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四章
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消灯後の暮明の中にぼんやりと青白く輝くTSの画面がふたつ、ぽっかりと浮かんでいる。肩を並べてクリスのベッドに腰掛け、壁にもたれかかった気楽な姿勢で、吉野は試験の過去問題を声を潜めて説明している。
自習室での学習指導の後、吉野はクリスの勉強をみるようになった。十時の消灯後、かっきり一時間だ。十一時になると、吉野は上級生の自習時間を終えたチューターの先生方とのミーティングに向かう。
まったく、何だって下級生の吉野がそんな遅くに消灯後のベッドから這いだして先生方の打ち合わせに参加しなきゃいけないんだ、とクリスはいつも憤慨している。でも、吉野は銀ボタンだから仕方がない。最上級生と同じ扱いになるからだ。
クリスが、「それまで起きていなければならないのなら、僕もつき合うよ」と言うと、じゃ、その間に勉強をみてやるよ。て、ことになった。
吉野に自習室に来るな、と言われたときは腹も立ったけれど、今はそれで良かったのだ、とクリスは思っている。
その吉野の言葉を、どう思う? と皆に尋ねると、フレデリックも、戻ってきたばかりのアレンも、おそらくは、彼らの中で一番状況を把握しているサウードさえも、口を揃えて同じ言葉を返してきた。
――きみが、クリス・ガストンで、ガストン一族はシティきっての銀行家の一族だからだよ。英国金融界の中枢にいるんだもの。だからきみや、きみの家族まで共犯者みたいに思われて、不当な扱いを受けるんじゃないか、ってヨシノは心配しているんだよ。
吉野はいつだって僕のことを考えてくれている。それが判っただけで、クリスはもう辛くはなかった。
新参者がお茶の準備をする、それはいたって当然の慣習だ。
だが、初めてのミーティングでノース先生の淹れたお茶は、あまりにも惨い、色水にも似た代物だった。他の二人の先生方は唖然として、互いの目と目を見合わせていた。その目は、とても同じ英国人とは思えない、と暗黙のうちに語り合っていた。自分がお茶を淹れるのが下手だという自覚がノースにもあったらしく、すんなりとミーティング中のお茶を淹れる係りは吉野に代った。
ミーティングの後、ノースの部屋で紅茶を淹れることも日課になった。吉野は自室に戻る前に、簡易キッチンでお湯を沸かし、彼のために就寝前のブランデー入りミルクティーを作る。
なかなか寝つけない性質なので、気分が休まるように寝る前にお茶を飲む習慣ができたのだが、自分で作るとあまりにも不味くてついブランデーを入れすぎてしまうのだ、とノースが情けない顔をして言ったからだ。旨いお茶を淹れるコツを教えてくれ、と。
結局、コツの伝授ではなく、吉野自身がお茶を淹れるためにノースの部屋に通っている。
「きみがナイトキャップ・ティー作ってくれるようになってから、本当によく眠れるんだ」
吉野がキッチンを使っている間に早々と着替えたナイトガウン姿のノースは、肘掛椅子にもたれて嬉しそうに声を弾ませる。
「すまないね、先にくつろがせてもらって。ときどき着替えも忘れて腰かけたまま寝てしまっているんだよ。優秀で生意気な生徒の指導をするのは、気が張るものなのかな――」
深く溜息をつくノースに、吉野は紅茶を差しだした。
「どうぞ、先生」
「ギルでいいよ。先生なんて言われるとむず痒くなる。僕なんかよりも、きみの方がずっと優秀なのに!」
眼鏡越しに吉野を見上げ、嫌味なく自然な笑顔を向けている。
「僕なんか、とんでもない!」と吉野は謙遜して俯く。
「金融工学の知識はプロ並みだっていうじゃないか。誰に指導を受けたの?」
「誰にも。独学です、先生」
吉野は口許に笑みを湛えたまま、両手を背中で組み合わせて答えた。
「まさか!」
渡されたカップを再度テーブルに置いて膝の上で両手を組むと、ノースは好奇心一杯の瞳でじっと吉野を見つめた。
「明日、発表されるのだがね、スコット先生が休職されるんだ」
「この時期にですか!」
今の時期は一年で一番重要な試験期間中なのだ。吉野は驚きのあまり目を見張っていた。
