胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

記憶1

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蘇芳すおう!」

 エリオット校創立前夜祭で多くの人が行きかう中、キョロキョロと辺りを見回しながら歩いていた幼馴染に、吉野は大きく手を振って呼びかけた。

「吉野!」

 カテドラルの正面に立つ黒いローブをまとった吉野に、勢いよく駆けよる。東雲蘇芳しののめすおうは、顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑いながら、思いっきり拳で吉野の肩を小突く。久しぶりに親友の顔を見た安堵感で、初めて外国を訪れているという緊張感が一気に解れていた。丸顔に大きな愛嬌のある瞳を輝かせ、吉野をじっと見つめたかと思うと、今度は逆に眉間に皺を寄せて渋い顔を作る。

「お前、ずいぶん背が伸びやがったな。絶対、俺の方が抜いてると思ってたのに!」
「お前もでかくなったよ。バスケット続けてるんだろ? やっぱ、ぴょんぴょん跳ねてると伸びるのかな」


 一年十カ月ぶりに会う蘇芳は、吉野が小学校に入る前からの一番の親友だ。一緒にスイミングにも通ったし、しょっちゅう家に泊めてもらったり、夕飯を御馳走になったり――。遠足も、運動会も、弁当は蘇芳の母親が吉野の分まで作ってくれていた。吉野の留学が決まるまで、実の家族と見紛うような密度の濃い時間をともに過ごし、兄弟のように育ててもらってきたのだ。

「師範やおばさんは元気か? 道場の皆は?」
 歩き出しながら吉野は矢継ぎばやに質問する。蘇芳の父は、吉野の通っていた弓道道場の道場主でもある。
「お前、夏休みくらい帰ってこいよ。父さんも、母さんも寂しがってるんだぞ。いつもお前のことばっか、訊いてくる。メールきてないのか、って」
「ああ、夏休みは飛鳥がな……」
 蘇芳は一瞬押し黙った。
「兄ちゃん、元気か?」
「うん、今、すげぇ仕事に打ち込んでる。楽しそうだよ」
 吉野は、スイスからやっと戻ってきて久しぶりに会った兄を思いだし、目を細めた。
「そうか、良かったな」
 蘇芳もほっとしたように笑った。

「こっちじゃ、アイシュおばさんの親戚の家に泊まるの?」
「うん。すげーでかい家だった。ロンドンっていってもかなり郊外なんだけどな」

 親戚の結婚式のために英国を訪れることになった『杜月』のプログラマー、アビジートとその妻アイシュに無理を言って、蘇芳は学校を休み英国まで連れてきてもらったのだ。五日間の滞在予定だ。

「俺の知り合いのところに泊まれよ。そしたら、授業が終わったら遊びにいけるからさ、昼間はお前ひとりでその辺を観光してればいいしさ。おばさんも親戚ん家じゃお前の面倒みるのも大変だろ?」
「訊いてみる」
 屈託なく笑う吉野に頷き返し、蘇芳はすぐさま携帯を取り出した。



「月曜日に戻ればいいって」
 そのまま吉野の耳に携帯を当てる。甲高いアイシュの独特のイントネーションが漏れ聞こえる。吉野は懐かしいその声に、嬉しそうに相好を崩して相槌を打った。
「お前さぁ、そんな嬉しそうな顔するならもっと連絡してこいよ。メール送ったって、時々しか返事こないし。ぜんぜんそっちの様子言わないし。皆、心配してんだぞ!」

 蘇芳は不満顔で唇を尖らせる。吉野はひょいっと肩をすくめた。





「着いたよ」
 覆い隠すように緑の茂る木々の向こう、白いコンクリートの箱のような学校付属劇場の前で足を止めた。ウインドウには等間隔で今日の演目『リチャード三世』のポスターが貼られてある。
 吉野はチケットを蘇芳に渡しずんずんと足を速めて進んでいく。

