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四章
変化1
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ヒースロー空港から直接エリオット校に戻ってきた吉野は、自室に入るなり荷物を放りだしベッドに身を投げた。ぼんやりと、校門をくぐってからこの部屋に帰りつくまでの道程を振り返る。
どうも、様子がおかしいのだ。たった三日間いなかっただけなのに、すれ違った生徒の誰もが目を逸らし、あるいは初めから顔を伏せてそそくさと立ち去っていた。そのくせ、離れたところからは自分を眺め、囁き合っている。
「俺、またなんかやらかしたのかな――」
吉野は他人事のように呟いた。心当たりがありすぎて、何が原因なのか絞りきれなかった。考えても仕方がないので、勢いよく跳ねおきて部屋をでた。
この時間なら、自習室か談話室だな、と吉野はひとまず、一階の談話室に向かった。閉じられたドア越しに賑やかな話し声や、笑い声が聞こえる。ドアを開け一歩足を踏みいれると、一瞬にして室内が水を打ったように静まり返った。気まずい沈黙におおわれた室内を、吉野はぐるりと見渡す。窓際のソファーにも、チェス盤の置かれたテーブルにも、テレビの前にもその姿がないことを確かめてから、「クリス、知らないか?」と誰にというでもなく訊ねた。返事はなかった。踵を返し部屋を出ようとするその背中に向かって、「たぶん、自習室だと思うよ」とおずおずとした細い声がかかる。
振り返り、「ありがとう」と礼を言い、吉野はバタンとドアを閉めた。だが自習室には向かわずに、自室のある最上階へ続く階段を上っていった。
「ヨシノ!」
消灯時間間際になってやっと部屋に戻ってきたクリスは、ベッドに腰かける吉野を見たとたん顔色を変えて走りより、ぎゅっと抱きついていた。
「おい、どうしたんだよ?」
背中にまわされた腕も、背も、小刻みに震えている。クリスは、声を殺して泣いているようだった。その背中をトントンと叩いてやりながら、「何があったんだ?」ともう一度優しく訊ねる。クリスは腕を緩め、そのままペタリと床の上に座りこむ。やはり泣きべそをかいている。
「せいと……。生徒会が……。きみを……。それで、こうちょうせんせ、が……」
何を言っているのかほとんど判らなかったが、吉野もクリスの横に座り「うん、それで?」と辛抱強く訊き返した。
ノックの音に、二人揃って跳ねあげるように顔を上げた。返事も待たずにドアを開けて入ってきたのは、寮長のベンジャミン・ハロルドだ。床に座りこんでいる二人に目をやると、ベンジャミンは厳しい顔をして、目線で吉野について来るようにと合図する。吉野はクリスの頭をくしゃっと撫でて立ちあがった。
バタバタと自室に戻る下級生たちに、「早くしろ、じきに点呼だぞ!」と睨みを効かせて声をかけているベンジャミンに一歩遅れて、吉野は黙ってつき従った。一番端にある寮長室まで行くと、「中で待っていて。先に点呼を済ませてくる」と、ベンジャミンは小さくため息を残してそそくさと立ち去った。
「困ったことになっているんだ」
戻ってくるなり、ベンジャミンは深々と息を継ぐ。
「みたいだな、なんとなくわかったよ。で、何? 俺のことなんだろ?」
吉野は苦笑いしながら、憂い顔の寮長を見あげる。
ベンジャミンはかろうじて平静を装っているようなぎこちない所作で、まず、紅茶を淹れる用意をしている。
「きみ、投資サークルを止める直前のレポートを覚えている?」