「五月いっぱいでね。希望通りのサナトリウムに移れることになったそうなんだ。彼の奥さん、ガンでね。末期なんだそうだ。きみにとても感謝していたよ。きみのおかげで、妻の最後の時をともにすごすことができるってね」
いつも皺だらけのスーツにアカデミック・ローブ、ボサボサ頭にくたびれた顔をした、覇気のない無口なスコット先生を吉野は思いだしていた。
そうだった、去年は違ったのだ。こうじゃなかった。彼の髪はいつも一部の隙もなく撫でつけられ、のりのきいたシャツに最新流行のネクタイをした、とてもお洒落な方だった。そして、ウイットに富む会話で進められる熱心な指導は、生徒からも、先生方からも絶大な信頼を勝ち得ていた。
目を大きく見開き、薄く口を開けて立ちつくしている吉野に、ノースは優しく微笑みながら続けた。
「きみのレポート分析の通りに投資を行って、諦めていた高級サナトリウムでの治療を受けるだけの費用を稼ぎだしたんだそうだよ。そこは家族も一緒にすごせる施設で、スコット先生も、」とここでノースは、はっとして言葉を止めた。
吉野の目から大粒の涙が溢れていた。伏せられた瞼からいくつも、いくつもの涙がこぼれ落ちる。長い指を広げて吉野はその顔を覆った。
たとえ、結果がどうであれ、自分に可能な最大限のことをしてあげることができるなら、残される者にとってはそれが救いになる。できることはすべてやったのだと、自身を納得させることができる。運命を受けいれ、神を呪うこともない――。
飛鳥も、父さんもだから乗り越えられた。俺だけだ、目を逸らし逃げていた俺だけが、弱虫のままなんだ……。
と、吉野はスコット先生の想いを我が身に重ね、自責の念に駆られていたのだ。
「良かった。本当に良かった――」
押し殺すようなくぐもった声が、吐息とともに漏れでていた。
「すみません、僕の母も、ガンで……」
肩を震わせて嗚咽するその背中を、ノースはそっと撫でてやる。
「椅子に……。紅茶を飲むかい?」
吉野は首を横に振って、「いえ、戻ります。遅くまですみませんでした。おやすみなさい、先生」と、大きな掌で顔を覆ったまま早足に部屋を出て、後ろ手で静かにドアを閉めた。
オーク材でできた重厚で上品な造りのそのドアを、しばらくの間ノースは片眉を上げてつまらなそうに睨みつけていた。そして深く溜息をつくと、おもむろにカップを取りあげて、冷めかけたぬるい紅茶を一気にごくごくとあおった。
自習室での学習指導の後、吉野はクリスの勉強をみるようになった。十時の消灯後、かっきり一時間だ。十一時になると、吉野は上級生の自習時間を終えたチューターの先生方とのミーティングに向かう。
まったく、何だって下級生の吉野がそんな遅くに消灯後のベッドから這いだして先生方の打ち合わせに参加しなきゃいけないんだ、とクリスはいつも憤慨している。でも、吉野は銀ボタンだから仕方がない。最上級生と同じ扱いになるからだ。
クリスが、「それまで起きていなければならないのなら、僕もつき合うよ」と言うと、じゃ、その間に勉強をみてやるよ。て、ことになった。
吉野に自習室に来るな、と言われたときは腹も立ったけれど、今はそれで良かったのだ、とクリスは思っている。
その吉野の言葉を、どう思う? と皆に尋ねると、フレデリックも、戻ってきたばかりのアレンも、おそらくは、彼らの中で一番状況を把握しているサウードさえも、口を揃えて同じ言葉を返してきた。
――きみが、クリス・ガストンで、ガストン一族はシティきっての銀行家の一族だからだよ。英国金融界の中枢にいるんだもの。だからきみや、きみの家族まで共犯者みたいに思われて、不当な扱いを受けるんじゃないか、ってヨシノは心配しているんだよ。
吉野はいつだって僕のことを考えてくれている。それが判っただけで、クリスはもう辛くはなかった。
新参者がお茶の準備をする、それはいたって当然の慣習だ。
だが、初めてのミーティングでノース先生の淹れたお茶は、あまりにも惨い、色水にも似た代物だった。他の二人の先生方は唖然として、互いの目と目を見合わせていた。その目は、とても同じ英国人とは思えない、と暗黙のうちに語り合っていた。自分がお茶を淹れるのが下手だという自覚がノースにもあったらしく、すんなりとミーティング中のお茶を淹れる係りは吉野に代った。
ミーティングの後、ノースの部屋で紅茶を淹れることも日課になった。吉野は自室に戻る前に、簡易キッチンでお湯を沸かし、彼のために就寝前のブランデー入りミルクティーを作る。
