胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 翼を落とされた天使は、なぜか、天使から大天使に格上げされた。

「ああなるともう、取り巻きというよりも親衛隊だね」
 礼拝堂の主階段の手摺にもたれかかって、サウードは傍らの吉野を見あげる。
「ウェザーが過剰に心配性なんだよ」

 寮長にはなりそこなったとはいえ、実質、カレッジ寮を仕切っているのはパトリック・ウェザーだ。

 先日公開されたTSネクストの新ポスターは、フレデリック達の心配した通りに、異常な興奮を持って受け止められていた。キングススカラーという、校内でも一種特権的な立ち位置にいるアレンに無礼な態度を取る者はそうそういないことは判っている。だが、過剰に目立つことで、また上級生に目をつけられたり、陰で嫌がらせされたりするのではないか、という配慮の結果、アレンの周りは、誰かがつき添っていることが常となった。何よりもパトリックは、度を越えたストーカー的な視線から、アレンを守りたかったのかもしれない。もっとも吉野にしてみれば、その護衛兼取り巻き連中のアレンへの崇拝ぶりに、ストーカーどもよりもよほど、怖気を感じていたのだが――。

 大勢に取り囲まれていたアレンは、二人に気がつくと片手を振り、周囲に一言、二言告げてこちらに向かって駆けだしてきた。

「お待たせ!」
 息を弾ませ、乱れた前髪をかき上げ、大雑把に一括りにしてあった柔らかな後ろ髪を解いて括り直す。

「髪、伸びたな。切らないの?」
「ラザフォード卿が伸ばせって」
「デヴィの言うことなんか、ほっとけよ」
 呆れ顔の吉野に、アレンは嬉しそうに瞳を輝かせて首を振る。
「そうはいかないよ。兄のお手伝いができるせっかくのチャンスだもの」

 こんなふうに、吉野の苦笑も、溜息も、アレンはふふっと笑って、いつも流してしまう。

 吉野からすれば、ヘンリーも、デヴィッドも、こっちの迷惑も考えずにアレンをただ利用しているようにしか思えない。TSの宣伝の意味だけではなく、アレンを手の内に握ることで米国の祖父に牽制しているのだ、という思惑までが見え隠れしている。アレンはそのことを判っているのか、いないのか、どこ吹く風で一向に気にしていないようだ。かといって、言いなりになっているようにも見えず、自分から積極的にこの状況を楽しんでいる、とさえ吉野には思える。人の気も知らないで――。

「イスハ―クがいてくれると、本当、助かる」
 歩きだしながら、アレンは後ろを振り返った。
「きみの姿を見ると、みんな波が引くようにどこかへ行っちゃうんだ」
「へぇ~、何でだろう?」
 無表情のイスハ―クにかわって、サウードが興味深げに訊ねた。
「怖いから、かな?」
 アレンは首を捻りながら自信なげに応える。

「ああ、噂だよ。サウード殿下に不敬罪を犯した奴らの末路――、的な」
 吉野が口を挟んだ。
「お前はサウードの友人だからさ、お前に何かしてるところをイスハ―クに見られたら、不敬罪で殺されても文句は言えないっていうことだよ」
「不敬罪って、そんなに適用範囲が広かったの?」
 目を丸くして驚くアレンに、吉野は声を立てて笑った。
「まさか! だから噂だって。その方が、都合がいいからさ、そういう事にしているんだよ。お前の兄貴のやり方を見習ったんだ」
「え?」
「ヘンリーがさ、いまだにこの学校に絶大な影響力を持つのはな、あいつがここを支配する法律を作ったからなんだ」

 ――そして、途中で放りだした。

「だからあいつは、今でもエリオット校生エリオティアンであって、ウイスタン校生ウイスティアンとは呼ばれないんだ」
 アレンも、サウードも、ポカンと吉野を見つめている。

「知りたい?」
 二人とも黙ったままコクコクと頷く。
「先に何か腹に入れてから。腹減りすぎて力がでない」
 吉野は少し意地悪く、にやっと笑った。





「もういいかげん、許してやれよ」
「こればっかりは、無理」

 唇を突き出した呆れたような吉野に、アレンはぷいっとそっぽを向く。その全身から、数人の監督生仲間とスヌーカーに興じるパトリック・ウェザーの一団を頑なに拒んだ、冷ややかな空気を漂わせて――。

