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四章
贖罪1
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それは、奇妙な食卓だった。
静かなコンサバトリーには、ドーム型のガラス天井を打つ雨音だけがリズミカルに響いている。
大きく垂れ下がる常緑の南国植物に囲まれたテーブルで、ラタンのソファーにもたれ、遅い朝食に手をつけることもせず黙り込んだまま物思いに更けるヘンリーと、落ち着かない様子でベイクドビーンズをフォークでつついているだけのサラを、飛鳥は居たたまれない思いで見つめていた。
もう、なんて謝ったらいいのか判らないよ……。
と、俯いたまま考え込んでいた飛鳥は、意を決して顔をあげた。
「ごめん、ヘンリー。また吉野が勝手なことをして」
「僕が呼んだんだよ」
出鼻を挫かれ、唖然として見つめる飛鳥に、「きみを驚かせようと思って、黙っていたんだ」ヘンリーはちょっと申し訳なさそうに微笑んだ。
飛鳥はほっとしたように力を抜いて、小さく息をつく。
「それにしたって、そんな夜中に来るなんて……」
「誘ったのが遅かったからね、かえって申し訳なかったよ」
「でも、どうして急に?」
「今日からお盆だろう? きみ達にとって大切な宗教儀式なんだろう?」
ヘンリーは柔らかく微笑んで同意を求め、小首を傾げてみせる。
きょとんと呆けている飛鳥に、「ヨシノが色々と準備してきたそうだよ」とヘンリーは優しく目を細めて告げた。
「でも、ここは英国だよ」
飛鳥は顔をしかめて抗議するように唇を尖らせる。
「魂は千里を翔る、ていうだろ」
吉野が家政婦のメアリーと一緒にキッチンから戻ってきた。
「お待たせ」
吉野はお粥の入ったプレートを飛鳥の前に置き、自分も椅子をひいて腰かけた。
「ここのハーブ園、すごいな、まるで薬草園だ。せっかくだからハーブ粥にしてみたよ」
「サラが世話しているんだ」
「アーユルヴェーダの研究でもしているの?」
ヘンリーの言葉に吉野が興味深そうにサラを見ると、彼女は無表情のまま頷いた。
「へぇ、じゃ、……飛鳥、それ俺の。飛鳥のはこっち」
飛鳥が手に取ろうとしたコーヒーカップを取り返すと、吉野はガラスポットのハーブティーを新しいカップに注ぎ入れる。
「コーヒーがいい」
「今は胃が弱っているから駄目だ。微熱もあるし」
吉野は咎めるように、飛鳥を軽く睨む。
朝、目覚めたら横に吉野の顔があった。ベッドの縁で突っ伏したまま眠っている吉野を狐に摘ままれた気分で見ていたら、執事のマーカスさんが来て、吉野を起こして連れだした。てっきり不審者だと思われたんだと、慌てて、ぼやけてあまり役にもたたない頭をフル回転させて状況を理解しようとしていたら、ヘンリーが朝食に呼びにきた。
どうやら、吉野は真夜中過ぎてからこの屋敷に着いたらしい。
ヘンリーも、サラもそのことを知っているようだったので、取りあえず安堵した。朝食の席になかなか現れない吉野は、疲れて眠っているのかと思っていたら、ハーブ園と菜園をまわって飛鳥のための朝食を作ってくれていた。
飛鳥はぼんやりと、目の前に置かれた湯気の立つお粥を眺め、何日かぶりに、スプーンを握り一口、口にした。
吉野の味がする――。
何を作っても、ちゃんと吉野の味がする。お母さんと同じ味だ。
温もった胃からじんわり広がってゆく安心感で、涙が出そうになって、飛鳥は慌てて顔を伏せていた。
ヘンリーの着なくなったシャツとスラックスを身に着けて腰かける吉野を、メアリーは目を細めて眺めながら、「坊っちゃんのお洋服がお役にたてて良かったですね」と自慢げに微笑んでいる。
「あぁ、メアリーのお陰で助かったよ」
さっさと処分しろというのに、もったいない、と何でも取っておくメアリーは、ヘンリーの産まれたときからの服を全て大切に保管しているのだ。
ヘンリーは可笑しそうに笑いながら、「彼、食べ物と調味料しか持って来ていなかったんだ」とお粥を少しづつ食べている飛鳥に説明した。
「おがらと線香も持ってるよ」
メアリーの作ってくれた朝食を頬張りながら、吉野が口を挟む。
「本当にお盆のお迎えをするの?」
顔を上げ訝しむ飛鳥に、「ハワード教授だって毎年やってる、って言っていたぞ」と吉野は平然とした顔で答える。
「おがらと線香、教授に貰ったんだ。あの教授、よほど祖父ちゃんに会いたいんだな」
