203 / 758
四章
9
しおりを挟む
「いいかい、ヨシノ。今日はここから出ては駄目だよ。きみの顔は知られていないから大丈夫だとは思うけれど、万が一、パパラッチに捉まっては面倒だからね」
テレビニュースに、ロンドン、メイフェアの一角にオープンしたばかりのアーカシャ―HDの一号店に並ぶ行列が映しだされている。緊張した面持ちで眺めていたアーネストは、だらしなくソファーにもたれたままの吉野に厳しい視線を向け、言いきかせている。
「飛鳥は、飛鳥も店にいるの?」
クリスマス休暇に入りロンドンにあるヘンリーのアパートメントに到着したばかりの吉野は、疲れたように尋ねた。いつもは、アーネストが迎えに来てくれるのに、さすがにTS発売日の今日は、運転手つきのハイヤーをよこされた。
ここ数日はさすがに誰もが目まぐるしく忙しかったようで、要件も簡単なメールのみで済まされていたのだ。だが吉野には、この重要な今日という日も、蚊帳の外での他人事のようにしか思えない。
「念のために待機はしてもらっているよぉ。でも、極力、表には出さないって。心配しなくていいよぉ」
ソファーの背後から、吉野に抱きつくように腕を回して、デヴィッドが告げた。
「緊張するねぇ」
肩にかけられた腕が強張って、その声も心なしか震えている。吉野は、首を捻ってデヴィッドに顔を向け、その柔らかな巻き毛をぽんぽんと叩いた。
「お前が緊張してどうするんだよ。CМは大人気だったんだろ? 予約は完売。ポスターは貼った端から盗まれる始末だって聞いたぞ。もう、結果は出ているじゃないか」
「これからだよ。問題は、誰しもがTSを使いこなせるかどうかなんだ」
ぎゅっと力の入ったデヴィッドの腕を掌で握って返す。が、吉野自身は虚ろな瞳をテレビ画面に戻し、また直ぐにどうでも良さそうに窓の外に向けていた。
「それから、じきにサラがここに来るからね」
意外な名前に、吉野は弾かれたようにアーネストに面を向ける。
「なんで? まさか記者会見に出るの?」
「まさか!」
アーネストはやっと緊張をほぐしてにこやかに微笑んだ。
「明日はクリスマス・イブだろ? 今年は彼、マーシュコートに帰れそうにないからね。サラをロンドンに呼んだんだよ。クリスマスだけは、何があろうと彼女と一緒に過ごすからね、ヘンリーは」
「僕たちも、彼女に会うの、初めてなんだよぉ。きみに先を越されちゃったねぇ」
デヴィッドは吉野を放すと、ぐるりと回ってソファーに腰を下ろす。
「それでね、きみにこの場に残っていて欲しいんだよ。彼女と面識があるのはきみだけだしね。僕らはじきに店の方に行かなきゃならないから」
「ふーん、何時頃?」
気のなさそうな返事をして、吉野はアーネストを見上げて訊いた。
「三時には着くだろうって」
「解った。じゃあ、俺、それまで寝てていい? 疲れているんだ」
TSのせいで――。
昨夜はクリスマス休暇とTSの発売日とが重なる前日で、どいつもこいつもがしつこくて煩かったのだ。どうでもいいTSのことを長々と聞かされ、吉野の方も、さもすごい発明のように相槌を打って、杜月飛鳥の弟らしく振る舞っていたのだ。もう、十分だろ? と、心の内は、ここまでで充分過ぎるほどささくれ立っていた。
吉野は立ち上がると、返事も聞かずに部屋を出た。
「ヨシノ、どうしちゃったの? 元気ないじゃん」
デヴィッドは心配そうに眉を寄せ、アーネストに視線を送る。
「疲れているんでしょ」
だがアーネストにしても答えようもなく、わずかに肩をすくめて首を振るだけだ。
ビッビー、と何度も鳴らされるブザーの音に、吉野は飛び起きていた。慌てて時計をみると三時を回っている。二階の部屋から急いで玄関に走り扉を開ける。
「なんだ――」
気が抜けて、派手に息をつく。
「アレン、どうしたんだ?」
「あの、きみがここにいるって聞いて――」
「お前、記者会見には出ないの?」
「うん。僕は別に……」
急な訪問を後悔しているのか、しどろもどろになって喋るアレンをぼんやりと眺めていると、ヘンリーに言われた言葉がいきなり吉野の脳裏に浮かんできた。
『サラのことは、あの子には言わないでおいてくれるかい?』
まずい! このままじゃ鉢合わせする!
