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四章
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明るく照らされた客席に、椅子からずり落ちそうな恰好で眠りこけている友人のとぼけた寝顔を見つける。吉野はくすくすと笑いながら投げだされている長い脚に続くスニーカーを、綺麗に磨かれた革靴でコッコッ、と小突いた。
「おい、いいかげん起きろよ」
重たげに頭を持ちあげ、蘇芳は眩しそうに目を眇めながら辺りを見回す。
客席にいる人影はまばらで、舞台上では大道具のすでに片づけが行われている。大声で呼び合う声や、道具をガタガタと運ぶ物音だけがガランとした劇場に響いている。
「あの子は?」
首を傾げる吉野に、蘇芳は訝し気に顔をしかめている。
「金髪の、青みたいな、紫みたいな、変わった目の色のすげー可愛い子。お前と同じ寮だって」
「ああ、アレンのことかな」
「アレンっていうのか。ガチで可愛いよな。あんな綺麗な子、初めて見たよ。紹介しろよ」
目が覚めるなり嬉しそうな顔でのほほんと語り始める蘇芳に吉野は呆れかえった顔を向け、また足先でスニーカーを小突く。
「お前、何寝ぼけてんの? ちゃんと制服着てただろ? うち男子校だぞ?」
わざとらしく目線を伏せて、吉野はポケットに手を突っ込み肩を震わせて哂っている。
「え……」
一気に凍りついた蘇芳にちらりと目をやり、吉野は遠慮なく声を立てて笑った。
「春が来てたのか? 冬に逆戻りだな、可哀想に」
蘇芳は大げさ溜息をついて、「始まる前に終わっちまった。ショックで腹が減ったよ」椅子から立ちあがると、コキコキと上半身を横に捻って骨を鳴らした。
「姉貴がいるよ。あいつそっくりの」
吉野が揶揄うように告げると、蘇芳の頬もにんまりと緩んだ。
「ほんと?」
「たしか、二つか、三つ上。顔はそっくり。性格悪そうだけれどな」
吉野はくいっと顎をしゃくり、出口に向かって歩き始める。蘇芳はまだスッキリとしないのか、身体を捩じり、軽くストレッチしながら後に続いた。
「そうだ!」
劇場を出るまぎわに大声をあげた蘇芳に、周囲からの冷たい一瞥が突き刺さる。
そんな視線は物ともせず、蘇芳は吉野の腕を引っ張ると顔を近づけて小声で囁いた。
「あいつがいたんだ! お前みたいな黒いのを着ていた」
「知ってる――。間違いなかったか?」
吉野は念を押すように呟いた。
「間違いないよ」
蘇芳は大きく頷いた。だが吉野の厳しい横顔を見やると訝し気に眉を寄せた。
「お前、あいつの顔知らないんじゃなかったのか?」
「一度だけ遇ったことがある。一目で判った」
吉野は、歩調を緩めることなく歩き続ける。
「お前に確かめてもらいたかったんだ」
「忘れるもんか。間違いないよ」
蘇芳はもう一度繰り返し、力強く頷いた。
二人は、こじゃれた店の立ち並ぶハイストリートのカフェで買った、スモークサーモンとクリームチーズのベーグルに歩きながらかぶりつき、とりあえず腹を満たす。
「ごめんな、こんな物で。コンサートが終わったら、まともなもん食いにいこう」
「旨いよこれ。もう一個、買っときゃ良かった」
いっぱいに頬張ったまま答える蘇芳を横目で見遣り、自身も同じように膨れた頬を動かしながら、吉野は楽しそうに目を細めた。
コンサートホールの手前で立ち止まると、手元に残っていたベーグルの最後の一口を口に押し込んで、反対の手に持ったコーヒーで流し込む。
「ほら、寝てもいいけれどさ、いびきだけはかくなよ」
「こんどは何?」
「クラッシック・コンサート」
げっ、と露骨に嫌な顔をする蘇芳に、吉野は肩をすくめてみせた。
「ダチが出るんだ。嫌ならその辺のカフェで待ってるか?」
「それも嫌だな」
蘇芳は唇を突きだして首を振った。くしゃっと微笑み返した吉野だったが、「それじゃあ、――見るなよ。そのまま振り返るな。ホールに入っていろ」と、突然すっとその顔から笑みを消し、ゆっくりと道路を挟んだ向こう側に目を遣りながら歩きだす。
しばらくすると道路を横切って長身の男が足早に歩み寄り、吉野の肩を叩いた。先ほどの男だ。蘇芳は言われた通りにホールに向かいながら、顔を伏せ、目だけ上に向けてその端に二人を捉えながら追った。あの男とにこやかに談笑している吉野を驚愕の想いで睨めつけながら――。
「あいつ、どういうつもりなんだ……」
コンサートホールの座席に腰を下ろしてからも、蘇芳はなかなか戻ってこない吉野をイライラと待ちながら何度も出入り口を振り返っていた。
開演のブザーが鳴り照明が落ちてからやっと、吉野は蘇芳の横に滑りこみ着席した。腹を立てて肘で脇腹を小突く蘇芳の耳に、吉野は手を当てて囁いた。じっと眉間に皺を寄せて聞いていた蘇芳は、緊張した面持ちのまま、おもむろに頷いた。
舞台の上では、クリス・ガストンがチェロを演奏している。例年のオープニングを飾るJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲 第1番だ。
演奏を終え、クリスは立ちあがって拍手に応え、礼をしながらチラリと右端に目を遣る。
たしかにさっきまで、ヨシノはいたのに――。