なかなか寝つけない性質なので、気分が休まるように寝る前にお茶を飲む習慣ができたのだが、自分で作るとあまりにも不味くてついブランデーを入れすぎてしまうのだ、とノースが情けない顔をして言ったからだ。旨いお茶を淹れるコツを教えてくれ、と。
結局、コツの伝授ではなく、吉野自身がお茶を淹れるためにノースの部屋に通っている。
「きみがナイトキャップ・ティー作ってくれるようになってから、本当によく眠れるんだ」
吉野がキッチンを使っている間に早々と着替えたナイトガウン姿のノースは、肘掛椅子にもたれて嬉しそうに声を弾ませる。
「すまないね、先にくつろがせてもらって。ときどき着替えも忘れて腰かけたまま寝てしまっているんだよ。優秀で生意気な生徒の指導をするのは、気が張るものなのかな――」
深く溜息をつくノースに、吉野は紅茶を差しだした。
「どうぞ、先生」
「ギルでいいよ。先生なんて言われるとむず痒くなる。僕なんかよりも、きみの方がずっと優秀なのに!」
眼鏡越しに吉野を見上げ、嫌味なく自然な笑顔を向けている。
「僕なんか、とんでもない!」と吉野は謙遜して俯く。
「金融工学の知識はプロ並みだっていうじゃないか。誰に指導を受けたの?」
「誰にも。独学です、先生」
吉野は口許に笑みを湛えたまま、両手を背中で組み合わせて答えた。
「まさか!」
渡されたカップを再度テーブルに置いて膝の上で両手を組むと、ノースは好奇心一杯の瞳でじっと吉野を見つめた。
「明日、発表されるのだがね、スコット先生が休職されるんだ」
「この時期にですか!」
今の時期は一年で一番重要な試験期間中なのだ。吉野は驚きのあまり目を見張っていた。
「五月いっぱいでね。希望通りのサナトリウムに移れることになったそうなんだ。彼の奥さん、ガンでね。末期なんだそうだ。きみにとても感謝していたよ。きみのおかげで、妻の最後の時をともにすごすことができるってね」
いつも皺だらけのスーツにアカデミック・ローブ、ボサボサ頭にくたびれた顔をした、覇気のない無口なスコット先生を吉野は思いだしていた。
そうだった、去年は違ったのだ。こうじゃなかった。彼の髪はいつも一部の隙もなく撫でつけられ、のりのきいたシャツに最新流行のネクタイをした、とてもお洒落な方だった。そして、ウイットに富む会話で進められる熱心な指導は、生徒からも、先生方からも絶大な信頼を勝ち得ていた。
目を大きく見開き、薄く口を開けて立ちつくしている吉野に、ノースは優しく微笑みながら続けた。
「きみのレポート分析の通りに投資を行って、諦めていた高級サナトリウムでの治療を受けるだけの費用を稼ぎだしたんだそうだよ。そこは家族も一緒にすごせる施設で、スコット先生も、」とここでノースは、はっとして言葉を止めた。
吉野の目から大粒の涙が溢れていた。伏せられた瞼からいくつも、いくつもの涙がこぼれ落ちる。長い指を広げて吉野はその顔を覆った。
たとえ、結果がどうであれ、自分に可能な最大限のことをしてあげることができるなら、残される者にとってはそれが救いになる。できることはすべてやったのだと、自身を納得させることができる。運命を受けいれ、神を呪うこともない――。
飛鳥も、父さんもだから乗り越えられた。俺だけだ、目を逸らし逃げていた俺だけが、弱虫のままなんだ……。
と、吉野はスコット先生の想いを我が身に重ね、自責の念に駆られていたのだ。
「良かった。本当に良かった――」
押し殺すようなくぐもった声が、吐息とともに漏れでていた。
「すみません、僕の母も、ガンで……」
肩を震わせて嗚咽するその背中を、ノースはそっと撫でてやる。
「椅子に……。紅茶を飲むかい?」
吉野は首を横に振って、「いえ、戻ります。遅くまですみませんでした。おやすみなさい、先生」と、大きな掌で顔を覆ったまま早足に部屋を出て、後ろ手で静かにドアを閉めた。
オーク材でできた重厚で上品な造りのそのドアを、しばらくの間ノースは片眉を上げてつまらなそうに睨みつけていた。そして深く溜息をつくと、おもむろにカップを取りあげて、冷めかけたぬるい紅茶を一気にごくごくとあおった。
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