胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 「ヨシノ!」
 強く、甘やかな芳香を放つ秋薔薇が群れ咲いている。華やかなフェローガーデンの遊歩道を行く吉野を、頬を染め、息を弾ませて追いかけてきたアレンが、やっと追いつきその名を呼んだ。
 吉野は、足を止め振り返る。

「何?」
「えっと、その――」
 アレンは、苦しそうにまだ息を弾ませている。
「ごめん、急いでいるんだ。歩きながらでいいか?」
 いったん立ちどまった吉野は、また歩きだした。黙ったまま頷いたアレンは呼吸が落ちつくと、吉野が肩に担いでいる道具を訝し気に眺めて訊ねた。
「それ、何?」
くわだよ。見たことないのか? 土を掘り起こすのに使うんだ」
「土を掘るって、何で? 何かのゲーム? 宝探しでもしているの?」
 アレンは真っ直ぐに前を見つめ足早に進む吉野の横顔を眺めながら、不思議そうに訊ねた。
「宝探し――。いいな、それ、今度みんなでするか? 今は忙しいから無理だけれどな」
 吉野は、アレンにちらりと目をやって、くしゃっと笑った。




 フェローガーデンの終りにある広々とした遊休地まで来ると、吉野は足を止め、鍬を下ろした。そのまま、ローブとテールコートに、ネクタイまで外して脱ぎ捨て、シャツの袖を捲る。

「あまり時間がないんだ。俺、作業するけれど、ちゃんと聞いているから用事があるなら言って」と持ってきた鍬を振り上げ、振り下して地面を掘り起こし始める。

 しばらくの間、唖然としてその様子を見守っていたアレンは、やっと「何をしているの?」と申し訳なさそうに訊ねた。
「畑を作るんだ」
 吉野は手を休めることなく答える。「野菜を育てるんだよ」と、ザクッ、ザクッと土を掘り起こしていく。



「やぁ、坊ちゃん!」
 その声に吉野は手を止めて鍬を下ろし、額の汗を拭って姿勢を正した。
「こんにちは、ヘドウィックさん。お世話になります」
「なんだ、もうこんなに進んでいるのか! 初めてじゃ、なかったのかい?」

 その初老の男は吉野の手から鍬を取ると、耕された地面の深さを確かめるように何度か辺りの土を梳くっては返した。そして、驚きと喜びを持って黒々とした地面を眺め、笑みを浮かべた。

「夏の間に、少し教わってきました」
 吉野は、はにかんだように答えた。
「1アールだったな。明日、明後日には終わりそうじゃないか」
「いい土ですね、柔らかくて起こしやすい」
 褒め言葉に、ヘドウィックは嬉しそうに目を細める。
「仕上がったらまた声をかけてくれ。頑張れよ!」
 軽く会釈して、立ち去って行くその背中を見送りながら、「エリオットの専属庭師だよ」と吉野は、思い出したようにアレンの方を向いた。


「ごめんな、話、何だっけ?」
 吉野はウエストコートの銀ボタンを外して脱ぎ捨て、髪にかかった細かい土や砂利を払うように頭を振って、道の傍に腰を下ろした。
 そして、申し訳なさそうに躊躇するアレンに、「少し、休憩するから」と笑いかける。

「マーシュコート、どうなったかと思って」
「ああ、あの時はありがとう。おかげで助かったよ。飛鳥にも会えたし」
 すっきりとした顔で微笑んだ吉野に、アレンもほっとしたように息をつく。
「早期受験、やめにしたんだって?」
「うん。お前の兄貴に賭けで負けたからな」
「え?」
勝負カードでは勝てていたけれど、俺の完敗だった」
 怪訝そうな顔をするアレンに、「ヘンリーに、早期受験で大学に来るなって言われたんだ。それで、カードで賭けた。俺が負けたら行かないって」吉野は穏やかな口調で続けた。


「――なんで、兄がそんなこと、」
「飛鳥は、俺が数学が好きじゃないことを知っている。でも、俺の意思を最大限尊重してくれる。俺が、数学がしたいのならかまわないけど、飛鳥のために早期受験してまで嫌いな数学科に行くなら、自分の方が大学を辞めるつもりだって、ヘンリーから聞かされた。それをさ、言えないんだよ、俺には。飛鳥はさ。俺が、自分で決めなくちゃいけないことだから。飛鳥は俺の選択に口出しするのを嫌がるんだ」

 吉野は独り言でも喋っているように、とつとつと話し続ける。そんな彼を、アレンは不思議そうに眺め、真剣に耳を傾けていた。

「それに、俺、ハワード教授や、たくさんの人に迷惑かけただろ。ケンブリッジ早期入学を見越して銀ボタンまで貰ったしな――。引くに引けないだろ、今さら。だからお前の兄貴は、俺にやめる理由をくれたんだよ。つまらないゲームで一生の選択を決めてしまうようなガキだから、まだ大学入学は無理だってな。カードで勝っても、負けても結果は同じだ。選択の余地はなかった」

「もし、きみが勝っていたら?」
 アレンは、よく理解できていないのか眉根を寄せている。
「俺の願いをひとつきいてくれるって」
「きみの願いって?」
「飛鳥を日本に連れて帰る」
 可笑しそうに、吉野は笑った。
「な、賭けは成立しないんだよ。あいつが、いいよ、って言ったって、飛鳥は嫌だっていうに決まっている。言われて初めて気がついた。俺が、あいつに望むことなんて、何もないんだ。飛鳥は、自分の意思であいつの横にいるんだってな」

 吉野は、立ち上がると伸びをして、「さぁ、もうひと踏ん張りするか」と再び鍬を手に持った。
 アレンも慌てて立ち上がって、「何か手伝えることはない?」とじっと吉野を見つめた。

「ありがとう。でも、今は思いつかない」
 吉野は屈託なく笑うと、先ほどの続きから、また、鍬を振るい始めた。






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