揃って黙りこみ、しんと静まり返った食卓に、トントンとリズミカルにガラスを叩く雨音と、吉野の使う、カチャカチャとしたかすかなナイフとフォークの音だけが響いている。
「吉野、教授の課題は?」
急に思い出したように、飛鳥が尋ねる。
「大丈夫。あんなもの時間の無駄でしかないから、取って置きの切り札を切ってきた」
吉野はにかっと笑うと、まったく手のつけられていないヘンリーの皿を眺め、「食べないの?」と真顔で尋ねた。
「食べるかい? それだけでは足りなさそうだ」
ヘンリーは苦笑して、自分の皿を吉野の前に押し遣る。
「吉野、何やったの?」
飛鳥が厳しい顔で吉野を凝視していた。
「教授に何やった、って訊いているんだよ!」
「手紙を送った。今日くらい教授の手元に着いているよ」
「何を書いたの?」
「祖父ちゃんの見つけた定理、証明抜きで送った。今頃は俺どころじゃなくなって、必死になって取り組んでいるよ」
空になった自分の皿を脇へ押しやり、ヘンリーの皿も平らげながら、吉野はキッと飛鳥を見返す。
「周りの連中を説得するためだって、下らない問題を毎日毎日やらされて、もう、うんざりなんだ。あいつらと祖父ちゃんじゃ、レベルが違いすぎる」
「吉野!」
声を荒げた飛鳥に、サラがびくりと震える。
「僕たちは席を外させてもらうよ。その方がいいだろう?」
サラの肩を抱いて立ちあがったヘンリーは、静かな口調で言い、「病人をそう興奮させるものじゃないよ」と吉野の頭をくしゃりと撫でた。
飛鳥はすっと顔色を変えて立ちあがり、瞳に後悔の色を湛えて謝った。
「ごめん、ヘンリー、それにサラも」
二人が立ち去った後、飛鳥は額を手で押さえて深くため息を吐いていた。
「頼むよ、吉野、お願いだから――」
言いかけて、飛鳥は急にえずいて口をぐっと押さえる。
「飛鳥!」
その呼び声と食器の割れる音に、戻りかけたヘンリーが急ぎ駆け戻ってきた。
乱れたテーブルクロスと、散乱した割れた食器の中に倒れている飛鳥に目を見張り、傍にうずくまる吉野を退けると、ヘンリーは飛鳥を抱えあげた。
「きみには任せられない」
冷たく言い放ち、そのままコンサバトリーを後にした。
なすすべもなく悔しげに唇を噛んだ吉野は、一瞬の躊躇の後、「そんなわけいくかよ」と開いたままの扉を睨みつけ、ヘンリーの後を追った。
静かなコンサバトリーには、ドーム型のガラス天井を打つ雨音だけがリズミカルに響いている。
大きく垂れ下がる常緑の南国植物に囲まれたテーブルで、ラタンのソファーにもたれ、遅い朝食に手をつけることもせず黙り込んだまま物思いに更けるヘンリーと、落ち着かない様子でベイクドビーンズをフォークでつついているだけのサラを、飛鳥は居たたまれない思いで見つめていた。
もう、なんて謝ったらいいのか判らないよ……。
と、俯いたまま考え込んでいた飛鳥は、意を決して顔をあげた。
「ごめん、ヘンリー。また吉野が勝手なことをして」
「僕が呼んだんだよ」
出鼻を挫かれ、唖然として見つめる飛鳥に、「きみを驚かせようと思って、黙っていたんだ」ヘンリーはちょっと申し訳なさそうに微笑んだ。
飛鳥はほっとしたように力を抜いて、小さく息をつく。
「それにしたって、そんな夜中に来るなんて……」
「誘ったのが遅かったからね、かえって申し訳なかったよ」
「でも、どうして急に?」
「今日からお盆だろう? きみ達にとって大切な宗教儀式なんだろう?」
ヘンリーは柔らかく微笑んで同意を求め、小首を傾げてみせる。
きょとんと呆けている飛鳥に、「ヨシノが色々と準備してきたそうだよ」とヘンリーは優しく目を細めて告げた。
「でも、ここは英国だよ」
飛鳥は顔をしかめて抗議するように唇を尖らせる。
「魂は千里を翔る、ていうだろ」
吉野が家政婦のメアリーと一緒にキッチンから戻ってきた。
「お待たせ」
吉野はお粥の入ったプレートを飛鳥の前に置き、自分も椅子をひいて腰かけた。
「ここのハーブ園、すごいな、まるで薬草園だ。せっかくだからハーブ粥にしてみたよ」
「サラが世話しているんだ」
「アーユルヴェーダの研究でもしているの?」
ヘンリーの言葉に吉野が興味深そうにサラを見ると、彼女は無表情のまま頷いた。
「へぇ、じゃ、……飛鳥、それ俺の。飛鳥のはこっち」
飛鳥が手に取ろうとしたコーヒーカップを取り返すと、吉野はガラスポットのハーブティーを新しいカップに注ぎ入れる。