 パブの二階のいつもの指定席で食事を終えた後、のんびりとお茶を飲みながら、サウードと吉野は互いに顔を見合わせて溜息を漏らす。

「当事者の俺が気にしていないんだからさ」
 アレンは口をへの字に曲げたまま、首を横に振る。
「さっきの続き、教えてやんないぞ」
「いいよ。べつに」
 アレンはセレストブルーの瞳で軽く吉野を睨み、唇を尖らせる。

「僕は知りたいな」
 サウードが取りなすように口を挟む。吉野は小さく吐息をついて、いきなり「パット!」と大声でパトリックを呼んだ。


「きみと僕は、愛称で呼び合うような仲だったかな?」
 パトリックは、スヌーカーテーブルに上体を乗りだし、コンと軽く玉を突いてその結果を見届けてから、ゆっくりと身体を起こして冷たい声音で応える。

「ベンから伝言だ。クリスマスコンサートのチケットを、なんとかあと五枚ほど手に入らないかって。俺、割り当て分はもうあげちまったんだ。どう、なんとかなる?」
「どうしてきみからそんな事を聞かされなくちゃならないんだい? 僕から直接、彼に訊ねるよ」

 パトリックはキューを小脇に抱えて、吉野を見下ろすように睨めつける。

「そうか、じゃ、そうしてくれ。確かに伝えたからな」

 吉野は彼のそんな態度を気にする風もなく、微笑んで会話を終えた。

 アレンはますます不機嫌そうに顔を伏せている。パトリックはそんな彼にチラッと目をやり、すぐに逸らすと、何事もなかったように再びスヌーカーテーブルに向き合っている。




「お前の兄貴は、お前が考えているよりも、ずっと怖い奴なんだぞ」

 吉野はテーブルに身を乗りだし、声をひそめて囁いた。アレンはそっと目線だけ上げて彼を見つめる。

「『きみは僕に跪かない、だからきみは僕の友達だ』ヘンリーは飛鳥にそう言ったんだ。この意味が判るか? 飛鳥は常にあいつと対等であろうとして、神経をすり減らしている。あいつは、何も判っちゃいないんだ」

 アレン以上にサウードが、息を呑んで吉野を凝視していた。

「お前には、判るよな。お前もあいつと同じだもの」
 吉野はにっとサウードに笑いかける。
「だから、この裏の意味も判るだろ? あいつに跪くような人間は、皆、あいつの従者なんだよ。あの男のように」

 吉野は言葉を切って、アレンを見据えたままかすかに顎をビリヤード台に向けてしゃくる。

「お前が兄貴に少しでも認められたいのなら、あの男を利用しろ。お前は、今もあいつに見られていて試されているんだ」

 アレンは唇を震わせて、テーブルの下で拳を握り締めていた。

「それでも、僕は、彼を、許せない……」

 やっとの想いで声を掠らせて、言葉を絞りだす。吉野を陥れた主犯、パトリックへの恨み、つらみ――を、こんな短期間の内に水に流せるはずがなかった。吉野は、あんな酷い状態に置かれていたのに――。


「許さなくていい。でも、笑いかけろ。それだけでいいんだ」
「きみは、そんな、心と裏腹な行動ができるの?」
「裏腹? どこが?」
 吉野は怪訝そうに眉根を寄せる。
「目標も、結果もひとつだ。その道程にブレはないよ」

 吉野はさらに顔を近づけて、まるで心躍る悪戯でも思いついた子どものように、その瞳を輝かせて小声で囁いた。

「この学校は、いまだにあいつの実験場だよ。もう充分だと思わないか? お前が、この学校をあいつの手の内から奪い返すんだ。そうすればお前はヘンリーと対等になれる。そう思わないか、アレン?」

 まるで悪魔の囁きのようだ――。

 そう心の内で思いながらも、アレンはこっくりと頷いていた。吉野の言葉に返す言葉を持たないまま――。


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