胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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四章

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 夏の間中、吉野は目いっぱい遊び回り、飛鳥は見ている方が心配になるほどTSの開発に没頭した。

「理解に苦しむな」
 ヘンリーは小さくため息をついて、朝からずっとパソコンに向かっている飛鳥の背中に疑問を投げかけた。
「何?」
 モニターに向き合ったまま、飛鳥は訊き返す。
「これがきみ達の最良の状態?」
「吉野と僕のことなら、そうだよ」

 吉野は飛鳥が好きなことに没頭していると安心する。そして飛鳥は、吉野が吉野らしく遊び回ってくれているときが一番嬉しい。

「だって、吉野はまだまだ子どもだもの」
 飛鳥はタンっと最後のキーを叩くと、くるりと振り返った。


「終わり。ここでできる作業は全部終わったよ。次は、いよいよスイスだ」
 満面の笑みを浮かべる飛鳥に、ヘンリーも嬉しそうに微笑み返す。
「お疲れ様。何かお祝いをしよう。何がいいかな?」
「まずは、お茶を一杯」
 飛鳥の返事に、ヘンリーはクスリと笑って立ちあがった。

「それから?」
「――きみのヴァイオリンが聞きたい」
「かまわないよ。何がいい?」
「チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲」
 それまでの笑みを消して囁くように呟やかれた言葉に、ヘンリーは押し黙って飛鳥を見つめた。





 柔らかいクリーム色の壁際に沿う、アンティークの飾り棚に並べられた幾つものヴァイオリンの中からひとつを選び、ヘンリーは首に挟んで音を掻き鳴らす。
「後少し待って。調弦するから」

 飛鳥は頷いて、ゆっくりとティーカップを口に運ぶ。

「僕もきみに話があるんだ」
 軽くヴァイオリンを鳴らしながら、ヘンリーは飛鳥に向き合い尋ねた。
「先に言おうか? それとも曲が終わってからがいい?」
「先に話して。後からじゃ、冷静に聞けないかもしれないから」
 ヘンリーは、ヴァイオリンを下ろして飛鳥の向かいに腰かけた。


「きみのお祖父さまがハワード教授にきみ達を託されたのは、教授が、」
「ハッシュ関数の第一人者だから?」
 ヘンリーは苦笑し、「知っていたんだね。教授は、この国でもっとも国防省に影響力を持つ民間人だっていうこと」首を傾けて、飛鳥を不可思議げに見つめた。

「国のセキュリティー関連の要職を占めているのは、教授の教え子や、直接、間接的に多大な影響を受けている連中ばかりだよ。もし、きみが言いにくいのであれば――」
 飛鳥は目を伏せたまま首を横に振った。

「ありがとう、ヘンリー」
「やはり、教授は頼りたくないの?」
「教授のことは尊敬しているし、信頼もしているよ。でも、吉野を数学に縛りつけたくないんだ」
「でも教授のことも、切り札として取っておきたい――。そういうことだね?」
「――僕は、みんなが思っているよりもずっと、ずるくて卑怯な人間なんだよ」
 ヘンリーは、顔を伏せたまま自嘲的に言う飛鳥を優しく見つめ、「きみはただ、守るということを知っているだけだよ」と立ち上がり、ヴァイオリンを構えた。



「アスカ……。弾く前からそんな緊張した必死な形相で睨まれたら、弾くに弾けないよ」
 ヘンリーは苦笑して、一度は構えたヴァイオリンを下ろした。

「だって――」
 飛鳥は、膝に抱え込んだ明るいコーラルピンクのクッションをしっかりと握りしめ、唇を尖らせる。

「怖いなら、やめておくよ。僕だって、きみに泣かれるのは堪えるんだ」
「違うよ、あの時は。僕は本当に感動して泣いたんだよ」
 情けない顔で嗤うヘンリーに言い訳するように、飛鳥は慌てて捲し立てる。

「お祖父ちゃんと話ているみたいだった。あの映画みたいに、僕でもお祖父ちゃんの意思を継いでいくことができるんじゃないか、て、思えたんだよ。お祖父ちゃんは、医療用レーザーを開発していた時から、それが核開発に応用できることを知ってたんだ。僕が、そのことに気がついてることも知ってた。でも、何も言わなかった。後悔している、って僕に謝るんだ。モラルよりも先に技術を与えたことを、すまなかったって。僕は、お祖父ちゃんの志を継ぎたい。ヘンリー、お願い。僕に、お祖父ちゃんの声を聴かせて」

 おもむろにヘンリーがヴァイオリンを構え直すと、飛鳥はぎゅっと目を瞑り、歯を食い縛った。




「きみは、自分で自分の傷を開いているんだ」

 ヴァイオリンをローテーブルに置いて、クッションに顔を埋めてむせび泣く飛鳥の横に腰を下ろし、ヘンリーは呟いた。

「ヘンリー、ごめん」
「僕は、かまわないよ。こんなことでも、きみのトラウマの克服につながるのなら」

 ただ、きみには辛すぎるやり方なのではないか、と思うだけで――。

 と、小さく息をついたヘンリーに、飛鳥はくぐもった声で、とつとつと続けて言った。

「克服なんて一生できないよ。僕は、この痛みを抱えたまま生きるんだ。でも、この痛みと共により良く生きることを目指すことはできる。僕は、自分を、諦めたくないんだよ、ヘンリー」
「きみは、きみ自身が思っているよりも、ずっと強いよ」

 顔を伏せたままの飛鳥の髪をそっと撫でてやりながら、そう呟いた。


 きみのその強さが、僕を魅了してやまない。
 きみは、僕がどれほどきみを羨み、尊敬しているか、知らないのだろうね。そしてきっと、言っても信じてくれやしないんだ――。


 ヘンリーは自嘲的に嗤い、眉間に皺を寄せ、暖炉の上に置かれた父の写真に視線を移した。

 僕も、覚悟を決めなければ――。

「大学が始まる前にスイスの研究所に行こう。きみの夢は、僕の夢でもあるんだからね」

 飛鳥は、涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔をあげ、強く頷いた。

「ありがとう、ヘンリー。やるよ、世界征服だ」






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