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四章
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「きみの交渉相手は僕だったんだね」
帰りの飛行機の中で、リクライニングシートに腰かけたヘンリーは、すぐ横のソファーに横たわって眠っている吉野を眺めながら呟いていた。
僕は、最後のカードを切るつもりはなかったのに――。
吉野に渡された、アレンとキャロラインのサインの入った爵位継承権の放棄と相続放棄の書類について思い返し、ヘンリーは柔らかな視線を空に漂わす。
吉野はあの場で、それが条件の一つででもあるかのように、キャロラインとアレンの廃嫡を匂わせた。
ヘンリーは、父が生きている間に全てを終わらせるつもりだった。たとえサラという正当な相続人がいなかったとしても、父の血を引いていない二人を、ソールスベリーの一員として認める気などさらさらなかったのだから。だがその事実を公にすれば、二人が致命的なダメージを負うことも確かな事実として認識していた。血統を重んじる欧州社交界で、たとえ財力というバックがあろうと、父親の判らない子どもがどのような侮蔑的な扱いを受けることになるかは、火をみるよりも明らかだ。
それを吉野は二人に自ら相続放棄させることで、ヘンリーを思い留まらせようとした。これで我慢しろ、と言わんばかりに――。
以前の自分なら、けして妥協などしなかったのに。
エリオットでのコンサートの後、アレンに手を上げたヘンリーの前に飛鳥が腕を広げて立ち塞がった時からずっと、ヘンリーの心は揺らぎっぱなしだ。
なぜ、この兄弟がこうもアレンを庇うのかが判らなかった。二人には何の関係もないのに――。
なぜ、飛鳥が赤の他人のために涙を流し、傷ついているのはヘンリーの方だと言うのか理解できなかった。
だから、言われて初めて、アレンに興味を持った。
そしてなぜ、今までこの弟にこうも愛情を持つことができなかったのか、少しずつ霧が薄れていくように見えてきたのだ。
アレンが救いを求めて縋りつくように自分を見つめる度に、無性に腹が立った理由が――。
それは確かに、かつてのヘンリー自身の瞳だったからだ。
アレンの口から、尊敬と崇拝の賛辞が語られる度に、背を向けていた理由も……。
それはサラに対するヘンリー自身の言葉だった。
ただひたすらに愛情を求めるアレンの餓えた瞳を見るのが嫌だったのだ。自分自身を見ているようで――。
アレンの砕け散ったガラスのような心は、自分自身のそれと重なって見えた。彼の弱さが嫌いだった。それは、けして認めることは許されない自分自身の弱さだから。けして認めることはできない、自分自身の傷痕だからだ。
他人にも、親しい友人にも、いや、何よりも自分自身に対して、ずっと上手く隠しおおしてきたのに――。
なぜ、アスカには判ったのだろうか?
なぜ、アスカも、ヨシノも、こんなふうに他人の傷ついた心に寄り添うことができるのだろう? まるで、そうすることが当然だとでもいわんばかりに……。
きみの勝ちだ、吉野。家名を重んずるあまり、いつの間にか僕は、祖父と、ベンジャミン・フェイラーと同類の、くだらない人間になり果てていた。僕のこの安っぽい自尊心のために、アレンをこれ以上貶めるような真似をすれば、きっと飛鳥は僕を許してはくれないだろう。今の僕には、ソールスベリーの家名を汚されることよりも、飛鳥を失うことの方がよほど怖ろしい――。
静かな寝息を立てている吉野から目を逸らし、どこということもなく視線を漂わせながら、ヘンリーはふわりと笑みを湛えていた。
「何、ニヤニヤしているんだよ? 薄気味悪いな。何かいいことでもあったのか?」
むくりと起き上がりソファーの上に胡坐をかいた吉野が、鳶色の瞳を向けていた。
「ん? べつに何も。ヨシノ、そんなところで転がっていないで、眠るんならベッドで寝なさい」
「いいよここで。それより、腹が減った」
「またかい?」呆れたように笑うヘンリーに、「育ちざかりなんだよ」と吉野は欠伸しながら大きく伸びをする。
「指を見せて」
ヘンリーがついと立ち上がり、吉野の手を取った。
「血が出ている。いつの間に怪我したの?」
「ああ、これアレンのだよ。ほら」
吉野は自分の指先をぺろっと舐めて血を拭い去ると、もう一度ヘンリーにその手を向けてみせた。
「お前らみたいに血の気の多い奴らの傍には、刃物を置いておけないな」
「お前ら? 心外だな、僕はあんな馬鹿な真似はしないよ」
澄まして微笑んでいるヘンリーに、吉野は揶揄うような目を向けて続ける。
「よく言うよ。カレッジ・ホールの伝説の主が! エリオットでの初めての昼食会で一番に聞かされたんだぞ。ここが、ヘンリー・ソールスベリーが自分の腕を掻っさばいた場所だって。もう、一種の聖地だからな、あの場所のあんたの席は」
「そんなことになっているの?」
ヘンリーが朗らかな笑い声を立てて応える。
「ノブレス・オブリージュをまっとうすることこそ貴族の証、だっけ?」
「そんなこと言ったかな? 覚えていないよ」
クスクス笑っている口許から、ヘンリーはゆっくりと笑みを消す。そして、少し首を傾げて静かな瞳で吉野を見つめた。
「きみが、僕みたいな、背が高くて、金髪碧眼で、エリオット発音の男が嫌いなのは、ギルバート・オーウェンのせいかい?」
その名前に、吉野のまとう空気の質が一瞬の内に変わった。身動ぎひとつせず凍りついた彼に、ヘンリーは困ったように笑いかけ、「何か食べるものを持ってくるよ、それにコーヒーもね」と背を向けた。