寝ぼけていた頭の霧が晴れ、意識が呼吸を始める。慌てて周囲を見回すと、見覚えのあるロールスロイスが角を曲がって来ていた。
「ごめん、留守番しておいて! 後で電話するから!」
唖然とするアレンを尻目に、吉野は玄関前の階段を駆けおりて、道の途中で止まった車に飛び乗った。
「そのまま進んで。サラ、ごめん。アレン・フェイラーが来ているんだ」
運転席に座る知らない男に声をかけ、サラに謝った。言ってしまってから、しまった、と吉野は顔色を変える。
「それなら、私は彼に会わないようにしなくちゃいけない」
サラは、無表情のままはっきりとした声で告げた。
「家を空けっ放して、アレンに留守番を頼んだから誰か替わりを頼まないと。ヘンリーか、飛鳥に連絡がつくかな? アーニーでもいい」
「ああ、今は難しいでしょうね。じき、記者会見だ」
運転席の男が答えた。
「私、大英博物館に行きたい。ヘンリーに連絡がつくまでいいでしょう、トーマス?」
「OK、お嬢さん」
トーマスと呼ばれた男は、にこやかに応えてハンドルを切った。
テレビニュースに、ロンドン、メイフェアの一角にオープンしたばかりのアーカシャ―HDの一号店に並ぶ行列が映しだされている。緊張した面持ちで眺めていたアーネストは、だらしなくソファーにもたれたままの吉野に厳しい視線を向け、言いきかせている。
「飛鳥は、飛鳥も店にいるの?」
クリスマス休暇に入りロンドンにあるヘンリーのアパートメントに到着したばかりの吉野は、疲れたように尋ねた。いつもは、アーネストが迎えに来てくれるのに、さすがにTS発売日の今日は、運転手つきのハイヤーをよこされた。
ここ数日はさすがに誰もが目まぐるしく忙しかったようで、要件も簡単なメールのみで済まされていたのだ。だが吉野には、この重要な今日という日も、蚊帳の外での他人事のようにしか思えない。
「念のために待機はしてもらっているよぉ。でも、極力、表には出さないって。心配しなくていいよぉ」
ソファーの背後から、吉野に抱きつくように腕を回して、デヴィッドが告げた。
「緊張するねぇ」
肩にかけられた腕が強張って、その声も心なしか震えている。吉野は、首を捻ってデヴィッドに顔を向け、その柔らかな巻き毛をぽんぽんと叩いた。
「お前が緊張してどうするんだよ。CМは大人気だったんだろ? 予約は完売。ポスターは貼った端から盗まれる始末だって聞いたぞ。もう、結果は出ているじゃないか」
「これからだよ。問題は、誰しもがTSを使いこなせるかどうかなんだ」
ぎゅっと力の入ったデヴィッドの腕を掌で握って返す。が、吉野自身は虚ろな瞳をテレビ画面に戻し、また直ぐにどうでも良さそうに窓の外に向けていた。
「それから、じきにサラがここに来るからね」
意外な名前に、吉野は弾かれたようにアーネストに面を向ける。
「なんで? まさか記者会見に出るの?」
「まさか!」
アーネストはやっと緊張をほぐしてにこやかに微笑んだ。
「明日はクリスマス・イブだろ? 今年は彼、マーシュコートに帰れそうにないからね。サラをロンドンに呼んだんだよ。クリスマスだけは、何があろうと彼女と一緒に過ごすからね、ヘンリーは」
「僕たちも、彼女に会うの、初めてなんだよぉ。きみに先を越されちゃったねぇ」
デヴィッドは吉野を放すと、ぐるりと回ってソファーに腰を下ろす。
「それでね、きみにこの場に残っていて欲しいんだよ。彼女と面識があるのはきみだけだしね。僕らはじきに店の方に行かなきゃならないから」
「ふーん、何時頃?」
気のなさそうな返事をして、吉野はアーネストを見上げて訊いた。
「三時には着くだろうって」
「解った。じゃあ、俺、それまで寝てていい? 疲れているんだ」
TSのせいで――。
昨夜はクリスマス休暇とTSの発売日とが重なる前日で、どいつもこいつもがしつこくて煩かったのだ。どうでもいいTSのことを長々と聞かされ、吉野の方も、さもすごい発明のように相槌を打って、杜月飛鳥の弟らしく振る舞っていたのだ。もう、十分だろ? と、心の内は、ここまでで充分過ぎるほどささくれ立っていた。
吉野は立ち上がると、返事も聞かずに部屋を出た。
「ヨシノ、どうしちゃったの? 元気ないじゃん」
デヴィッドは心配そうに眉を寄せ、アーネストに視線を送る。
「疲れているんでしょ」
だがアーネストにしても答えようもなく、わずかに肩をすくめて首を振るだけだ。
ビッビー、と何度も鳴らされるブザーの音に、吉野は飛び起きていた。慌てて時計をみると三時を回っている。二階の部屋から急いで玄関に走り扉を開ける。
「なんだ――」
気が抜けて、派手に息をつく。
「アレン、どうしたんだ?」
「あの、きみがここにいるって聞いて――」
「お前、記者会見には出ないの?」
「うん。僕は別に……」
急な訪問を後悔しているのか、しどろもどろになって喋るアレンをぼんやりと眺めていると、ヘンリーに言われた言葉がいきなり吉野の脳裏に浮かんできた。
『サラのことは、あの子には言わないでおいてくれるかい?』
まずい! このままじゃ鉢合わせする!
寝ぼけていた頭の霧が晴れ、意識が呼吸を始める。慌てて周囲を見回すと、見覚えのあるロールスロイスが角を曲がって来ていた。
「ごめん、留守番しておいて! 後で電話するから!」
唖然とするアレンを尻目に、吉野は玄関前の階段を駆けおりて、道の途中で止まった車に飛び乗った。
「そのまま進んで。サラ、ごめん。アレン・フェイラーが来ているんだ」
運転席に座る知らない男に声をかけ、サラに謝った。言ってしまってから、しまった、と吉野は顔色を変える。
「それなら、私は彼に会わないようにしなくちゃいけない」
サラは、無表情のままはっきりとした声で告げた。
「家を空けっ放して、アレンに留守番を頼んだから誰か替わりを頼まないと。ヘンリーか、飛鳥に連絡がつくかな? アーニーでもいい」
「ああ、今は難しいでしょうね。じき、記者会見だ」
運転席の男が答えた。
「私、大英博物館に行きたい。ヘンリーに連絡がつくまでいいでしょう、トーマス?」
「OK、お嬢さん」
トーマスと呼ばれた男は、にこやかに応えてハンドルを切った。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる