胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
210 / 751
四章

しおりを挟む
「おかえり、吉野」
 ロンドンのアパートメントの玄関で出迎えてくれた飛鳥の肩に、吉野はこつんと額を当てて囁くように言った。
「俺、あいつに何もしてやれなかった」
 飛鳥は優しく、吉野の背中をポンポンと叩いてやる。
「吉野、今日は僕がコーヒーを淹れてあげるよ」


 中庭に面したガラス張りの温室から、高い塀に切り取られた、重苦しい灰色の厚い雲に覆われる冬空を見あげる。温室内は十分に暖まっていたけれど、目前の透明アクリル製のテーブルも、椅子も、妙に寒々しく感じられて、吉野はぶるりと身震いをする。

 トレイにカップをのせて運んできた飛鳥に、「デヴィやアーニーは?」とぼんやりと訊ねる。
「実家に帰っているよ。明日にはここにも来ると思う」
「ヘンリーは?」
 吉野は顔を伏せたまま、コーヒーカップを口に運ぶ。
「マーシュコート」
「ごめん、飛鳥。飛鳥は一人っきりでクリスマスを過ごしたんだな――」
 手にしたカップを下ろすことを忘れたかのように、吉野はじっと固まっている。
「別にどうってことないよ。僕はクリスチャンじゃないもの」
 そんな弟に、飛鳥は、優しい笑みを向けた。


「俺、あいつに泣かれる覚悟で行ったんだ。だって、あいつ、去年はしょっちゅう泣いていたから」
 吉野は、ぽつりぽつり話始めた。
「なのに、ずっと笑っていた」
 遣りきれない様子で顔をしかめる。

「俺の馬鹿話聞いて笑って、一緒に遊園地に行って、乗ったことないって言うから、ジェットコースターに乗って悲鳴上げて、フラフラになるまで遊んで、気分悪いって言いながら、やっぱり笑っているんだ」
「楽しかったんだね」
 飛鳥はクスリと笑って応える。
「振り回しただけの気がする――」
 吉野は込みあげてくる後悔を、吐き出すように続ける。

「あいつ、俺たちくらいの年齢のやつなら普通知っているような事、何も知らないんだ。産まれたばかりの赤ん坊が、初めて世界を見て目を丸くして驚いているみたいに、いちいち何にでも驚いて、感心して、それで、嬉しそうに笑うんだよ――」
 吉野は、ぎりっと歯を食いしばって、絞り出すように喉を震わせていた。
「何だってヘンリーは、あいつに、あんな酷いことばかり、できるんだ? ――あんな、何も知らないガキなのに、あいつが悪いわけじゃないのに……」

「彼にだって、どうしようもなかったんだよ」

 飛鳥は吉野を宥めるように、少し哀しげに微笑んだ。

「ヘンリーの一番大切な、守りたい相手はサラだからね」
「だからって、アレンを犠牲にすることないじゃないか!」

 きっと睨むような吉野の瞳を、飛鳥は正面から見据えていた。

「守るっていうのはね、そういう事なんだよ、吉野。結局は、優先順位なんだ。何かを選べば、何かが犠牲になってしまう。仕方がないんだよ。アレンが可哀想だって言うのなら、お前が、あの子をお前の一番にしてやればいい。そこまで責任が持てるのならね」

 はっとして黙り込む吉野の頭を、飛鳥はくしゃりと撫でてやる。

 飛鳥は息をついで、コーヒーを一口こくりと飲んだ。
「ヘンリーは、自分の容姿が大嫌いなんだ」
 怪訝そうに見つめ返した吉野に、「この家、バスルームにしか鏡がないだろ? マーシュコートの屋敷も同じ。普通さ、これくらいの規模の家なら、もっと至る所に鏡が置いてあって、皆、常に身だしなみのチェックをしているものなんだよ」飛鳥はくいっと眉毛を上げて、何とも言えない様子で唇を歪めた。
「ヘンリーは、鏡を見ない。皆が羨むあの容姿が嫌いだから――。だからずっと、自分とよく似た弟から目を逸らし続けてきたんだ」

