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四章
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「見事な庭ですね」
咲き乱れる色取り取りのチューリップを眺めながら、吉野は、地面に跪き、俯いて黙々と手入れをしている、ハンチング帽を被った庭師らしい男に声をかけた。
「ありがとう、気に入ってくれたかい?」
「ええ、チューリップだけなのに、これほど変化に富んで、色使いがピアノの小品のようにリズミカルで小気味いい。俺は好きだな」
吉野はポケットに手を突っ込んだまま、にこやかに微笑んで応える。
老人は立ちあがり、くすんだグレーのチェックのシャツや、長い濃緑のゴムブーツの中に無造作に突っ込んでいるコットンのパンツについた土をパンパンと払った。
「それは嬉しいことを言ってくれるね。花が好きなのかい?」
「いいえ、それほどでも。土いじりは好きですがね。英国人が花に注ぐ情熱を、野菜作りにわずかでもまわしてくれたら、俺のこの国での食事情も少しは改善されるのに、て思いますよ。……でも、ヘンリーの屋敷の庭は素晴らしかったな」
吉野が言葉を切ると、老人は懐かしそうに微笑んで遠くを見るように目を細めた。
「ソールスベリーかい? リチャードの庭だな。あの庭は彼が自らデザインしたんだ。彼は昔っから庭弄りが好きでね。昔、一度だけ訪れたことがあるよ。子供が生まれる前だったかな――。息子の方は、庭にはまったく興味がないそうじゃないか。誰があの庭の世話を?」
「優秀な庭師が健在ですよ」
吉野も、笑みを絶やさず応える。
「きみは、花よりも野菜に興味があるのかい?」
老人は頷く吉野の背に手を当てて、長身の背を丸めるようにして彼の顔を覗きこむと、悪戯な瞳を輝かせて茶目っ気たっぷりに笑い、庭園の端を指さした。
「それなら、うちの菜園に案内しよう。どうやら、英国野菜の名誉挽回の使命は私の腕にかかっているらしい。ここでの食卓にのる野菜は、私が育てているんだよ。英国の野菜も捨てたものじゃないってことを判ってもらわねば」
「それは嬉しいな。ぜひ教えて下さい」
吉野の屈託のない笑い声が響く。
「銀ボタンの農夫に逆戻りだ。庭師と何の話をしているんだろうね、ヨシノは」
ティールームの窓辺から庭を見おろしていたフレデリックが、テーブルを振りかえると苦笑して告げた。何に驚いたのか、クリスが目を見張り、青ざめて手にしていたティーカップをガチャンとテーブルに置くと、駆け寄って窓ガラスに張りついた。
「笑っている――」
「楽しそうだね。ヨシノが畑仕事を始めた時には、さすがに僕も何て言えばいいのか判らなかったけど……。庭師となら話も弾むんだろうな」
「何を話しているんだろう――」
「花や植物の話じゃないの?」
ひとりテーブルに残されたサウードが、静かに紅茶を飲みながら応えた。
「そうかもしれないけれど――」
クリスは見てはいけないものでも見てしまったかのように、ぎゅっと目を瞑って、言い訳でもするように首を振って――。
「あのお祖父さまが、笑っておられるんだよ!」
え! と、フレデリックは慌てて窓の下にもう一度目をやった。
「あの庭師――。きみのお祖父さま? 昨日お会いした時にはもっと――」
「ガーデニングがご趣味なんだ。庭にいる時には滅多なことで声をかけるなって。邪魔されるのをとても嫌がられるんだよ」
ふたりして窓ガラスに張りついているその肩越しに、サウードも重なるように覗きこむ。
「へぇー。シティの顔役、金融界の大御所とは思えない姿だね。ここから見ていると、お祖父ちゃんと孫って感じだ」
本物の孫の前で失言したと思ったのか、サウードはすぐにあっ、と口を引いて「失礼」と謝った。
クリスは首を横に振って、「僕も、そう思うよ」と苦笑いしながら溜息をつく。遠目にも愉しげに語り合っているように見える、鮮やかな庭に溶けこむ濃緑のスーツを着た吉野と祖父に、羨ましそうな視線を向けている。
「ヨシノがいつものTシャツにジーンズ姿じゃなくて良かったよ。お祖父さまは身なりにはとてもうるさい方だから」
「――庭師をしている時は、庭師の服装をってこと?」
訝しげに訊きかえしたフレデリックの言葉に、皆、吹きだした。
「そうだね、客人は客人らしく――、かな」
「きっとヨシノ、今はエリオット発音だね」
顔を見合わせて笑いあった後、ふっと真顔になりサウードはもう一度眼下に広がる庭を見渡した。談笑しながら歩き去っていく吉野と老主人をじっと目で追った。
「クリス、申し訳ないけれど、僕は予定よりも少し早く退出させてもらうことになりそうだよ。国から連絡があってね、米国に行くことになりそうなんだ」
「え! いつなの?」
「一週間後、フェイラー家のパーティーに出席する」
ポカンと口を開いて固まったクリスとフレデリックをサウードは静かな漆黒の瞳で順番に見つめ、すっと瞼を伏せて言った。
「ヨシノは、一緒に来てくれるかな――」
一斉に窓の外に目を向けた。
