胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 ギリシャ様式の正面入り口に並ぶ柱を見上げ、サラは瞳を輝かせて感嘆の声を上げた。
「来たことないの?」

 英国に住んでいるのに――。俺でさえ、英国に来て一番にここを訪れたぞ、と吉野は驚きを隠せないようすでサラに訊ねた。

「あんまり、マーシュコートから出たことがないの」
 サラはキョロキョロと辺りを見回しながら、車を置きにいっているトーマスを待っている。暖かい室内から出てきたばかりのような薄いパンジャビスーツ姿で、ぶるっと身震いをしている。吉野は顔をしかめて続けて尋ねる。

「携帯、持っていないの?」
 サラは首を横に振る。
「すぐにどこかに置き忘れるから持ち歩かないの」
「あの人の番号、覚えてる?」

 頷いた彼女に、吉野は自分のスマートフォンを渡した。サラはトーマスに電話をかけてみたが、話中で繋がらない。

「先に入ろう。寒いだろ? それに、明日からはクリスマスで休館なんだ。五時には記者会見も終わる予定なんだろ、見て廻りたいならあまり時間ないよ。電話は、また、あとでかければいいだろ?」

 ぱぁっと微笑んで、サラは、もう建物内に走り出している。

「走っちゃ、駄目だ!」
 吉野は、慌てて追いかけた。




「サラが、着いてない――」
 店舗二階の執務室で、スマートフォンの位置情報を確認していたヘンリーは、顔色を変えて立ち上がった。
「大英博物館? 何をやっているんだ、トーマスは!」
 何度電話をかけても繋がらない。業を煮やしたヘンリーは、傍で心配そうな顔をしている飛鳥に、「迎えに行ってくる」と告げるなり足早に部屋を出ていった。

「ちょっと、ヘンリー……」
 呟く飛鳥に、アーネストも、「お姫さまのこととなったら、相変わらずだね、ヘンリーは……。大丈夫、近くだし会見には十分間に合うよ」とため息を漏らした。





 次々と展示室を巡るサラにつき合いながら、「一日じゃ全部見きれないぞ」と吉野は呆れたように声をかける。
「見られるだけ、見たいの。次は、いつ来られるか判らないもの!」
 サラは息を弾ませながら、瞳をくるくると動かして貪欲に展示物を眺めている。

「すごいわ。メソポタミア、エジプト、アッシリア――。世界中を旅しているみたい!」


 通称エルギンマーブルと呼ばれる、パルテノン神殿にあった大理石彫刻群を感嘆の声をあげて見あげていた二人は、背後のざわめきに顔を見合わせ振り返る。

「ヘンリー……」

 雑踏を避けるように、ヘンリーが二人に向かって歩いてきている。その彼に向かってそこら中からフラッシュが焚かれ、シャッターが切られ始めた。

 サラの顔から血の気が引いていく。握手を求める沢山の手をかき分けて進むヘンリーも、それに気を取られている吉野も、まだそんなサラの変化に気がつかなかった。サラは両手でこめかみを押さえ、目を見開いて唇をわななかせていた。

「ヘンリー……」
 火花のように焚かれるフラッシュの光でサラの視界は真っ白に染まり、色彩が奪われていた。
「ヘンリー……」
 怯えた囁き声にやっと気がついた吉野がサラに目を向けた瞬間、サラは膝から崩れ落ちた。ヘンリーは前方にいる人々を突き飛ばすように払いのけ、サラに駆けよる。


「僕はここにいるよ」
 跪き、サラを抱きしめる。そんな彼の周囲で、一斉にフラッシュが焚かれシャッターが切られる。

「ここにいる。怖がらないで。僕は、きみの傍にいる」
 全身を震わせ怯えるサラを宥めるように、ヘンリーは腕に力を込める。
「大丈夫。僕はきみを置いて行ったりはしない」
 サラの耳許で囁きながら、そっと抱き上げ立ち上がる。ヘンリーの首に廻されたサラの小刻みに震える腕にも力が入り、その肩に顔を埋めたまま、しがみつくようにスーツの生地を小さな手が握りしめた。


「サラ、ずっと傍にいるから」
 柔らかく、優しい声音で囁き続ける慈愛に満ちたその姿に、シャッターを切っていた人々は、ひとり、また、ひとりと、カメラや、携帯を下ろし、彼のために道を開け始めた。

 いつの間にかしーんと静まり返り、左右に分かれた人垣の間を、ヘンリーは、ただサラを気遣い、囁きながらゆっくりと進んで行った。その後ろを、顔を伏せ、後悔で血が滲むほど唇を噛みしめながら、吉野は何が何だか判らないまま、ついていく他ない。




「もう、これ以上待てない。会見は中止だ――」
 諦めたようにアーネストはため息をついている。
「僕が出るよ」
 飛鳥は、窓からじっと見下ろしていた店舗前の道路に見切りをつけ、振り向いて言った。

「ヘアワックス、持ってる? こんなボサボサ頭じゃ駄目だろ? 髪を直す間だけ待ってもらって。それからデイヴ、これ、ウインザー・ノットに結び直してくれる? ネクタイなんてしばらく結んでないからさ、忘れちゃったよ」

 ネクタイを解きながら、飛鳥は静かな瞳でデヴィッドを見つめた。デヴィッドは自分のネクタイを解き、しゅっと引き抜く。

「それなら、こっち。きみのは地味すぎるよ」

 デヴィッドは手早く器用にネクタイを結び、ついでポケットから携帯用のワックスを取り出して手に馴染ませると、長い指先で飛鳥のさらさらの髪を後ろに流して固め、整えてやる。そのまま、腕を彼の背中に廻してぎゅっと抱き締める。

「頼んだよ」
 耳許で囁いて見つめる、今まで見たことのないような真剣な彼の瞳に、飛鳥はにっこりと微笑み返した。

「うん。こんなことで、僕たちの夢を躓かせたりしないよ。僕だって、ウイスティアンなんだから」

 大きく息を吸い込んで、深呼吸をする。そして、窓際に置かれた広いヘンリーの机に、ぺたんと掌を当てて祈るように呟いた。

「行ってきます。見ていてね、ヘンリー」






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