帰りの飛行機の中で、リクライニングシートに腰かけたヘンリーは、すぐ横のソファーに横たわって眠っている吉野を眺めながら呟いていた。
僕は、最後のカードを切るつもりはなかったのに――。
吉野に渡された、アレンとキャロラインのサインの入った爵位継承権の放棄と相続放棄の書類について思い返し、ヘンリーは柔らかな視線を空に漂わす。
吉野はあの場で、それが条件の一つででもあるかのように、キャロラインとアレンの廃嫡を匂わせた。
ヘンリーは、父が生きている間に全てを終わらせるつもりだった。たとえサラという正当な相続人がいなかったとしても、父の血を引いていない二人を、ソールスベリーの一員として認める気などさらさらなかったのだから。だがその事実を公にすれば、二人が致命的なダメージを負うことも確かな事実として認識していた。血統を重んじる欧州社交界で、たとえ財力というバックがあろうと、父親の判らない子どもがどのような侮蔑的な扱いを受けることになるかは、火をみるよりも明らかだ。
それを吉野は二人に自ら相続放棄させることで、ヘンリーを思い留まらせようとした。これで我慢しろ、と言わんばかりに――。
以前の自分なら、けして妥協などしなかったのに。
エリオットでのコンサートの後、アレンに手を上げたヘンリーの前に飛鳥が腕を広げて立ち塞がった時からずっと、ヘンリーの心は揺らぎっぱなしだ。
なぜ、この兄弟がこうもアレンを庇うのかが判らなかった。二人には何の関係もないのに――。
なぜ、飛鳥が赤の他人のために涙を流し、傷ついているのはヘンリーの方だと言うのか理解できなかった。
だから、言われて初めて、アレンに興味を持った。
そしてなぜ、今までこの弟にこうも愛情を持つことができなかったのか、少しずつ霧が薄れていくように見えてきたのだ。
アレンが救いを求めて縋りつくように自分を見つめる度に、無性に腹が立った理由が――。
それは確かに、かつてのヘンリー自身の瞳だったからだ。
アレンの口から、尊敬と崇拝の賛辞が語られる度に、背を向けていた理由も……。
それはサラに対するヘンリー自身の言葉だった。
ただひたすらに愛情を求めるアレンの餓えた瞳を見るのが嫌だったのだ。自分自身を見ているようで――。
アレンの砕け散ったガラスのような心は、自分自身のそれと重なって見えた。彼の弱さが嫌いだった。それは、けして認めることは許されない自分自身の弱さだから。けして認めることはできない、自分自身の傷痕だからだ。
他人にも、親しい友人にも、いや、何よりも自分自身に対して、ずっと上手く隠しおおしてきたのに――。
なぜ、アスカには判ったのだろうか?
なぜ、アスカも、ヨシノも、こんなふうに他人の傷ついた心に寄り添うことができるのだろう? まるで、そうすることが当然だとでもいわんばかりに……。
きみの勝ちだ、吉野。家名を重んずるあまり、いつの間にか僕は、祖父と、ベンジャミン・フェイラーと同類の、くだらない人間になり果てていた。僕のこの安っぽい自尊心のために、アレンをこれ以上貶めるような真似をすれば、きっと飛鳥は僕を許してはくれないだろう。今の僕には、ソールスベリーの家名を汚されることよりも、飛鳥を失うことの方がよほど怖ろしい――。
静かな寝息を立てている吉野から目を逸らし、どこということもなく視線を漂わせながら、ヘンリーはふわりと笑みを湛えていた。
「何、ニヤニヤしているんだよ? 薄気味悪いな。何かいいことでもあったのか?」
むくりと起き上がりソファーの上に胡坐をかいた吉野が、鳶色の瞳を向けていた。
「ん? べつに何も。ヨシノ、そんなところで転がっていないで、眠るんならベッドで寝なさい」
「いいよここで。それより、腹が減った」
「またかい?」呆れたように笑うヘンリーに、「育ちざかりなんだよ」と吉野は欠伸しながら大きく伸びをする。
「指を見せて」
ヘンリーがついと立ち上がり、吉野の手を取った。
「血が出ている。いつの間に怪我したの?」
「ああ、これアレンのだよ。ほら」
吉野は自分の指先をぺろっと舐めて血を拭い去ると、もう一度ヘンリーにその手を向けてみせた。
「お前らみたいに血の気の多い奴らの傍には、刃物を置いておけないな」
「お前ら? 心外だな、僕はあんな馬鹿な真似はしないよ」
澄まして微笑んでいるヘンリーに、吉野は揶揄うような目を向けて続ける。
「よく言うよ。カレッジ・ホールの伝説の主が! エリオットでの初めての昼食会で一番に聞かされたんだぞ。ここが、ヘンリー・ソールスベリーが自分の腕を掻っさばいた場所だって。もう、一種の聖地だからな、あの場所のあんたの席は」
「そんなことになっているの?」
ヘンリーが朗らかな笑い声を立てて応える。
「ノブレス・オブリージュをまっとうすることこそ貴族の証、だっけ?」
「そんなこと言ったかな? 覚えていないよ」
クスクス笑っている口許から、ヘンリーはゆっくりと笑みを消す。そして、少し首を傾げて静かな瞳で吉野を見つめた。
「きみが、僕みたいな、背が高くて、金髪碧眼で、エリオット発音の男が嫌いなのは、ギルバート・オーウェンのせいかい?」
その名前に、吉野のまとう空気の質が一瞬の内に変わった。身動ぎひとつせず凍りついた彼に、ヘンリーは困ったように笑いかけ、「何か食べるものを持ってくるよ、それにコーヒーもね」と背を向けた。
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