すでに人ひとり見当たらない広い庭園には、鮮やかに群れ咲くチューリップだけが、微かに風に揺れていた。
咲き乱れる色取り取りのチューリップを眺めながら、吉野は、地面に跪き、俯いて黙々と手入れをしている、ハンチング帽を被った庭師らしい男に声をかけた。
「ありがとう、気に入ってくれたかい?」
「ええ、チューリップだけなのに、これほど変化に富んで、色使いがピアノの小品のようにリズミカルで小気味いい。俺は好きだな」
吉野はポケットに手を突っ込んだまま、にこやかに微笑んで応える。
老人は立ちあがり、くすんだグレーのチェックのシャツや、長い濃緑のゴムブーツの中に無造作に突っ込んでいるコットンのパンツについた土をパンパンと払った。
「それは嬉しいことを言ってくれるね。花が好きなのかい?」
「いいえ、それほどでも。土いじりは好きですがね。英国人が花に注ぐ情熱を、野菜作りにわずかでもまわしてくれたら、俺のこの国での食事情も少しは改善されるのに、て思いますよ。……でも、ヘンリーの屋敷の庭は素晴らしかったな」
吉野が言葉を切ると、老人は懐かしそうに微笑んで遠くを見るように目を細めた。
「ソールスベリーかい? リチャードの庭だな。あの庭は彼が自らデザインしたんだ。彼は昔っから庭弄りが好きでね。昔、一度だけ訪れたことがあるよ。子供が生まれる前だったかな――。息子の方は、庭にはまったく興味がないそうじゃないか。誰があの庭の世話を?」
「優秀な庭師が健在ですよ」
吉野も、笑みを絶やさず応える。
「きみは、花よりも野菜に興味があるのかい?」
老人は頷く吉野の背に手を当てて、長身の背を丸めるようにして彼の顔を覗きこむと、悪戯な瞳を輝かせて茶目っ気たっぷりに笑い、庭園の端を指さした。
「それなら、うちの菜園に案内しよう。どうやら、英国野菜の名誉挽回の使命は私の腕にかかっているらしい。ここでの食卓にのる野菜は、私が育てているんだよ。英国の野菜も捨てたものじゃないってことを判ってもらわねば」
「それは嬉しいな。ぜひ教えて下さい」
吉野の屈託のない笑い声が響く。
「銀ボタンの農夫に逆戻りだ。庭師と何の話をしているんだろうね、ヨシノは」
ティールームの窓辺から庭を見おろしていたフレデリックが、テーブルを振りかえると苦笑して告げた。何に驚いたのか、クリスが目を見張り、青ざめて手にしていたティーカップをガチャンとテーブルに置くと、駆け寄って窓ガラスに張りついた。
「笑っている――」
「楽しそうだね。ヨシノが畑仕事を始めた時には、さすがに僕も何て言えばいいのか判らなかったけど……。庭師となら話も弾むんだろうな」
「何を話しているんだろう――」
「花や植物の話じゃないの?」
ひとりテーブルに残されたサウードが、静かに紅茶を飲みながら応えた。
「そうかもしれないけれど――」
クリスは見てはいけないものでも見てしまったかのように、ぎゅっと目を瞑って、言い訳でもするように首を振って――。
「あのお祖父さまが、笑っておられるんだよ!」
え! と、フレデリックは慌てて窓の下にもう一度目をやった。
「あの庭師――。きみのお祖父さま? 昨日お会いした時にはもっと――」
「ガーデニングがご趣味なんだ。庭にいる時には滅多なことで声をかけるなって。邪魔されるのをとても嫌がられるんだよ」
ふたりして窓ガラスに張りついているその肩越しに、サウードも重なるように覗きこむ。
「へぇー。シティの顔役、金融界の大御所とは思えない姿だね。ここから見ていると、お祖父ちゃんと孫って感じだ」
本物の孫の前で失言したと思ったのか、サウードはすぐにあっ、と口を引いて「失礼」と謝った。
クリスは首を横に振って、「僕も、そう思うよ」と苦笑いしながら溜息をつく。遠目にも愉しげに語り合っているように見える、鮮やかな庭に溶けこむ濃緑のスーツを着た吉野と祖父に、羨ましそうな視線を向けている。
「ヨシノがいつものTシャツにジーンズ姿じゃなくて良かったよ。お祖父さまは身なりにはとてもうるさい方だから」
「――庭師をしている時は、庭師の服装をってこと?」
訝しげに訊きかえしたフレデリックの言葉に、皆、吹きだした。
「そうだね、客人は客人らしく――、かな」
「きっとヨシノ、今はエリオット発音だね」
顔を見合わせて笑いあった後、ふっと真顔になりサウードはもう一度眼下に広がる庭を見渡した。談笑しながら歩き去っていく吉野と老主人をじっと目で追った。
「クリス、申し訳ないけれど、僕は予定よりも少し早く退出させてもらうことになりそうだよ。国から連絡があってね、米国に行くことになりそうなんだ」
「え! いつなの?」
「一週間後、フェイラー家のパーティーに出席する」
ポカンと口を開いて固まったクリスとフレデリックをサウードは静かな漆黒の瞳で順番に見つめ、すっと瞼を伏せて言った。
「ヨシノは、一緒に来てくれるかな――」
一斉に窓の外に目を向けた。
すでに人ひとり見当たらない広い庭園には、鮮やかに群れ咲くチューリップだけが、微かに風に揺れていた。
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