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四章
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新学期が始まったばかりのカレッジ寮の自室で、真剣な顔をして吉野はノートパソコンに向き合っていた。
その背後から覗き込み、拡大された龍笛頭部の、紫地に白い染め抜き文様の入った錦の詳細画像を目にしたクリスは、「あれ、この文様ってきみの笛?」とすっとんきょうな声をあげた。
「似ているけれど、違うよ。俺のは『紫雲』、これは『流泉』。兄弟笛だ」
吉野は画面から目を離さずに、じっと眉をひそめたまま答える。
吉野のその厳しい顔つきに、「なんて書いてあるの?」とクリスは神妙な声音で訊ねた。
「ん? 大したことじゃない。この笛の謂われだよ。特別な雨乞いの儀式の時にだけ使用されたって」
「雨乞いって?」
「昔、雨が降らなくて干ばつで飢饉が起こった時に、雨が降るようにって神仏に祈る儀式を行っていたんだよ」
「へぇー、それで雨が降るんだったらサウードが欲しがりそうだね」
くるくると目を丸くして話すクリスに、吉野は思わず釣られて微笑む。
「そうだな。でも砂漠じゃ、雨乞いくらいじゃ追いつかないだろうな」とそう言って、パソコンの電源を落とした。
「あれ、切っちゃうの? もっと見たかったのに」
クリスは残念そうに真っ暗な画面に目を遣ると、唇を尖らせて不満気に抗議する。
「きみの笛もその儀式のための笛なの?」
尚も未練がましく話し続けるクリスに、吉野は困ったように笑って言った。
「俺のは、違うよ。――飢饉で亡くなった人たちを弔うために使われたらしい。『紫雲』てのは、徳の高い偉い奴が死んだ時にあの世から迎えに来る雲なんだけど、この笛を吹いて死者を弔えば、別に普通の奴でも、紫の雲に乗った仏が迎えに来てくれるって言い伝えがあるんだって」
「面白いねぇ。そんな伝説のある楽器だなんて、なんだかワクワクするよ」
瞳を輝かせて表情豊かに話すクリスに、吉野は少し悪戯っぽく笑い「そうか? 怖くないの?」と声を潜める。
「なんで?」
逆にクリスは、不思議そうに訊き返す。
「曰くつきの楽器なんて、面倒だぞ。こいつの扱いも大変なんだ。他の奴に絶対に触らせるな、とか、雑に扱うと呪われるとか、ガキの頃から散々に脅かされてきたもんな。だいたいうちじゃ、演奏する奴より、お笛さまの方が偉いんだぞ。笛が主人で俺は下僕。笛が俺を選んだんだって」
「羨ましいよ、楽器に選ばれるなんて――」
ほう、とため息をつくクリスを吉野は呆れたように笑った。
問題は、曰くつきってことじゃなくて、こっちのやつが重要美術品だってことだけどな。こっちがそうだってからには、俺の笛もそれに準ずるものだってことだろ? 海外持ち出し禁止、なんじゃないか――?
吉野は、そんな事は取り立てて意に介さない飛鳥を恨み、ため息をつく。
久しぶりにこの笛の銘を言われて、ほとんど忘れかけていた『紫雲』という銘と野辺送りの笛を検索に掛けてみたら、どんぴしゃりと飛鳥の言い渋っていた出所までが判ってしまった。
なんだって、うちじゃ母さんの実家の話はタブーなんだ?
と、吉野はぼんやりと、横で懸命に喋っているクリスの話を、聞くでもなく聞き流しながら物思いに耽っていた。
「だから、ねぇ、ヨシノ!」
はっと我に返って、クリスに顔を向ける。
「ごめん、何?」
「選択科目だよ。ヨシノは、今年、何を選ぶの? それにやっぱりAレベルを受けるの?」
「ああ、早期受験は中止。まぁ、IGCSEはオールAを取れたから、選択科目は受験と関係ない、やりたいやつを選ぶよ」
「本当?」
ぱぁっと明るく瞳を輝かせて笑顔になったクリスに、吉野も微笑み返した。
「うん。だから、環境と生物にする」
笑顔になったのも束の間、クリスはがっがりした顔で、はぁと大きくため息をついた。
「音楽は取らないの?」
「楽譜、読めないもの。それに、今年は強制じゃないだろ?」
「演劇が必修だよ、今年度は」
げっと、しかめっ面をする吉野を見て吹き出して、「今から、楽しみだね」とクリスはにこにこと嬉しそうに笑った。
吉野は、さも嫌そうに、「面倒くせぇ……」と呟き、ベッドにゴロリと横になる。
「面倒くさいよ、ほんと――。つまんねぇ――」
「何て言ったの?」
吉野の、イライラした険悪な空気を感じ取ったのか、クリスが不安そうに訊き返した。
「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」