「俺、いちおうスタッフだからさ、本番中は裏で待機してなきゃいけないんだ。お前には退屈だと思うけれどここで見ていて」

 エントランスからホール入り口まで案内し、吉野は蘇芳を一人残して控室へ向かった。




 四百人収容の、半円形状のオープンステージを取り囲むように設置された客席はほぼ埋まりかけている。
 すり鉢状の座席の最後部で、辺りを見回して戸惑いながら席を探す蘇芳に、「良かったら、ここにどうぞ」と声がかけられる。

 左右に目を配り、確かに自分だと確かめてから、蘇芳は礼を言い腰を下ろした。隣町の電車の駅からずっと歩きづめだったので、なにより座れたことが嬉しかった。吉野に会えた高揚感もゆっくりとクールダウンして、軽い疲労感が勝ってきていた。ほう、と吐息をついて背もたれに深くもたれかかった。

「友達に招待されたの?」
 隣の席のこの学校の制服を着ている生徒に話しかけられた。
「え? すみません。もっとゆっくり喋って下さい」
 蘇芳は慌てて身体を起こすと、声の主に顔を向ける。

 天井ライトに柔らかく照らされて輝く金髪の下の、白磁の人形のように整った愛らしい顔に目が釘づけにされた。澄んだセレストブルーの瞳は朝焼けの空のようだ。

 かっわいい――。

 口をポカンと開けて自分を見つめる蘇芳に、アレンは上品に微笑んで、もう一度、今度はゆっくりと同じ質問を繰り返す。

「あ、そう、そう」
 蘇芳は緊張でドキドキしながら答える。
「どちらから?」
「日本」
「じゃ、ヨシノのお友達?」
 吉野の名前に蘇芳はちょっと驚いた様子を見せ、すぐに嬉しそうににっこりして頷いた。

「吉野、知っているの?」
「同じ寮。それにこの学校に日本人は彼だけだから」

 この降って沸いた偶然に蘇芳は嬉しくて堪らなくなって、矢継ぎばやに吉野の学校での様子を訊ねた。吉野を知っている――。それだけで、急にこの隣に座る知らない子が、長年の友人ででもあるように思えてくるから不思議だ。



 開演のブザーが鳴る。
 やっと蘇芳はアレンから舞台正面に視線を移し、腰を浮かせて座りなおした。と、その視線が一点で留まり動かなくなった。眉を寄せ、少しずつ照明が落ちて闇に包まれていく客席を凝視している。

「あいつ……。なんであの野郎がここにいるんだ――」

 拳をぎゅっと握りしめると、蘇芳は跳ねるように立ち上がった。アレンは驚いて彼の腕を掴む。

「座って。もう舞台が始まる」
「吉野に、吉野に教えなきゃ」

 なおも出口に向かおうとする蘇芳を掴む腕に、アレンは力を籠めた。華奢な見かけとはかけ離れたその握力に顔をしかめ、蘇芳はその手の先の、可愛らしい作りには不似合いな厳しく諭すような瞳を睨めつける。

「彼には舞台が終わるまで会えないよ。彼、プロンプターだから」

 蘇芳はイラついた目でアレンを一瞥し、黙ってどすんと腰をおろした。その口はへの字に結ばれて、客席の一点を凄まじい眼つきで睨めつけている。つい今しがたまで気さくに、冗談交じりに話していた彼のこの突然の変化に、アレンは戸惑いを隠せない。



 照明の落ちきった暗がりの中、アレンはそっと蘇芳の腕を小さく叩くと下に注意を向けるように指先で促した。蘇芳が目を伏せると、腿の上辺りに明度を押さえたスマートフォンサイズの画面が――、画面だけがぽっかりと浮かんでいる。

 そしてそこには、『何か困ったことでも起こったの? 僕で良かったら力になるよ』と書かれていた。驚いて横を向く蘇芳に、アレンは優しく微笑んで頷いた。



「今や我らが不満の冬は去り、ヨーク家の太陽によって輝かしい夏となった」

 グロスター公リチャードの独白が朗々と響きわたり、舞台の幕が上がる。





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