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四章
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『ヨシノ、ハーフタームはこっちに来るよね』
九日間の休暇を週末に控えた月曜日、デヴィッドからの切羽詰まった電話が鳴った。
「クリスん家に招待されているんだ」
『アスカちゃん、ずっと寝てばかりいるかと思ったら、今度は、眠らないし、食べないんだよ。もう、どうしたらいいのか判らなくって――』
涙ぐんだ鼻声に、吉野は眉をしかめる。
「ブドウ糖は、切らしていない? コーヒーや、紅茶は飲んでいるだろ?」
肯定の返事に安堵して、小さく息をついだ。
「アルに言って、日本からブドウ糖が切れないように送ってもらって。それから紅茶に睡眠薬を混ぜて、無理にでも寝させて。俺の部屋の机の引き出しに入っている。――心配いらない。薬剤証明書もあるよ。父さんはずっと、そうしていたから。足りないようなら、父さんに言えば薬も送ってくれるはずだ」
冷静な声で説明しながら、ぎりっと歯軋りする。
規則でがんじがらめのこの学校は、保護者からの正式な申し入れがなければ、学校のあるこの街を離れる外出は禁止されている。月四回、ロンドンでの弓道の稽古は、大会での出場経験や、入賞経験があってこその特別許可がでているからだ。
せめて、昨日言ってくれれば、なんとか行けたのに――。
「なんとか後五日間もたせて」
電話を切ると、深く溜息がついてでた。
何をやっているんだよ、あいつは! 俺には任せられないんじゃなかったのかよ!
吉野はイライラと拳を握りしめ、閉めきった窓から中庭を、その中庭の四方を囲む寮の石壁を、その上方の閉じ込められた薄暗い澱んだ空を睨めつけた。
一日一日をほぞを噛む思いでやりすごし、金曜日の授業が終わった時には、駐車場には迎えの車が待っていた。
「ごめんな、クリス。また、約束を守れなくて」
「仕方ないよ――。お兄さん、お大事にね」
心から心配している様子と、残念そうな、がっかりした様子の入り交じったクリスの眼差しに、吉野は申し訳なさそうに謝るしかない。
「イースターには、きっと――」
「いいんだ、気にしないで」
クリスは微笑んで手を振り、早く行ってあげて、と吉野を促す。
寂しそうに車を見送るクリスの肩をフレデリックが、とんっと叩いた。
「きみのことだから、もっと駄々をこねるかと思ったのに。これで何度目だよ? 約束を反故にされたの……」
「いいんだよ。お兄さんがご病気なんだもの」
クリスは、本当に心配そうに表情を曇らせている。
「それに、僕は納得できたからいいんだ。TSの会見でヨシノのお兄さんを初めてちゃんと見ることができたときに、判ったんだ」
思い出しながら、目を細めて微かに笑みを浮かべる。
「あんな綺麗な、澄んだ冬の空気みたいに透明なひとが本当にいるなんて――。驚きすぎて息が止まりそうだったよ。ヨシノがアレンを庇うのがずっと不思議だったけれど、一目で納得できた。顔形はまるで違うのに、あの色の無い感じが似ているよね、アレンとヨシノのお兄さん」
「えー、そうかなぁ?」
フレデリックは、自分の中の、歩くのが下手で、平凡で、印象の薄い飛鳥を思い出し、訝しげに首を振った。でも、映像で見た会見では、確かにクリスの言う事も判らないでもなくて、以前偶然に出逢った飛鳥とは別人のような外見に驚かされた。
あの会見以来、杜月飛鳥は、『東洋の貴公子』と呼ばれ、さすがはエリオットと肩を並べるウイスタンの卒業生よ、と、その気品に溢れた堂々とした対応を誉めそやされ、ヘンリー・ソールスベリーと肩を並べる人気ぶりだ。
「ヨシノが命に替えても守りたいと思っているお兄さんに、ほんの少しでも似ているんだ。だからアレンは彼の中で、ほんの少しだけ特別になれたんだ――」
クリスは、急にフレデリックを穴があくほど見つめ、溜息混じりに言った。
「いいなぁ、きみは――、あのお兄さんとじかにお会いして、お話したんだよねぇ――」
フレデリックは困ったように口を歪め、曖昧に微笑むしかない。
「アレンも、早く元気になって戻ってこられればいいね」
フレデリックは話題を変えて溜め息をついた。
新学期が始まってから、病欠の知らせを寮監から聞かされただけで何の連絡もないアレン――。ガランとした寮の室内でふっと振り返っていないことを確かめる度に、何とも言えない寂寥感が広がり、胸が痛んだ。
まだ、豪華なパッケージでクリスマスに届いた、TSのお礼さえ言えていないのに。
「うん……、彼がいないともの足りない、ていうか――、アレンにしても、ヨシノにしても、もう僕自身の一部のようだよ。きみもだよ、フレッド。みんなといる時の僕が、一番僕らしい僕なんだ」
驚いたように目を見張ったフレデリックに、クリスはにっこりと微笑みかける。
「さぁ、早く戻って帰省の用意をしなくちゃ! サウードと一緒に、家の庭でヨシノに作ってもらった凧を上げるんだ。きみもおいでよ。休み明けに、ヨシノに自慢しようよ、きみがいなくても上手に凧上げできたよ、って!」
九日間の休暇を週末に控えた月曜日、デヴィッドからの切羽詰まった電話が鳴った。
「クリスん家に招待されているんだ」
『アスカちゃん、ずっと寝てばかりいるかと思ったら、今度は、眠らないし、食べないんだよ。もう、どうしたらいいのか判らなくって――』
涙ぐんだ鼻声に、吉野は眉をしかめる。
「ブドウ糖は、切らしていない? コーヒーや、紅茶は飲んでいるだろ?」
肯定の返事に安堵して、小さく息をついだ。
「アルに言って、日本からブドウ糖が切れないように送ってもらって。それから紅茶に睡眠薬を混ぜて、無理にでも寝させて。俺の部屋の机の引き出しに入っている。――心配いらない。薬剤証明書もあるよ。父さんはずっと、そうしていたから。足りないようなら、父さんに言えば薬も送ってくれるはずだ」
冷静な声で説明しながら、ぎりっと歯軋りする。
規則でがんじがらめのこの学校は、保護者からの正式な申し入れがなければ、学校のあるこの街を離れる外出は禁止されている。月四回、ロンドンでの弓道の稽古は、大会での出場経験や、入賞経験があってこその特別許可がでているからだ。
せめて、昨日言ってくれれば、なんとか行けたのに――。
「なんとか後五日間もたせて」
電話を切ると、深く溜息がついてでた。
何をやっているんだよ、あいつは! 俺には任せられないんじゃなかったのかよ!