ぼんやりと天井を眺め、吉野はため息交じりに笑って呟いた。そして、一瞬のうちにガバッと起き上がると、「俺、今年度は忙しいんだよ。ぼんやりしている場合じゃなかった」ともう一度机に着いてパソコンの電源を入れた。
その背後から覗き込み、拡大された龍笛頭部の、紫地に白い染め抜き文様の入った錦の詳細画像を目にしたクリスは、「あれ、この文様ってきみの笛?」とすっとんきょうな声をあげた。
「似ているけれど、違うよ。俺のは『紫雲』、これは『流泉』。兄弟笛だ」
吉野は画面から目を離さずに、じっと眉をひそめたまま答える。
吉野のその厳しい顔つきに、「なんて書いてあるの?」とクリスは神妙な声音で訊ねた。
「ん? 大したことじゃない。この笛の謂われだよ。特別な雨乞いの儀式の時にだけ使用されたって」
「雨乞いって?」
「昔、雨が降らなくて干ばつで飢饉が起こった時に、雨が降るようにって神仏に祈る儀式を行っていたんだよ」
「へぇー、それで雨が降るんだったらサウードが欲しがりそうだね」
くるくると目を丸くして話すクリスに、吉野は思わず釣られて微笑む。
「そうだな。でも砂漠じゃ、雨乞いくらいじゃ追いつかないだろうな」とそう言って、パソコンの電源を落とした。
「あれ、切っちゃうの? もっと見たかったのに」
クリスは残念そうに真っ暗な画面に目を遣ると、唇を尖らせて不満気に抗議する。
「きみの笛もその儀式のための笛なの?」
尚も未練がましく話し続けるクリスに、吉野は困ったように笑って言った。
「俺のは、違うよ。――飢饉で亡くなった人たちを弔うために使われたらしい。『紫雲』てのは、徳の高い偉い奴が死んだ時にあの世から迎えに来る雲なんだけど、この笛を吹いて死者を弔えば、別に普通の奴でも、紫の雲に乗った仏が迎えに来てくれるって言い伝えがあるんだって」
「面白いねぇ。そんな伝説のある楽器だなんて、なんだかワクワクするよ」
瞳を輝かせて表情豊かに話すクリスに、吉野は少し悪戯っぽく笑い「そうか? 怖くないの?」と声を潜める。
「なんで?」
逆にクリスは、不思議そうに訊き返す。
「曰くつきの楽器なんて、面倒だぞ。こいつの扱いも大変なんだ。他の奴に絶対に触らせるな、とか、雑に扱うと呪われるとか、ガキの頃から散々に脅かされてきたもんな。だいたいうちじゃ、演奏する奴より、お笛さまの方が偉いんだぞ。笛が主人で俺は下僕。笛が俺を選んだんだって」
「羨ましいよ、楽器に選ばれるなんて――」
ほう、とため息をつくクリスを吉野は呆れたように笑った。
問題は、曰くつきってことじゃなくて、こっちのやつが重要美術品だってことだけどな。こっちがそうだってからには、俺の笛もそれに準ずるものだってことだろ? 海外持ち出し禁止、なんじゃないか――?
吉野は、そんな事は取り立てて意に介さない飛鳥を恨み、ため息をつく。
久しぶりにこの笛の銘を言われて、ほとんど忘れかけていた『紫雲』という銘と野辺送りの笛を検索に掛けてみたら、どんぴしゃりと飛鳥の言い渋っていた出所までが判ってしまった。
なんだって、うちじゃ母さんの実家の話はタブーなんだ?
と、吉野はぼんやりと、横で懸命に喋っているクリスの話を、聞くでもなく聞き流しながら物思いに耽っていた。
「だから、ねぇ、ヨシノ!」
はっと我に返って、クリスに顔を向ける。
「ごめん、何?」
「選択科目だよ。ヨシノは、今年、何を選ぶの? それにやっぱりAレベルを受けるの?」
「ああ、早期受験は中止。まぁ、IGCSEはオールAを取れたから、選択科目は受験と関係ない、やりたいやつを選ぶよ」
「本当?」
ぱぁっと明るく瞳を輝かせて笑顔になったクリスに、吉野も微笑み返した。
「うん。だから、環境と生物にする」
笑顔になったのも束の間、クリスはがっがりした顔で、はぁと大きくため息をついた。
「音楽は取らないの?」
「楽譜、読めないもの。それに、今年は強制じゃないだろ?」
「演劇が必修だよ、今年度は」
げっと、しかめっ面をする吉野を見て吹き出して、「今から、楽しみだね」とクリスはにこにこと嬉しそうに笑った。
吉野は、さも嫌そうに、「面倒くせぇ……」と呟き、ベッドにゴロリと横になる。
「面倒くさいよ、ほんと――。つまんねぇ――」
「何て言ったの?」
吉野の、イライラした険悪な空気を感じ取ったのか、クリスが不安そうに訊き返した。
「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」
ぼんやりと天井を眺め、吉野はため息交じりに笑って呟いた。そして、一瞬のうちにガバッと起き上がると、「俺、今年度は忙しいんだよ。ぼんやりしている場合じゃなかった」ともう一度机に着いてパソコンの電源を入れた。
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