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四章
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「今日はヨシノがいるから、見学者が多いね」
スラックスの裾を捲りあげ、課外授業中のプールサイドにサウードとその背後に続くイスハ―クを案内しながら、「すぐに暑くなってくるから、脱いでおいた方がいいよ」と、クリスはキングススカラーの象徴であるローブを脱ぎ、丁寧に畳んで腕にかける。
壁際にあるベンチまでくると、一学年生が一斉に立ちあがって席を譲る。頬笑んで礼を言い腰かけると、コースを泳いでいるはずの吉野を探した。
「ヨシノは、水の中にいる時が一番生き生きとしているね」
異質な制服姿の二人を遠巻きにして見ている水泳部員や、隅に固まるように集まって見学している一学年生の、どこか遠慮がちな、けれど好奇心を隠しきれない視線などまったく意に介しない様子で、サウードとクリスは水中から顔をあげてこちらを向いた吉野に、にこやかに手を振る。
「木の上に座っている時は、猛禽類が羽を休めているみたいだ、と思っていたけれど、こうして泳いでいるところを見ていると、あの魚は陸にあがって本当に呼吸ができるのか、と心配になってしまうよ」
再び泳ぎ始めた吉野を目で追いながら小さく溜息をつくサウードの言葉で、密閉された屋内にクリスのけたたましい笑い声が響きわたる。
「そこ! うるさいぞ!」
「すみません! ――ヨシノが眠っている時には、お父様の飼っているホワイト・タイガーが寛いでいるみたいだっ、て言っていたね。きみには、彼が人間には見えないの? ホワイト・タイガーやきみのペットの鷹にするみたいに、ヨシノに首輪をつけておきたいってこと?」
プールサイドに立つ上級生に注意され、慌てて口を押さえ小さくなりながらも、すぐにクリスはサウードの耳許に顔を寄せ、笑いを堪えながら喋り続ける。
「まさか……。そんなつもりはないよ。ただ、彼は野生の生き物みたいに、いつも自由に思えるからさ。僕には、お父さまや従兄弟たちのように虎やライオンの猛獣を飼うよりも、彼に投資して、彼の見ている世界をその横で共に眺めることの方がずっと楽しめるし有意義だと思えてね。それに、あの彼に首輪だのリードだのつけて束縛しようとは思わないよ」
苦笑するサウードに、クリスは笑いを収めて囁いた。
「でもヨシノはまえに、自分から繋がれている糸を切ることはしない。糸に結ばれている方が凧は高く上がるからって、言っていたよ」
「――誰が彼をこの地上に繋いでいるの?」
「お兄さん。――たぶん」
真面目な瞳で見つめ返したサウードに、クリスは自信なさげに小首を傾げた。
「それでかな……。だから彼、僕にBコインを勧めたのかな。じきに取引量が急激に拡大されてBコインの価格が一気に上昇を始めるって。お兄さんが、マイニング専用の高性能のハードを開発されているんだね、きっと。彼が、根拠もなしに巨額の投資を勧めるはずがないもの」
「マイニングって?」
「え、と、そもそも仮想通貨っていうのはね――、イスハ―ク」
背後に控えるイスハ―クを呼びクリスに説明するように告げると、サウードは水中に立ったまま指導講師と談笑している吉野に視線を戻した。
「俺、経済学のレポート、『風説の流布の及ぼす市場原理への影響について』にテーマを変えようかな」
ハイ・ストリートに面した路上のカフェテラスで、のんびりとした調子でくつろぎながら、吉野はコーヒーを片手にクスクスと笑う。
「ごめん。完全に僕の勘違いだったんだね」
恥ずかしそうに肩をすくめるサウードに、吉野は首を横に振る。