「コーヒーがいい」
「今は胃が弱っているから駄目だ。微熱もあるし」
吉野は咎めるように、飛鳥を軽く睨む。
朝、目覚めたら横に吉野の顔があった。ベッドの縁で突っ伏したまま眠っている吉野を狐に摘ままれた気分で見ていたら、執事のマーカスさんが来て、吉野を起こして連れだした。てっきり不審者だと思われたんだと、慌てて、ぼやけてあまり役にもたたない頭をフル回転させて状況を理解しようとしていたら、ヘンリーが朝食に呼びにきた。
どうやら、吉野は真夜中過ぎてからこの屋敷に着いたらしい。
ヘンリーも、サラもそのことを知っているようだったので、取りあえず安堵した。朝食の席になかなか現れない吉野は、疲れて眠っているのかと思っていたら、ハーブ園と菜園をまわって飛鳥のための朝食を作ってくれていた。
飛鳥はぼんやりと、目の前に置かれた湯気の立つお粥を眺め、何日かぶりに、スプーンを握り一口、口にした。
吉野の味がする――。
何を作っても、ちゃんと吉野の味がする。お母さんと同じ味だ。
温もった胃からじんわり広がってゆく安心感で、涙が出そうになって、飛鳥は慌てて顔を伏せていた。
ヘンリーの着なくなったシャツとスラックスを身に着けて腰かける吉野を、メアリーは目を細めて眺めながら、「坊っちゃんのお洋服がお役にたてて良かったですね」と自慢げに微笑んでいる。
「あぁ、メアリーのお陰で助かったよ」
さっさと処分しろというのに、もったいない、と何でも取っておくメアリーは、ヘンリーの産まれたときからの服を全て大切に保管しているのだ。
ヘンリーは可笑しそうに笑いながら、「彼、食べ物と調味料しか持って来ていなかったんだ」とお粥を少しづつ食べている飛鳥に説明した。
「おがらと線香も持ってるよ」
メアリーの作ってくれた朝食を頬張りながら、吉野が口を挟む。
「本当にお盆のお迎えをするの?」
顔を上げ訝しむ飛鳥に、「ハワード教授だって毎年やってる、って言っていたぞ」と吉野は平然とした顔で答える。
「おがらと線香、教授に貰ったんだ。あの教授、よほど祖父ちゃんに会いたいんだな」
揃って黙りこみ、しんと静まり返った食卓に、トントンとリズミカルにガラスを叩く雨音と、吉野の使う、カチャカチャとしたかすかなナイフとフォークの音だけが響いている。
「吉野、教授の課題は?」
急に思い出したように、飛鳥が尋ねる。
「大丈夫。あんなもの時間の無駄でしかないから、取って置きの切り札を切ってきた」
吉野はにかっと笑うと、まったく手のつけられていないヘンリーの皿を眺め、「食べないの?」と真顔で尋ねた。
「食べるかい? それだけでは足りなさそうだ」
ヘンリーは苦笑して、自分の皿を吉野の前に押し遣る。
「吉野、何やったの?」
飛鳥が厳しい顔で吉野を凝視していた。
「教授に何やった、って訊いているんだよ!」
「手紙を送った。今日くらい教授の手元に着いているよ」
「何を書いたの?」
「祖父ちゃんの見つけた定理、証明抜きで送った。今頃は俺どころじゃなくなって、必死になって取り組んでいるよ」
空になった自分の皿を脇へ押しやり、ヘンリーの皿も平らげながら、吉野はキッと飛鳥を見返す。
「周りの連中を説得するためだって、下らない問題を毎日毎日やらされて、もう、うんざりなんだ。あいつらと祖父ちゃんじゃ、レベルが違いすぎる」
「吉野!」
声を荒げた飛鳥に、サラがびくりと震える。
「僕たちは席を外させてもらうよ。その方がいいだろう?」
サラの肩を抱いて立ちあがったヘンリーは、静かな口調で言い、「病人をそう興奮させるものじゃないよ」と吉野の頭をくしゃりと撫でた。
飛鳥はすっと顔色を変えて立ちあがり、瞳に後悔の色を湛えて謝った。
「ごめん、ヘンリー、それにサラも」
二人が立ち去った後、飛鳥は額を手で押さえて深くため息を吐いていた。
「頼むよ、吉野、お願いだから――」
言いかけて、飛鳥は急にえずいて口をぐっと押さえる。
「飛鳥!」
その呼び声と食器の割れる音に、戻りかけたヘンリーが急ぎ駆け戻ってきた。
乱れたテーブルクロスと、散乱した割れた食器の中に倒れている飛鳥に目を見張り、傍にうずくまる吉野を退けると、ヘンリーは飛鳥を抱えあげた。
「きみには任せられない」
冷たく言い放ち、そのままコンサバトリーを後にした。
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