて訊ねた。
「でもきみの言う通りに、パトリック・ウェザーがヘンリー卿の意向で動いているとして、どうしてきみを放校処分にしようとしたのかな? そんな事をヘンリー卿は望まないだろ?」
「それが、ひとの心の不確定性ってやつだよ」
吉野は面白そうに、にやっと笑う。
「あいつも、まさか杜月飛鳥の弟に、子飼いが手を出すなんて思わなかったんだろ。俺だって信じられなかったもん」
苦笑するサウードに、「でも、なんか変なんだよ。その不確定性を加味してみても計算が合わないんだ。何かがまだ足りない……」吉野は、唇を突きだして、思いっきり渋面を作ってみせるのだ。サウードはサウードで、どう応えていいのか判らないまま、ただ黙ってそんな吉野を見つめていた。
「ヨシノ! なんて顔しているんだよ」
頭上から落ちて来たクスクスと笑う声に、吉野もにっこりと微笑み返した。
「二人とも、お疲れ。今年もまた、パガニーニと、サラサーテ?」
「僕は、リストを弾くよ」
柔らかく微笑むアレンを、吉野は眼を眇めて見あげる。逆光が、その金の髪を炎のように輝かせている。
不確定要素だ――。
「どうせ超絶技巧練習曲第六番か、第三番だろ」
「当たり。今年は、第三番だ」
「俺が吹いたやつだ」
「負けないよ」
アレンは、陽だまりの中で声を立てて笑った。クリスがその脇を肘で小突いて、じゃれついている。
「今年のツィゴイネルワイゼンは僕のものだよ!」
神様はサイコロ遊びをなさるんだよ。ヘンリー、賽を振るのはお前じゃない。たとえここがお前の盤上でも、そうそう好きにさせるかよ――。
そんな吉野の鬱屈とした想いとは裏腹に、三方を壁に囲まれた中庭には、明るい笑い声の残響が空気を震わせて響いていた。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
偏食の吸血鬼は人狼の血を好む
琥狗ハヤテ
BL
人類が未曽有の大災害により絶滅に瀕したとき救済の手を差し伸べたのは、不老不死として人間の文明の影で生きていた吸血鬼の一族だった。その現筆頭である吸血鬼の真祖・レオニス。彼は生き残った人類と協力し、長い時間をかけて文明の再建を果たした。
そして新たな世界を築き上げた頃、レオニスにはひとつ大きな悩みが生まれていた。
【吸血鬼であるのに、人の血にアレルギー反応を引き起こすということ】
そんな彼の前に、とても「美味しそうな」男が現れて―――…?!
【孤独でニヒルな(絶滅一歩手前)の人狼×紳士でちょっと天然(?)な吸血鬼】
◆閲覧ありがとうございます。小説投稿は初めてですがのんびりと完結まで書いてゆけたらと思います。「pixiv」にも同時連載中。
◆ダブル主人公・人狼と吸血鬼の一人称視点で交互に物語が進んでゆきます。
◆現在・毎日17時頃更新。
◆年齢制限の話数には(R)がつきます。ご注意ください。
◆未来、部分的に挿絵や漫画で描けたらなと考えています☺
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
未来の軌跡 - 経済と企業の交錯
Semper Supra
経済・企業
この長編小説は、企業経営と経済の複雑な世界を舞台に、挑戦と革新、そして人間性の重要性を描いた作品です。経済の動向がどのように企業に影響を与え、それがさらには社会全体に波及するかを考察しつつ、キャラクターたちの成長と葛藤を通じて、読者に深い考察を促す内容になっています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる