胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
232 / 751
四章

しおりを挟む
 ケンブリッジにあるフラットのベランダに初夏の涼し気な風が通りぬけ、ガーデンテーブルの上に置かれたクリスタルのペーパーウェイトで押さえられた幾つもの書類をバタつかせている。

「OK」
 電話を切りながらガラス戸を開けベランダに戻って来たアーネストは、皮肉な笑みを浮かべて、五月の澄み渡る青空に顔を向けた。

「青って色は、目に染みるねぇ」

 しみじみとそう呟いた兄を、デヴィッドは心配そうに見つめている。

「誰から?」
「ヨシノだよ。目標達成したから、学校に外出許可を取ってくれって。明日の朝にはマーシュコートに向かうそうだ」
「目標達成って、まさか……」
「そのまさか。フェイラー社の株式3%集めたってさ」

 驚愕するデヴィッドの向かいに、苦笑しながら腰を下ろす。

「ヘンリーのお金、三十倍に増やしたってこと? 」
「いや、実際にはそこまでではないよ。あの時から比べると、フェイラー株がかなり下がっているからね。二十倍くらいかな。それでも驚異的なパフォーマンスだ。あの子の二つ名も伊達じゃないな」
「二つ名って?」

 デヴィッドは茫然と呟いた。アーネストは溜息混じりに説明する。

「ああ、お前は知らないんだったね。あの子、潰れかけていたパブを再建させて、黄金の指のミダスって呼ばれているんだよ。それにここ最近、名前は伏せられているけれど、エリオットの錬金術師だとか、預言者だとか言われているリーダーがいる投資サークルがSNSで騒がれているんだ。これ、あの子が校内で立ち上げたんだよ」
「ヨシノって、そんな才能があったの?」

 料理が上手くて、ゲームに強くて、いつも弓を引いているか泳いでいるか、お兄ちゃんっ子でクールな見かけよりもずっと甘えん坊の、そんな吉野しか、僕は知らない――。

 徐々に青ざめていく弟の様子に、アーネストは訝し気に眉を寄せる。

「数字に関しては、アスカの上をいくって話だからね。お前のいない間にいろいろあったんだよ。ほら、ポーカーの話をしただろ? ――デイヴ、どうしたんだい?」

 すっかり色をなくしたデヴィッドの顔を、アーネストは心配そうにのぞき込んだ。

「アーニー、どうしよう――。僕、きっとヘンリーに怒られるよ。……ちょっとだけ、ヨシノを懲らしめようと思ったんだよぉ。すぐに困って泣きついてくると思ってぇ。だからヘンリーから、ヨシノに伝えるように言われたこと、わざと言わなかった……」

 ぎゅっと目を瞑り、今にも泣きだしそうに膝の上で小刻みに震える拳を握り締めているデヴィッドの巻き毛に、アーネストは、ふわりと手を当てると慰めるように優しく微笑んだ。

「大丈夫、ヘンリーは怒ったりしないよ。終わり良ければ全て良し、っていうじゃないか」



 何日も続いた晴天もとうとう長年の習慣に負けたのか夜半から崩れ始め、朝方には馴染み深いどんよりとした曇天に替わっていた。

 吉野は通された応接間の窓から、霧雨の降りそそぐフォーマルガーデンを見おろしながら、晴れている時よりも、小雨や曇り空の方が落ち着くってんだから、俺もいい加減この国に毒されてきているんだな――。と、苦笑する。

「お待たせ」
 久しぶりに見るヘンリー・ソールスベリーは、以前よりも少し、やつれているようだった。そのためによりいっそう研ぎ澄まされた鋭角的な印象は、独特の威圧感を増幅させている。だが、変わらない優雅で滑らかな仕草がその威圧を上手く包み隠し、上品でもの柔らかな好青年に彼を形作っていた。
 ソファーの横に立ち、座るように促しているヘンリーをぎっと睨めつけ、吉野は押し殺した声で告げた。

「買いつけた株は、あんたの口座に戻したよ。俺は約束を守った。今度は、あんたが約束を守る番だ」
「約束?」

 ヘンリーは小首を傾げ、ソファーに腰かけると手ずからお茶を淹れ向いの席に置いた。

「何のこと?」
「お前、ふざけるなよ!」

 激昂する吉野を静かな瞳で見据え、くいっと顎をしゃくる。座るように、と有無を言わさぬ目線で命令していた。まずは吉野を従わせ、柔らかく微笑んで訊ねた。

「どんな約束なのか、教えてくれる?」



「なるほどね――。どうやら行き違いがあったようだね。僕は、きみが移動させた金で好きなだけフェイラー株を買うといい、足りなければ資金援助する、そう言ったんだよ。3%云々は、ものの例えだ。もともと僕だって、1%程度は持っているからね。メールでのやり取りのせいで誤解が生じてしまったんだね」

 ヘンリーは、憐れむような眼差しで吉野を見ると、くすくすと笑った。

「道理であんな無茶な投資を繰り返して、この短期間にこうも増やしたわけだ。きみがフェイラー株を3%も買いつけた時には、何の冗談かと思ったよ」

 眉を寄せ、黙ったまま聞いていた吉野は、吐き捨てるように呟いた。

「じゃ、俺は勝手に誤解して、馬鹿みたいにお前の掌で踊らされただけだって言うのかよ?」
「そんな事、言うわけないじゃないか」

 にっこりと笑い、ヘンリーはゆっくりとティーカップを口に運ぶ。

「パスポートは持ってきた?」

 学校外に出掛ける時には常に携帯している。吉野はしかめっ面のまま頷いた。

「じゃ、行こうか。ヒースローにフェイラーのプライベートジェットを待たせているんだ」
 目を瞠り、ポカンと呆けている吉野に微笑みかけ、「急ぐんだろう? だからわざわざ外出許可を取ってまで平日に来たんだろう? 今日行って、今日連れ帰ることは無理でも、せめて六月の創立祭と学年末試験には間に合わせたい、そんなところかな?」ヘンリーは立ちあがると、優美な仕草で右手を差しだした。

「約束云々は抜きにして、きみが買いつけてくれたフェイラー株は、僕にとって大切な切り札になり得るよ。だから、きみに感謝と敬意を表明するよ、きみの望む通りの行動でもってね」

 吉野は嫌々その手を握り返す。だが、すぐに冷ややかな瞳のままヘンリーを真っすぐに見つめて告げた。

「一時休戦だ。だけど俺、あんたのこと、もう信じないし許さないよ。あんたは、飛鳥を放り出して逃げたんだからな」






しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...