「あながち、外れてもないよ。Bコインのマイニングに取り組んでいたのは、飛鳥じゃなくて、コズモスのプログラマーだからな。本当はさ、前に言ったみたいな信用度ゼロの危ない投資なんかじゃないからな、Bコインは。透明性が高くてこれから発展していく市場だよ。だから勧めたんだ」
「コズモスがBコインに? 」
驚いて声を上げたクリスに、吉野は、しぃーと口の前に指を立てる。
「個人的にだよ。趣味みたいなもんで」
吉野は、サウードに顔を寄せ耳許で囁いた。
「でも、俺、マイニングはしないよ。初期の頃ならともかく、今はもう参加者が増えすぎてコストとリターンの割りが合わないんだ。コズモスのそいつも、初期の頃には触っていたけれど、もう辞めたって言ってた」
サラとトーマスのちょっとしたお遊びだった、と言う訳にもいかず、吉野は言葉を濁しながら慎重に辺りを見回し、小さく溜息をつく。
プールサイドでのクリスとサウードの会話から、杜月飛鳥が仮想通貨Bコインのマイニング専用パソコンを開発している。取引量の拡大と更なるBコイン価格上昇を見込んでサウード・M・アル=マルズークが、一千万ドルを投資した、という噂が校内にあっという間に広まり、間を置かずしてSNSでも拡散され始めた。価格高騰の始まりだ。ついで、オイルマネーのBコイン流入、のタイトルで投資サイトで煽られ始め、一カ月たった今でもBコインは天井知らずの勢いで値上がりを続けている。
「でも、ヘンリーも、これからのBコインマイニングには、専用ハードウェアが不可欠だって言っていたよ」
吉野は声を高めて言うと、テーブルを指先でトントンと叩いた。その音に釣られるように、サウードがテーブルに視線を下ろす。と、白いガーデンテーブルに半透明のメモ用紙サイズのTS画面が映し出されている。そこには一言、『売るぞ』と書かれている。目線だけ上げて吉野を見ると、当の本人は素知らぬ顔をして、もうクリスと別の話を始めている。
「ヨシノ!」
「ああ、先輩、ここですよ」
にこやかに腕を上げ合図を送る吉野の、久しぶりに聞くエリオット発音に、クリスはサウードと顔を見合わせ、笑い出す。トントンとテーブルが叩かれる。
『笑うなよ。後ろの二人組、プレスの人間だ』
「お待たせ、ヨシノ。遅れたお詫びにここは僕が奢るよ」
「それはありがとうございます、先輩」
急いで来たのか息を弾ませているベンジャミンのために椅子を引きながら、吉野は礼儀正しく礼を言う。
「なんだ、ヨシノ、どうしたんだい? 気持ちが悪いな、きみがそんな殊勝な態度を取るなんて」
揶揄うような口調で返しながら、ベンジャミンは満更でもない様子で優雅に腰かけ、しんと黙りこんだままのクリスやサウードにかまうことなく、吉野に張りつくように早口で喋り始める。
サーブされたアフタヌーンティーセットのサンドイッチやスコーンを黙々と口にしながら、退屈そうにキョロキョロと辺りを見回す落ちつきのないクリスとは対照的に、サウードは音もたてず、まるでそこに存在しないかのように静かに紅茶を飲んでいる。
やがて立ち上がったベンジャミンは、吉野と握手を交わし、「じゃ、きみ達も遅くならないうちに寮に戻るんだよ」と一言、言い残して足取りも軽く立ち去った。
彼の姿が見えなくなると、吉野は頬杖をついてサウードの顔を覗きこむように見つめ、「呆れた? 俺、お前が思っているような誇り高い猛獣じゃないよ」と揶揄うように、にっと笑う。
「強いていうなら、虎の威を借る狐だな」
自嘲的な言葉とは裏腹に、吉野は明るい瞳で遠くを見るように表情をぼやかし、楽し気な口調で続ける。
「俺、あいつに一度だって勝てたことがないんだ。だから、なりふりかまっていられない」
「あいつって? ハロルド先輩?」
クリスがケーキを頬張ったまま、もごもごと口を挟む。
「ヘンリー・ソールスベリー」
ふっと息をついて目を伏せ、吉野は、「でも、最後に勝てさえすれば、その途中でどれだけ惨めな負けを重ねようといいんだ。俺、自分を信じているしな、絶対に勝ってやる、って」と、ぎゅっ、と左手で自分の右手首を包みこむように握りしめていた。