吉野はイライラと拳を握りしめ、閉めきった窓から中庭を、その中庭の四方を囲む寮の石壁を、その上方の閉じ込められた薄暗い澱んだ空を睨めつけた。
一日一日をほぞを噛む思いでやりすごし、金曜日の授業が終わった時には、駐車場には迎えの車が待っていた。
「ごめんな、クリス。また、約束を守れなくて」
「仕方ないよ――。お兄さん、お大事にね」
心から心配している様子と、残念そうな、がっかりした様子の入り交じったクリスの眼差しに、吉野は申し訳なさそうに謝るしかない。
「イースターには、きっと――」
「いいんだ、気にしないで」
クリスは微笑んで手を振り、早く行ってあげて、と吉野を促す。
寂しそうに車を見送るクリスの肩をフレデリックが、とんっと叩いた。
「きみのことだから、もっと駄々をこねるかと思ったのに。これで何度目だよ? 約束を反故にされたの……」
「いいんだよ。お兄さんがご病気なんだもの」
クリスは、本当に心配そうに表情を曇らせている。
「それに、僕は納得できたからいいんだ。TSの会見でヨシノのお兄さんを初めてちゃんと見ることができたときに、判ったんだ」
思い出しながら、目を細めて微かに笑みを浮かべる。
「あんな綺麗な、澄んだ冬の空気みたいに透明なひとが本当にいるなんて――。驚きすぎて息が止まりそうだったよ。ヨシノがアレンを庇うのがずっと不思議だったけれど、一目で納得できた。顔形はまるで違うのに、あの色の無い感じが似ているよね、アレンとヨシノのお兄さん」
「えー、そうかなぁ?」
フレデリックは、自分の中の、歩くのが下手で、平凡で、印象の薄い飛鳥を思い出し、訝しげに首を振った。でも、映像で見た会見では、確かにクリスの言う事も判らないでもなくて、以前偶然に出逢った飛鳥とは別人のような外見に驚かされた。
あの会見以来、杜月飛鳥は、『東洋の貴公子』と呼ばれ、さすがはエリオットと肩を並べるウイスタンの卒業生よ、と、その気品に溢れた堂々とした対応を誉めそやされ、ヘンリー・ソールスベリーと肩を並べる人気ぶりだ。
「ヨシノが命に替えても守りたいと思っているお兄さんに、ほんの少しでも似ているんだ。だからアレンは彼の中で、ほんの少しだけ特別になれたんだ――」
クリスは、急にフレデリックを穴があくほど見つめ、溜息混じりに言った。
「いいなぁ、きみは――、あのお兄さんとじかにお会いして、お話したんだよねぇ――」
フレデリックは困ったように口を歪め、曖昧に微笑むしかない。
「アレンも、早く元気になって戻ってこられればいいね」
フレデリックは話題を変えて溜め息をついた。
新学期が始まってから、病欠の知らせを寮監から聞かされただけで何の連絡もないアレン――。ガランとした寮の室内でふっと振り返っていないことを確かめる度に、何とも言えない寂寥感が広がり、胸が痛んだ。
まだ、豪華なパッケージでクリスマスに届いた、TSのお礼さえ言えていないのに。
「うん……、彼がいないともの足りない、ていうか――、アレンにしても、ヨシノにしても、もう僕自身の一部のようだよ。きみもだよ、フレッド。みんなといる時の僕が、一番僕らしい僕なんだ」
驚いたように目を見張ったフレデリックに、クリスはにっこりと微笑みかける。
「さぁ、早く戻って帰省の用意をしなくちゃ! サウードと一緒に、家の庭でヨシノに作ってもらった凧を上げるんだ。きみもおいでよ。休み明けに、ヨシノに自慢しようよ、きみがいなくても上手に凧上げできたよ、って!」
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