胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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「なぁ、俺、九日間もロンドンにいなきゃいけないの? 畑が気になるんだけど」
 吉野はハイヤーの後部座席でスマートフォンをいじりながら、退屈そうに呟いた。渋滞に巻き込まれ、先ほどから全くといっていいほど動かない状況に辟易しているのだ。

「どっちみち学校は閉鎖されているでしょ。門を乗り越えて入るなんて、よしてくれよ」
 運転席から、アーネストの冷めた声が返ってくる。デヴィッドはけたけた笑いながら、横に座る吉野を小突いた。

「ヘドウィックさんに任せておけば大丈夫だよ~。ヨシノよりずっと大事に世話してくれるよ。あの人は緑の指を持っているんだから~。それよりさぁ、『アンダーソン』のフィッティング、このハーフタームの間に行くんでしょ? 僕も一緒に行くよ~。例の吊るしのスーツ、もうお店に返しちゃったんだよねぇ? 僕も見たかったのにぃ。お店に残ってないかなぁ」


 夏の終わり、マーシュコートからケンブリッジに戻るなり、『アンダーソン』で強引に売ってもらった見本のスーツを返品し、同じ生地でスーツを仕立てに行かされた。

 洋服を着る、というのはどういうことか学んでこい、とヘンリーに怒られ、半年の間に三回はフィッティングに行かなければならない。
 とはいえ、スーツ一着に、ジャケット、ベスト、パンツと専門が分かれ、そこからまたさらに細分化されている専門職人に、いろんな事を教えてもらえるフィッティングは楽しかった。職人の丁寧な仕事ぶりを見せられ、ヘンリーの言い分ももっともだ、と今さらながら吉野も納得している。


「いつまでこのネタで揶揄えば気が済むんだよ」
 吉野はスマートフォンから顔をあげ、眉をひそめてデヴィッドを睨んだ。だが、そのまま目を見開いて、彼の肩越しの車窓から覗く、道路沿いの大看板に釘づけになる。

「アレン――。あの天使、アレンか?」
「なんだ、知らなかったの~?」

 デヴィッドは自慢げに背筋を伸ばすと、「僕がプロデュースしたんだよぉ」と吉野に並んで窓外に目をやる。


 遠景に、青空に包まれる崩れかけた廃墟の教会があった。その荒涼と広がる大地に立つ片羽の天使が、顔の片側を包帯で覆い、黒のローブを羽織って左手にタブレット型のTSを持ち、包帯で巻かれた右手を真っすぐに空に伸ばし指さしている。
 その指し示す先に半透明の画面があった。そこには一本の枝に二匹の蛇の絡み合う、アーカシャ―HDのシンボルマークが映し出されている。片隅に、TSのロゴと、社名が小さく入っている。

「Hold your head up high……。(誇り高くあれ)」
 吉野は、背景の澄み渡る空に書かれたコピーを読みあげた。


「あれ、エリオットの制服だろ? よく学校が許可したな」
 動き出した車から吉野は振り返って大看板を目で追い、正面に向き直るなり、呆れたように呟いた。
「ま、その辺はね~」
「それにしても、聞いてたコンセプトから、ずいぶんと趣旨替えしたんだな。ハイセンス、高級志向の若いビジネスマンがターゲットじゃなかったのかよ」
「ヘンリーの希望だよぉ」
 のんびりと、デヴィッドは微笑んで答えた。
「どうせ、このバージョン1.0は、予約分しか作らないからいいんだって。本気で売るのは、こっちの方だからね~」と自分のスーツの胸ポケットにある、携帯タイプのTSをトントンと指で叩く。

「次は、ヨシノもCМにでない?」
「ふざけるな、お断りだ」
 にべもない返事にデヴィッドはクスクス笑いながら、覗き込むように吉野を見つめる。

「きみとアレンなら、いい絵が撮れると思うのになぁ。彼、アスカちゃんに似ているでしょ?」
「は?」
「空気がすごく似ている。以前会った時は、ああじゃなかったよ~。きみが、あの子を変えたんだねぇ」
「似てないよ、ぜんぜん」
 吉野はがぜん憤慨して唇を尖らせる。

「あのポスターの天使は、アスカちゃんなんだよぉ。どんなに傷ついて、踏みにじられて、信じていた者に裏切られたって、誇りを失わない。頭を高く上げて理想を追い続ける崇高な魂。それがヘンリーの出したコンセプト」

 ついっと目線を窓外に逸らして聞かないフリをする吉野に、「お子さまだねぇ。ヘンリーに、お兄ちゃんを盗られちゃって、寂しいんだ?」とデヴィッドはまたもクスクスと笑いだしながらその肩を抱いて、優しく慰めるように、リズミカルに叩いた。





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