スラックスの裾を捲りあげ、課外授業中のプールサイドにサウードとその背後に続くイスハ―クを案内しながら、「すぐに暑くなってくるから、脱いでおいた方がいいよ」と、クリスはキングススカラーの象徴であるローブを脱ぎ、丁寧に畳んで腕にかける。
壁際にあるベンチまでくると、一学年生が一斉に立ちあがって席を譲る。頬笑んで礼を言い腰かけると、コースを泳いでいるはずの吉野を探した。
「ヨシノは、水の中にいる時が一番生き生きとしているね」
異質な制服姿の二人を遠巻きにして見ている水泳部員や、隅に固まるように集まって見学している一学年生の、どこか遠慮がちな、けれど好奇心を隠しきれない視線などまったく意に介しない様子で、サウードとクリスは水中から顔をあげてこちらを向いた吉野に、にこやかに手を振る。
「木の上に座っている時は、猛禽類が羽を休めているみたいだ、と思っていたけれど、こうして泳いでいるところを見ていると、あの魚は陸にあがって本当に呼吸ができるのか、と心配になってしまうよ」
再び泳ぎ始めた吉野を目で追いながら小さく溜息をつくサウードの言葉で、密閉された屋内にクリスのけたたましい笑い声が響きわたる。
「そこ! うるさいぞ!」
「すみません! ――ヨシノが眠っている時には、お父様の飼っているホワイト・タイガーが寛いでいるみたいだっ、て言っていたね。きみには、彼が人間には見えないの? ホワイト・タイガーやきみのペットの鷹にするみたいに、ヨシノに首輪をつけておきたいってこと?」
プールサイドに立つ上級生に注意され、慌てて口を押さえ小さくなりながらも、すぐにクリスはサウードの耳許に顔を寄せ、笑いを堪えながら喋り続ける。
「まさか……。そんなつもりはないよ。ただ、彼は野生の生き物みたいに、いつも自由に思えるからさ。僕には、お父さまや従兄弟たちのように虎やライオンの猛獣を飼うよりも、彼に投資して、彼の見ている世界をその横で共に眺めることの方がずっと楽しめるし有意義だと思えてね。それに、あの彼に首輪だのリードだのつけて束縛しようとは思わないよ」
苦笑するサウードに、クリスは笑いを収めて囁いた。
「でもヨシノはまえに、自分から繋がれている糸を切ることはしない。糸に結ばれている方が凧は高く上がるからって、言っていたよ」
「――誰が彼をこの地上に繋いでいるの?」
「お兄さん。――たぶん」
真面目な瞳で見つめ返したサウードに、クリスは自信なさげに小首を傾げた。
「それでかな……。だから彼、僕にBコインを勧めたのかな。じきに取引量が急激に拡大されてBコインの価格が一気に上昇を始めるって。お兄さんが、マイニング専用の高性能のハードを開発されているんだね、きっと。彼が、根拠もなしに巨額の投資を勧めるはずがないもの」
「マイニングって?」
「え、と、そもそも仮想通貨っていうのはね――、イスハ―ク」
背後に控えるイスハ―クを呼びクリスに説明するように告げると、サウードは水中に立ったまま指導講師と談笑している吉野に視線を戻した。
「俺、経済学のレポート、『風説の流布の及ぼす市場原理への影響について』にテーマを変えようかな」
ハイ・ストリートに面した路上のカフェテラスで、のんびりとした調子でくつろぎながら、吉野はコーヒーを片手にクスクスと笑う。
「ごめん。完全に僕の勘違いだったんだね」
恥ずかしそうに肩をすくめるサウードに、吉野は首を横に振る。
「あながち、外れてもないよ。Bコインのマイニングに取り組んでいたのは、飛鳥じゃなくて、コズモスのプログラマーだからな。本当はさ、前に言ったみたいな信用度ゼロの危ない投資なんかじゃないからな、Bコインは。透明性が高くてこれから発展していく市場だよ。だから勧めたんだ」
「コズモスがBコインに? 」