スポットライトに照らされた舞台上と暗い闇に沈む客席は、目に見える距離以上に遠く隔たって見える。五列目の一番端の空席が、ぽっかりとクリスの心に穴を開ける。初めてのソロ演奏の栄誉を得た喜びもしぼみ、拍手も、喝采も、虚ろな心にただうねり反響する木霊のように、クリスには聞こえるのだった。
「おい、いいかげん起きろよ」
重たげに頭を持ちあげ、蘇芳は眩しそうに目を眇めながら辺りを見回す。
客席にいる人影はまばらで、舞台上では大道具のすでに片づけが行われている。大声で呼び合う声や、道具をガタガタと運ぶ物音だけがガランとした劇場に響いている。
「あの子は?」
首を傾げる吉野に、蘇芳は訝し気に顔をしかめている。
「金髪の、青みたいな、紫みたいな、変わった目の色のすげー可愛い子。お前と同じ寮だって」
「ああ、アレンのことかな」
「アレンっていうのか。ガチで可愛いよな。あんな綺麗な子、初めて見たよ。紹介しろよ」
目が覚めるなり嬉しそうな顔でのほほんと語り始める蘇芳に吉野は呆れかえった顔を向け、また足先でスニーカーを小突く。
「お前、何寝ぼけてんの? ちゃんと制服着てただろ? うち男子校だぞ?」
わざとらしく目線を伏せて、吉野はポケットに手を突っ込み肩を震わせて哂っている。
「え……」
一気に凍りついた蘇芳にちらりと目をやり、吉野は遠慮なく声を立てて笑った。
「春が来てたのか? 冬に逆戻りだな、可哀想に」
蘇芳は大げさ溜息をついて、「始まる前に終わっちまった。ショックで腹が減ったよ」椅子から立ちあがると、コキコキと上半身を横に捻って骨を鳴らした。
「姉貴がいるよ。あいつそっくりの」
吉野が揶揄うように告げると、蘇芳の頬もにんまりと緩んだ。
「ほんと?」
「たしか、二つか、三つ上。顔はそっくり。性格悪そうだけれどな」
吉野はくいっと顎をしゃくり、出口に向かって歩き始める。蘇芳はまだスッキリとしないのか、身体を捩じり、軽くストレッチしながら後に続いた。
「そうだ!」
劇場を出るまぎわに大声をあげた蘇芳に、周囲からの冷たい一瞥が突き刺さる。
そんな視線は物ともせず、蘇芳は吉野の腕を引っ張ると顔を近づけて小声で囁いた。
「あいつがいたんだ! お前みたいな黒いのを着ていた」
「知ってる――。間違いなかったか?」
吉野は念を押すように呟いた。
「間違いないよ」
蘇芳は大きく頷いた。だが吉野の厳しい横顔を見やると訝し気に眉を寄せた。
「お前、あいつの顔知らないんじゃなかったのか?」
「一度だけ遇ったことがある。一目で判った」
吉野は、歩調を緩めることなく歩き続ける。
「お前に確かめてもらいたかったんだ」
「忘れるもんか。間違いないよ」
蘇芳はもう一度繰り返し、力強く頷いた。
二人は、こじゃれた店の立ち並ぶハイストリートのカフェで買った、スモークサーモンとクリームチーズのベーグルに歩きながらかぶりつき、とりあえず腹を満たす。
「ごめんな、こんな物で。コンサートが終わったら、まともなもん食いにいこう」
「旨いよこれ。もう一個、買っときゃ良かった」
いっぱいに頬張ったまま答える蘇芳を横目で見遣り、自身も同じように膨れた頬を動かしながら、吉野は楽しそうに目を細めた。
コンサートホールの手前で立ち止まると、手元に残っていたベーグルの最後の一口を口に押し込んで、反対の手に持ったコーヒーで流し込む。
「ほら、寝てもいいけれどさ、いびきだけはかくなよ」
「こんどは何?」
「クラッシック・コンサート」
げっ、と露骨に嫌な顔をする蘇芳に、吉野は肩をすくめてみせた。
「ダチが出るんだ。嫌ならその辺のカフェで待ってるか?」
「それも嫌だな」
蘇芳は唇を突きだして首を振った。くしゃっと微笑み返した吉野だったが、「それじゃあ、――見るなよ。そのまま振り返るな。ホールに入っていろ」と、突然すっとその顔から笑みを消し、ゆっくりと道路を挟んだ向こう側に目を遣りながら歩きだす。
しばらくすると道路を横切って長身の男が足早に歩み寄り、吉野の肩を叩いた。先ほどの男だ。蘇芳は言われた通りにホールに向かいながら、顔を伏せ、目だけ上に向けてその端に二人を捉えながら追った。あの男とにこやかに談笑している吉野を驚愕の想いで睨めつけながら――。
「あいつ、どういうつもりなんだ……」
コンサートホールの座席に腰を下ろしてからも、蘇芳はなかなか戻ってこない吉野をイライラと待ちながら何度も出入り口を振り返っていた。
開演のブザーが鳴り照明が落ちてからやっと、吉野は蘇芳の横に滑りこみ着席した。腹を立てて肘で脇腹を小突く蘇芳の耳に、吉野は手を当てて囁いた。じっと眉間に皺を寄せて聞いていた蘇芳は、緊張した面持ちのまま、おもむろに頷いた。
舞台の上では、クリス・ガストンがチェロを演奏している。例年のオープニングを飾るJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲 第1番だ。
演奏を終え、クリスは立ちあがって拍手に応え、礼をしながらチラリと右端に目を遣る。
たしかにさっきまで、ヨシノはいたのに――。
スポットライトに照らされた舞台上と暗い闇に沈む客席は、目に見える距離以上に遠く隔たって見える。五列目の一番端の空席が、ぽっかりとクリスの心に穴を開ける。初めてのソロ演奏の栄誉を得た喜びもしぼみ、拍手も、喝采も、虚ろな心にただうねり反響する木霊のように、クリスには聞こえるのだった。
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