胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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「いいかい、ヨシノ。今日はここから出ては駄目だよ。きみの顔は知られていないから大丈夫だとは思うけれど、万が一、パパラッチに捉まっては面倒だからね」

 テレビニュースに、ロンドン、メイフェアの一角にオープンしたばかりのアーカシャ―HDの一号店に並ぶ行列が映しだされている。緊張した面持ちで眺めていたアーネストは、だらしなくソファーにもたれたままの吉野に厳しい視線を向け、言いきかせている。

「飛鳥は、飛鳥も店にいるの?」
 クリスマス休暇に入りロンドンにあるヘンリーのアパートメントに到着したばかりの吉野は、疲れたように尋ねた。いつもは、アーネストが迎えに来てくれるのに、さすがにTS発売日の今日は、運転手つきのハイヤーをよこされた。
 ここ数日はさすがに誰もが目まぐるしく忙しかったようで、要件も簡単なメールのみで済まされていたのだ。だが吉野には、この重要な今日という日も、蚊帳の外での他人事のようにしか思えない。

「念のために待機はしてもらっているよぉ。でも、極力、表には出さないって。心配しなくていいよぉ」
 ソファーの背後から、吉野に抱きつくように腕を回して、デヴィッドが告げた。

「緊張するねぇ」
 肩にかけられた腕が強張って、その声も心なしか震えている。吉野は、首を捻ってデヴィッドに顔を向け、その柔らかな巻き毛をぽんぽんと叩いた。
「お前が緊張してどうするんだよ。CМは大人気だったんだろ? 予約は完売。ポスターは貼った端から盗まれる始末だって聞いたぞ。もう、結果は出ているじゃないか」
「これからだよ。問題は、誰しもがTSトランススパークスを使いこなせるかどうかなんだ」
 ぎゅっと力の入ったデヴィッドの腕を掌で握って返す。が、吉野自身は虚ろな瞳をテレビ画面に戻し、また直ぐにどうでも良さそうに窓の外に向けていた。

「それから、じきにサラがここに来るからね」
 意外な名前に、吉野は弾かれたようにアーネストに面を向ける。
「なんで? まさか記者会見に出るの?」
「まさか!」
 アーネストはやっと緊張をほぐしてにこやかに微笑んだ。

「明日はクリスマス・イブだろ? 今年は彼、マーシュコートに帰れそうにないからね。サラをロンドンに呼んだんだよ。クリスマスだけは、何があろうと彼女と一緒に過ごすからね、ヘンリーは」
「僕たちも、彼女に会うの、初めてなんだよぉ。きみに先を越されちゃったねぇ」
 デヴィッドは吉野を放すと、ぐるりと回ってソファーに腰を下ろす。
「それでね、きみにこの場に残っていて欲しいんだよ。彼女と面識があるのはきみだけだしね。僕らはじきに店の方に行かなきゃならないから」
「ふーん、何時頃?」
 気のなさそうな返事をして、吉野はアーネストを見上げて訊いた。
「三時には着くだろうって」
「解った。じゃあ、俺、それまで寝てていい? 疲れているんだ」

 TSのせいで――。
 昨夜はクリスマス休暇とTSの発売日とが重なる前日で、どいつもこいつもがしつこくて煩かったのだ。どうでもいいTSのことを長々と聞かされ、吉野の方も、さもすごい発明のように相槌を打って、杜月飛鳥の弟らしく振る舞っていたのだ。もう、十分だろ? と、心の内は、ここまでで充分過ぎるほどささくれ立っていた。

 吉野は立ち上がると、返事も聞かずに部屋を出た。

「ヨシノ、どうしちゃったの? 元気ないじゃん」
 デヴィッドは心配そうに眉を寄せ、アーネストに視線を送る。
「疲れているんでしょ」
 だがアーネストにしても答えようもなく、わずかに肩をすくめて首を振るだけだ。




 ビッビー、と何度も鳴らされるブザーの音に、吉野は飛び起きていた。慌てて時計をみると三時を回っている。二階の部屋から急いで玄関に走り扉を開ける。

「なんだ――」
 気が抜けて、派手に息をつく。
「アレン、どうしたんだ?」
「あの、きみがここにいるって聞いて――」
「お前、記者会見には出ないの?」
「うん。僕は別に……」

 急な訪問を後悔しているのか、しどろもどろになって喋るアレンをぼんやりと眺めていると、ヘンリーに言われた言葉がいきなり吉野の脳裏に浮かんできた。

『サラのことは、あの子には言わないでおいてくれるかい?』

 まずい! このままじゃ鉢合わせする! 

 寝ぼけていた頭の霧が晴れ、意識が呼吸を始める。慌てて周囲を見回すと、見覚えのあるロールスロイスが角を曲がって来ていた。

「ごめん、留守番しておいて! 後で電話するから!」

 唖然とするアレンを尻目に、吉野は玄関前の階段を駆けおりて、道の途中で止まった車に飛び乗った。



「そのまま進んで。サラ、ごめん。アレン・フェイラーが来ているんだ」

 運転席に座る知らない男に声をかけ、サラに謝った。言ってしまってから、しまった、と吉野は顔色を変える。

「それなら、私は彼に会わないようにしなくちゃいけない」
 サラは、無表情のままはっきりとした声で告げた。

「家を空けっ放して、アレンに留守番を頼んだから誰か替わりを頼まないと。ヘンリーか、飛鳥に連絡がつくかな? アーニーでもいい」
「ああ、今は難しいでしょうね。じき、記者会見だ」
 運転席の男が答えた。

「私、大英博物館に行きたい。ヘンリーに連絡がつくまでいいでしょう、トーマス?」
「OK、お嬢さん」

 トーマスと呼ばれた男は、にこやかに応えてハンドルを切った。






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