「『シェール市場の崩壊前夜と原油の長期的展望について』のことかな?」
「エリオットの父兄が、昨今の原油価格の下落はそのレポートのせいで、そのために甚大な被害を被ったって、」
吉野の哄笑に、ベンジャミンはあんぐりと口を開けて喋るのを止めた。
「馬鹿じゃないの、そいつ? 大損したのが俺のせいだって? たかだか学生の書いたレポートで原油市場を動かせるかよ!」
吉野は腹を捩って笑い続けている。
「その通りだよ! ただの卑劣な腹いせ行為さ! でも、きみ、ヘンリー・ソールスベリーと米国のフェイラーに会いに行っただろう? それが、この件に妙な信憑性を与えているんだよ!」
「どういうこと?」
笑うのを止め、吉野は眉間に皺を寄せた。
「つまり、米国石油会社トップのフェイラー社が原油価格を操作しているってことさ!」
「本当に、馬鹿なんだな……」
大真面目な顔で呟いた吉野に、ベンジャミンは、またも大きく溜息をついた。
「で、本当のところはどうなのさ、きみの米国行きの理由は?」
「俺、ヘンリーに頼んでアレンが学校に戻ってこられるように、あいつの祖父さんに頼んだんだ」
想定外の返事にベンジャミンはあっけに取られ、目を見開いて穴が開くほど吉野の顔を見つめた。
「アレンが米国に帰っていたのって、あいつの問題じゃなくて、ヘンリーと祖父さんが揉めてたからなんだよ。あいつはそのとばっちり。だから仲直りして、アレンが戻ってこられるようにしてくれ、って。おいベン、紅茶だしすぎだ。もう注げよ、苦くなる」
眉を寄せ、吉野はベンジャミンの手許を睨みつけている。ベンジャミンは、慌ててカップに紅茶を注ぎ入れると、吉野の手前に置き、自身も向いに腰かけた。
「揉めているって、例の件のことだね。非嫡出子を引き取って籍に入れたってっていう――。うん、でも判るよ。正妻側のフェイラー家としてみれば面白くない話だものね。それにしても彼の寛大さには頭が下がるよ。御病気のお父様に代わって、長男として、その子の面倒を見ているんだろう? 実の弟妹と変わらぬ愛情を注いでいるっていうじゃないか。なかなか真似できることじゃないよ!」
ヘンリーに対する憧れと尊敬をその瞳に宿し、ベンジャミンは一人でうん、うんと納得している。それから間をおいて、思い出したようにつけ加えた。
「……それで、アレンは?」
「週明けには戻ってくるって」
にっこりと笑う吉野に微笑み返して、ベンジャミンは、ほう、と脱力して、どさりとソファー深くに身をもたせかけた。
「それは良かった。和解できたんだね!」
「良くないよ、フェイラーと俺が組んで価格操作しているって疑われているんだろう? そんな中に戻って来るなんて――」
苦虫を噛み潰したような顔をしている吉野に、ベンジャミンは、もうあっけらかんと笑って言った。
「大丈夫さ、そんなちゃんとした理由があるんだもの!」
「……いい奴だな、お前」
「そうだろ?」
にこやかなベンジャミンに視線を据えて、吉野は渋い紅茶をゴクリと飲み下した。
お前じゃ、話にならない――。
「そういえば、クリスが、生徒会がどうとかって、」
「ああ、生徒会の連中から学校側に嘆願があったんだよ。きみのサークルに影響されて投資活動を始めた連中が、きみが急に辞めたことで困っているから、投資サークルを続けるようにきみを説得して欲しいって」
眉を上げ、苦笑しながら話すベンジャミンに、「それから?」と吉野は先を促した。
「それからって?」
「まだあるだろう?」
「これだけだよ」
ベンジャミンは不思議そうに首を傾げる。
この程度のことで、あれだけの反応?
とても納得いかない吉野は訝し気な視線を漂わせ、「もう、行ってもいいかな? と立ちあがる。
「お休み、ヨシノ。誤解が解けて良かったよ」
ベンジャミンは無邪気に笑ってドアを開け、吉野を見送った。
わずかな常夜灯の灯りに照らされた消灯後の仄暗い廊下を、足音を忍ばせて自室に戻った。
泣きつかれたのか、クリスはかすかに瞼を腫らせて眠っている。
「ヨシノ」
押し殺した囁き声に名前を呼ばれた。
「ヨシノ、殿下の部屋に来てくれ」
いつの間にか、イスハ―クが吉野の背後に立っていた。
どうも、様子がおかしいのだ。たった三日間いなかっただけなのに、すれ違った生徒の誰もが目を逸らし、あるいは初めから顔を伏せてそそくさと立ち去っていた。そのくせ、離れたところからは自分を眺め、囁き合っている。
「俺、またなんかやらかしたのかな――」
吉野は他人事のように呟いた。心当たりがありすぎて、何が原因なのか絞りきれなかった。考えても仕方がないので、勢いよく跳ねおきて部屋をでた。
この時間なら、自習室か談話室だな、と吉野はひとまず、一階の談話室に向かった。閉じられたドア越しに賑やかな話し声や、笑い声が聞こえる。ドアを開け一歩足を踏みいれると、一瞬にして室内が水を打ったように静まり返った。気まずい沈黙におおわれた室内を、吉野はぐるりと見渡す。窓際のソファーにも、チェス盤の置かれたテーブルにも、テレビの前にもその姿がないことを確かめてから、「クリス、知らないか?」と誰にというでもなく訊ねた。返事はなかった。踵を返し部屋を出ようとするその背中に向かって、「たぶん、自習室だと思うよ」とおずおずとした細い声がかかる。
振り返り、「ありがとう」と礼を言い、吉野はバタンとドアを閉めた。だが自習室には向かわずに、自室のある最上階へ続く階段を上っていった。
「ヨシノ!」
消灯時間間際になってやっと部屋に戻ってきたクリスは、ベッドに腰かける吉野を見たとたん顔色を変えて走りより、ぎゅっと抱きついていた。
「おい、どうしたんだよ?」
背中にまわされた腕も、背も、小刻みに震えている。クリスは、声を殺して泣いているようだった。その背中をトントンと叩いてやりながら、「何があったんだ?」ともう一度優しく訊ねる。クリスは腕を緩め、そのままペタリと床の上に座りこむ。やはり泣きべそをかいている。
「せいと……。生徒会が……。きみを……。それで、こうちょうせんせ、が……」
何を言っているのかほとんど判らなかったが、吉野もクリスの横に座り「うん、それで?」と辛抱強く訊き返した。
ノックの音に、二人揃って跳ねあげるように顔を上げた。返事も待たずにドアを開けて入ってきたのは、寮長のベンジャミン・ハロルドだ。床に座りこんでいる二人に目をやると、ベンジャミンは厳しい顔をして、目線で吉野について来るようにと合図する。吉野はクリスの頭をくしゃっと撫でて立ちあがった。
バタバタと自室に戻る下級生たちに、「早くしろ、じきに点呼だぞ!」と睨みを効かせて声をかけているベンジャミンに一歩遅れて、吉野は黙ってつき従った。一番端にある寮長室まで行くと、「中で待っていて。先に点呼を済ませてくる」と、ベンジャミンは小さくため息を残してそそくさと立ち去った。
「困ったことになっているんだ」
戻ってくるなり、ベンジャミンは深々と息を継ぐ。
「みたいだな、なんとなくわかったよ。で、何? 俺のことなんだろ?」
吉野は苦笑いしながら、憂い顔の寮長を見あげる。
ベンジャミンはかろうじて平静を装っているようなぎこちない所作で、まず、紅茶を淹れる用意をしている。
「きみ、投資サークルを止める直前のレポートを覚えている?」
「『シェール市場の崩壊前夜と原油の長期的展望について』のことかな?」
「エリオットの父兄が、昨今の原油価格の下落はそのレポートのせいで、そのために甚大な被害を被ったって、」
