胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
237 / 751
四章

しおりを挟む
「きみの交渉相手は僕だったんだね」
 帰りの飛行機の中で、リクライニングシートに腰かけたヘンリーは、すぐ横のソファーに横たわって眠っている吉野を眺めながら呟いていた。

 僕は、最後のカードを切るつもりはなかったのに――。

 吉野に渡された、アレンとキャロラインのサインの入った爵位継承権の放棄と相続放棄の書類について思い返し、ヘンリーは柔らかな視線を空に漂わす。

 吉野はあの場で、それが条件の一つででもあるかのように、キャロラインとアレンの廃嫡を匂わせた。

 ヘンリーは、父が生きている間に全てを終わらせるつもりだった。たとえサラという正当な相続人がいなかったとしても、父の血を引いていない二人を、ソールスベリーの一員として認める気などさらさらなかったのだから。だがその事実を公にすれば、二人が致命的なダメージを負うことも確かな事実として認識していた。血統を重んじる欧州社交界で、たとえ財力というバックがあろうと、父親の判らない子どもがどのような侮蔑的な扱いを受けることになるかは、火をみるよりも明らかだ。

 それを吉野は二人に自ら相続放棄させることで、ヘンリーを思い留まらせようとした。これで我慢しろ、と言わんばかりに――。

 以前の自分なら、けして妥協などしなかったのに。

 エリオットでのコンサートの後、アレンに手を上げたヘンリーの前に飛鳥が腕を広げて立ち塞がった時からずっと、ヘンリーの心は揺らぎっぱなしだ。

 なぜ、この兄弟がこうもアレンを庇うのかが判らなかった。二人には何の関係もないのに――。
 なぜ、飛鳥が赤の他人のために涙を流し、傷ついているのはヘンリーの方だと言うのか理解できなかった。
 だから、言われて初めて、アレンに興味を持った。
 そしてなぜ、今までこの弟にこうも愛情を持つことができなかったのか、少しずつ霧が薄れていくように見えてきたのだ。


 アレンが救いを求めて縋りつくように自分を見つめる度に、無性に腹が立った理由が――。
 それは確かに、かつてのヘンリー自身の瞳だったからだ。
 アレンの口から、尊敬と崇拝の賛辞が語られる度に、背を向けていた理由も……。
 それはサラに対するヘンリー自身の言葉だった。
 ただひたすらに愛情を求めるアレンの餓えた瞳を見るのが嫌だったのだ。自分自身を見ているようで――。

 アレンの砕け散ったガラスのような心は、自分自身のそれと重なって見えた。彼の弱さが嫌いだった。それは、けして認めることは許されない自分自身の弱さだから。けして認めることはできない、自分自身の傷痕だからだ。

 他人にも、親しい友人にも、いや、何よりも自分自身に対して、ずっと上手く隠しおおしてきたのに――。

 なぜ、アスカには判ったのだろうか? 
 なぜ、アスカも、ヨシノも、こんなふうに他人の傷ついた心に寄り添うことができるのだろう? まるで、そうすることが当然だとでもいわんばかりに……。

 きみの勝ちだ、吉野。家名を重んずるあまり、いつの間にか僕は、祖父と、ベンジャミン・フェイラーと同類の、くだらない人間になり果てていた。僕のこの安っぽい自尊心のために、アレンをこれ以上貶めるような真似をすれば、きっと飛鳥は僕を許してはくれないだろう。今の僕には、ソールスベリーの家名を汚されることよりも、飛鳥を失うことの方がよほど怖ろしい――。


 静かな寝息を立てている吉野から目を逸らし、どこということもなく視線を漂わせながら、ヘンリーはふわりと笑みを湛えていた。




「何、ニヤニヤしているんだよ? 薄気味悪いな。何かいいことでもあったのか?」
 むくりと起き上がりソファーの上に胡坐をかいた吉野が、鳶色の瞳を向けていた。

「ん? べつに何も。ヨシノ、そんなところで転がっていないで、眠るんならベッドで寝なさい」
「いいよここで。それより、腹が減った」
「またかい?」呆れたように笑うヘンリーに、「育ちざかりなんだよ」と吉野は欠伸しながら大きく伸びをする。


「指を見せて」
 ヘンリーがついと立ち上がり、吉野の手を取った。
「血が出ている。いつの間に怪我したの?」
「ああ、これアレンのだよ。ほら」
 吉野は自分の指先をぺろっと舐めて血を拭い去ると、もう一度ヘンリーにその手を向けてみせた。

「お前らみたいに血の気の多い奴らの傍には、刃物を置いておけないな」
「お前ら? 心外だな、僕はあんな馬鹿な真似はしないよ」

 澄まして微笑んでいるヘンリーに、吉野は揶揄うような目を向けて続ける。

「よく言うよ。カレッジ・ホールの伝説の主が! エリオットでの初めての昼食会で一番に聞かされたんだぞ。ここが、ヘンリー・ソールスベリーが自分の腕を掻っさばいた場所だって。もう、一種の聖地だからな、あの場所のあんたの席は」
「そんなことになっているの?」

 ヘンリーが朗らかな笑い声を立てて応える。

「ノブレス・オブリージュをまっとうすることこそ貴族の証、だっけ?」
「そんなこと言ったかな? 覚えていないよ」

 クスクス笑っている口許から、ヘンリーはゆっくりと笑みを消す。そして、少し首を傾げて静かな瞳で吉野を見つめた。

「きみが、僕みたいな、背が高くて、金髪碧眼で、エリオット発音アクセントの男が嫌いなのは、ギルバート・オーウェンのせいかい?」

 その名前に、吉野のまとう空気の質が一瞬の内に変わった。身動ぎひとつせず凍りついた彼に、ヘンリーは困ったように笑いかけ、「何か食べるものを持ってくるよ、それにコーヒーもね」と背を向けた。






しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...