 飛鳥は言葉を切って、黙って聴きいっている吉野に優しく微笑みかけた。

「ヘンリーはお前が思っているほど、アレンの事を考えていないわけではないよ。あの子をポスターに起用したのは、彼自身だからね――。あのTSの天使のポスターは、アレンであると同時に、ヘンリーなんだよ。幼い頃の自分をアレンに重ねたメッセージだ。ヘンリーの想いが、ちゃんとアレンに伝わっているなら、あの子にも判るはずだよ。彼らの、空に飛び立つための羽をもぎ取り、ズタズタに傷つけたのは、彼らの保護者であるはずのフェイラー一族だってこと。あのポスターはね、彼の一族に対する挑戦状でもあるんだよ」

 そこまで話すと飛鳥は笑みを消し、吉野に真剣な瞳を向けて続けた。
「吉野、勘違いしちゃ駄目だよ。ヘンリーにとって、アレンは自分の分身でもなければ、庇護しなければならない相手でもないんだってこと。だってあの子もフェイラーだからね。あの子は、自分の置かれている境遇も、運命も受け入れて自分の足で立たなきゃいけないし、自分自身で決めなくちゃいけない……。ヘンリーが、そうしてきたみたいにね」

 飛鳥は一旦言葉を切って、弟の顔をじっと優しく見守る。

「ある意味、対等なんだよ、ヘンリーにとっては。彼はね、弟である前にフェイラーの次期当主なんだ。だから甘やかさないし、容赦もしない」

「ややこしいんだな」
 吉野はぼそりと呟いた。
「俺はただ、あいつに、あんな哀しそうな顔で笑って欲しくないだけなのに」
「友達だから?」
「うん」

 頷いた吉野の頭を、飛鳥はまたくしゃりと撫でた。

「大切にするんだよ」
「うん」
「アレンが帰ってきたら、伝えてあげなよ。何があっても、傍にいるって。お前にできることは、それくらいしかないんだから……」

 暫くの沈黙の後、飛鳥は冷ややかな笑みを浮かべ、声のトーンを一段階下げて、それでも優しく問いかけていた。

「それで吉野、そのブーツとコートはどうしたの? アレンのものには見えないけれど」
 椅子に掛けられたカーキ色のモッズコートに、飛鳥はさっきまでとは打って代わった厳しい目を向けている。
「まさか、またカジノで――」
「違うよ! そんなわけないだろ。丁度履いていた靴を古着屋で売って、替わりに買ったんだよ」

 夏、ヘンリーに服と一緒に貰った革靴を、ムカつくから売り払ってやったのだ、という弟の言い分に、飛鳥は顔をしかめながらも、カジノではないと判って、ほっとしたように息をついた。

「あ、でも俺、アレンに借金があるんだ。あいつ、カードしか持ってなかったからさ、あいつが着ていたブルックスのオーダースーツ、古着屋で売ったんだ。だって、メシ食うのに屋台じゃカード使えないだろ? なぁ、ブルックスのスーツって、買って返すのに幾らくらいすんの?」

「吉野――」

 あっけらかんとした吉野に飛鳥は目を見張り、指先で額を押さえてため息をつく。

「僕たち兄弟は、彼ら兄弟に、服がらみで借金を作る――、変な因縁でもあるのかな……」





しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁
BL
大学受験に失敗した比良坂晃(ひらさかあきら)は、心機一転イギリスの大学へと留学する。 古ぼけた学生寮に嫌気のさした晃は、掲示板のメモからシェアハウスのルームメイトに応募するが……。 ひょんなことから始まった、晃・アルビー・マリーの共同生活。 美貌のアルビーに憧れる晃は、生活に無頓着な彼らに振り回されながらも奮闘する。 一つ屋根の下、徐々に明らかになる彼らの事情。 そして晃の真の目的は? 英国の四季を通じて織り成される、日常系心の旅路。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夏の嵐

萩尾雅縁
キャラ文芸
 垣間見た大人の世界は、かくも美しく、残酷だった。  全寮制寄宿学校から夏季休暇でマナーハウスに戻った「僕」は、祖母の開いた夜会で美しい年上の女性に出会う。英国の美しい田園風景の中、「僕」とその兄、異国の彼女との間に繰り広げられる少年のひと夏の恋の物話。 「胡桃の中の蜃気楼」番外編。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

僕が美少女になったせいで幼馴染が百合に目覚めた

楠富 つかさ
恋愛
ある朝、目覚めたら女の子になっていた主人公と主人公に恋をしていたが、女の子になって主人公を見て百合に目覚めたヒロインのドタバタした日常。 この作品はハーメルン様でも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...