吉野の哄笑に、ベンジャミンはあんぐりと口を開けて喋るのを止めた。
「馬鹿じゃないの、そいつ? 大損したのが俺のせいだって? たかだか学生の書いたレポートで原油市場を動かせるかよ!」
吉野は腹を捩って笑い続けている。
「その通りだよ! ただの卑劣な腹いせ行為さ! でも、きみ、ヘンリー・ソールスベリーと米国のフェイラーに会いに行っただろう? それが、この件に妙な信憑性を与えているんだよ!」
「どういうこと?」
笑うのを止め、吉野は眉間に皺を寄せた。
「つまり、米国石油会社トップのフェイラー社が原油価格を操作しているってことさ!」
「本当に、馬鹿なんだな……」
大真面目な顔で呟いた吉野に、ベンジャミンは、またも大きく溜息をついた。
「で、本当のところはどうなのさ、きみの米国行きの理由は?」
「俺、ヘンリーに頼んでアレンが学校に戻ってこられるように、あいつの祖父さんに頼んだんだ」
想定外の返事にベンジャミンはあっけに取られ、目を見開いて穴が開くほど吉野の顔を見つめた。
「アレンが米国に帰っていたのって、あいつの問題じゃなくて、ヘンリーと祖父さんが揉めてたからなんだよ。あいつはそのとばっちり。だから仲直りして、アレンが戻ってこられるようにしてくれ、って。おいベン、紅茶だしすぎだ。もう注げよ、苦くなる」
眉を寄せ、吉野はベンジャミンの手許を睨みつけている。ベンジャミンは、慌ててカップに紅茶を注ぎ入れると、吉野の手前に置き、自身も向いに腰かけた。
「揉めているって、例の件のことだね。非嫡出子を引き取って籍に入れたってっていう――。うん、でも判るよ。正妻側のフェイラー家としてみれば面白くない話だものね。それにしても彼の寛大さには頭が下がるよ。御病気のお父様に代わって、長男として、その子の面倒を見ているんだろう? 実の弟妹と変わらぬ愛情を注いでいるっていうじゃないか。なかなか真似できることじゃないよ!」
ヘンリーに対する憧れと尊敬をその瞳に宿し、ベンジャミンは一人でうん、うんと納得している。それから間をおいて、思い出したようにつけ加えた。
「……それで、アレンは?」
「週明けには戻ってくるって」
にっこりと笑う吉野に微笑み返して、ベンジャミンは、ほう、と脱力して、どさりとソファー深くに身をもたせかけた。
「それは良かった。和解できたんだね!」
「良くないよ、フェイラーと俺が組んで価格操作しているって疑われているんだろう? そんな中に戻って来るなんて――」
苦虫を噛み潰したような顔をしている吉野に、ベンジャミンは、もうあっけらかんと笑って言った。
「大丈夫さ、そんなちゃんとした理由があるんだもの!」
「……いい奴だな、お前」
「そうだろ?」
にこやかなベンジャミンに視線を据えて、吉野は渋い紅茶をゴクリと飲み下した。
お前じゃ、話にならない――。
「そういえば、クリスが、生徒会がどうとかって、」
「ああ、生徒会の連中から学校側に嘆願があったんだよ。きみのサークルに影響されて投資活動を始めた連中が、きみが急に辞めたことで困っているから、投資サークルを続けるようにきみを説得して欲しいって」
眉を上げ、苦笑しながら話すベンジャミンに、「それから?」と吉野は先を促した。
「それからって?」
「まだあるだろう?」
「これだけだよ」
ベンジャミンは不思議そうに首を傾げる。
この程度のことで、あれだけの反応?
とても納得いかない吉野は訝し気な視線を漂わせ、「もう、行ってもいいかな? と立ちあがる。
「お休み、ヨシノ。誤解が解けて良かったよ」
ベンジャミンは無邪気に笑ってドアを開け、吉野を見送った。
わずかな常夜灯の灯りに照らされた消灯後の仄暗い廊下を、足音を忍ばせて自室に戻った。
泣きつかれたのか、クリスはかすかに瞼を腫らせて眠っている。
「ヨシノ」
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