驚いて声を上げたクリスに、吉野は、しぃーと口の前に指を立てる。
「個人的にだよ。趣味みたいなもんで」
吉野は、サウードに顔を寄せ耳許で囁いた。
「でも、俺、マイニングはしないよ。初期の頃ならともかく、今はもう参加者が増えすぎてコストとリターンの割りが合わないんだ。コズモスのそいつも、初期の頃には触っていたけれど、もう辞めたって言ってた」
サラとトーマスのちょっとしたお遊びだった、と言う訳にもいかず、吉野は言葉を濁しながら慎重に辺りを見回し、小さく溜息をつく。
プールサイドでのクリスとサウードの会話から、杜月飛鳥が仮想通貨Bコインのマイニング専用パソコンを開発している。取引量の拡大と更なるBコイン価格上昇を見込んでサウード・M・アル=マルズークが、一千万ドルを投資した、という噂が校内にあっという間に広まり、間を置かずしてSNSでも拡散され始めた。価格高騰の始まりだ。ついで、オイルマネーのBコイン流入、のタイトルで投資サイトで煽られ始め、一カ月たった今でもBコインは天井知らずの勢いで値上がりを続けている。
「でも、ヘンリーも、これからのBコインマイニングには、専用ハードウェアが不可欠だって言っていたよ」
吉野は声を高めて言うと、テーブルを指先でトントンと叩いた。その音に釣られるように、サウードがテーブルに視線を下ろす。と、白いガーデンテーブルに半透明のメモ用紙サイズのTS画面が映し出されている。そこには一言、『売るぞ』と書かれている。目線だけ上げて吉野を見ると、当の本人は素知らぬ顔をして、もうクリスと別の話を始めている。
「ヨシノ!」
「ああ、先輩、ここですよ」
にこやかに腕を上げ合図を送る吉野の、久しぶりに聞くエリオット発音に、クリスはサウードと顔を見合わせ、笑い出す。トントンとテーブルが叩かれる。
『笑うなよ。後ろの二人組、プレスの人間だ』
「お待たせ、ヨシノ。遅れたお詫びにここは僕が奢るよ」
「それはありがとうございます、先輩」
急いで来たのか息を弾ませているベンジャミンのために椅子を引きながら、吉野は礼儀正しく礼を言う。
「なんだ、ヨシノ、どうしたんだい? 気持ちが悪いな、きみがそんな殊勝な態度を取るなんて」
揶揄うような口調で返しながら、ベンジャミンは満更でもない様子で優雅に腰かけ、しんと黙りこんだままのクリスやサウードにかまうことなく、吉野に張りつくように早口で喋り始める。
サーブされたアフタヌーンティーセットのサンドイッチやスコーンを黙々と口にしながら、退屈そうにキョロキョロと辺りを見回す落ちつきのないクリスとは対照的に、サウードは音もたてず、まるでそこに存在しないかのように静かに紅茶を飲んでいる。
やがて立ち上がったベンジャミンは、吉野と握手を交わし、「じゃ、きみ達も遅くならないうちに寮に戻るんだよ」と一言、言い残して足取りも軽く立ち去った。
彼の姿が見えなくなると、吉野は頬杖をついてサウードの顔を覗きこむように見つめ、「呆れた? 俺、お前が思っているような誇り高い猛獣じゃないよ」と揶揄うように、にっと笑う。
「強いていうなら、虎の威を借る狐だな」
自嘲的な言葉とは裏腹に、吉野は明るい瞳で遠くを見るように表情をぼやかし、楽し気な口調で続ける。
「俺、あいつに一度だって勝てたことがないんだ。だから、なりふりかまっていられない」
「あいつって? ハロルド先輩?」
クリスがケーキを頬張ったまま、もごもごと口を挟む。
「ヘンリー・ソールスベリー」
ふっと息をついて目を伏せ、吉野は、「でも、最後に勝てさえすれば、その途中でどれだけ惨めな負けを重ねようといいんだ。俺、自分を信じているしな、絶対に勝ってやる、って」と、ぎゅっ、と左手で自分の右手首を包みこむように握りしめていた。
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