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四章
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「逃げたみたいだね」
アーネストは三階のベランダの手摺に結ばれたロープに目をやると、手摺から身を乗り出して、ケム川に面した狭い裏道を見下ろした。とうぜん、そこに吉野の姿はすでにない。
「予想を裏切りませんね」
ウィリアムも苦笑しながら手摺に両肘をつく。
通行人が、フラットのレンガ造りの壁面に垂れ下がったロープの先を掴んで、「泥棒ですか?」と大声で訊ねている。「ご心配なく!」と笑顔で返してロープを引き上げた。
アーネストはスマートフォンを取り出して、「行先はロンドンだね。時計は身につけたままだから、雲隠れするつもりではないみたいだ」と吉野の位置情報を確認して、「課題は終わらせてあったし、今日は休日ってことで見逃してあげるよ。教授に謝っておいて」と続けてそれだけ言い渡すと、さっさとベランダを後にした。
フレデリックからの報告で、自分が監視されていることを当の本人は知っている、ということをアーネストも認識している。自分の立場を理解した上での行動であるならば、あまり過剰に縛りつけるのも良くない、と考えたのだ。
吉野には、「ケンブリッジの早期受験を諦めさせろ」とのヘンリーの言いつけ通り、ほぼフラットに閉じ込めるようにしてハワード教授の指導を受けさせてきた。案の定、初めのうちは素直に従っていた吉野も日が経つにつれて苛立ちを見せ始め、「毎日、毎日こんなことしていられるか」と愚痴るようになっていた。
それでも今日までは、嫌々ながらも言われた通りに課題をこなしてきたのに……。
吉野は基本的には数学が嫌いなんだから、数学科にいく目的自体がそもそも間違っている。と言う飛鳥と、神の与えたもうた才能を伸ばすのが人の務め、というハワード教授のどちらが正しいのか、ウィリアムには判断がつかない。
ただ、強制すれば吉野は逃げ出す、というヘンリーの思惑に対して、ウィリアムには、吉野が一度決めたことをどんなに嫌であろうと投げ出すとは思えなかった。
「たまには、休息も必要か――」
足元の吉野のロープを眺め、ウィリアムは苦笑を漏らすしかない。
ロンドン、キングスクロス駅に降り立った吉野は、遥か頭上にあるアーチ型アーケードから透ける濁った灰色の空を眺め、眉をしかめていた。
「フレッド、アレンはロンドンにいるって言ってただろ? どこのホテル?」
携帯電話を片手に早口で要件を告げる。通話を切り、すぐに場所の検索をかけた吉野は、なんだここ、ヘンリーのアパートメントのすぐ近くじゃないか……。と、足早に隣接する地下鉄駅に向かった。
ナイツブリッジにある五つ星ホテルの、シックなオリエンタル趣味で統一されたラウンジソファーにふんぞり返るように腰かけた吉野を、時折、他の宿泊客や従業員が、チラチラと眉をしかめて通り過ぎていく。
落ちついた明るい灰紫の壁一面に描かれた木蓮の花を背に腰かける彼は、よれたTシャツ、破れたジーンズにスニーカー、そして足下に置かれた小さなリュックまで、夏になると急に湧き出るように増えるバックパッカーそのものだ。明らかにこの高級ホテルにはそぐわず、浮いている。それなのに、あまりにも堂々とくつろぐその姿を見ていると、洗練されたこのホテルに野生動物が一匹紛れ混んでいるような錯覚に陥り、なぜだか惹きつけられ、微笑ましくさえ思えてくるのだ。
「遅くなって、ごめんなさい」
アレンの声に、吉野は瞑っていた瞼を持ち上げる。夏だというのに変わらずスーツにネクタイの几帳面な姿が、ぎこちなく佇んでいる。
「ヘンリーの家ってどこにあるんだ? 正確な場所、教えて」
吉野は要点だけ苛立った声で訊ねた。
「え?」
フレデリックからの電話と話が違う。彼からは、吉野が、以前アレンが誘って断った今晩の世界的なフルート奏者の演奏するコンサートに行けることになったから、まだチケットはあるか、と尋ねてきた、もしないなら、自分の分を譲るから一緒に行くといい、彼はこれからきみのホテルに向かうそうだから、と言われた。だから外出先から大急ぎで戻ってきたのに。
「コンサートは?」
アレンが思わず訊ねると、吉野は更に苛立たしげに唇を歪めた。
「お前の返答次第。教えてくれるの?」
「そりゃ、かまわないけれど……」
きつい視線を向けたまま、吉野は顎をしゃくってアレンに座るように促している。いわれるまま、向いのソファーに腰を下ろす。
「でも、先に兄に言った方がいいよ。僕も一度訪ねたことがあるのだけど、門前払いだった。まぁ、きみと僕とじゃ、比べられるものでもないけれど――」
アレンは自嘲的に嗤い、手帳を取り出すとサラサラとペンを走らせ、ページを破って吉野に差し出した。
「これが住所。それから、この地図の橋のところが門。ここから一本道をずっと進んでいくと屋敷に着くよ。この辺りはインターネットじゃ表示されないんだ。たいてい、部外者はこの門で追い払われる。コズモスが独立してから、セキュリティーがすごく厳しくなっているんだ。もし行くのなら変な場所から迷い込まないように気をつけて。敷地内をぐるりと高圧電流が張り巡らされているから」
吉野はメモを受け取ると、やっと不機嫌な顔を崩してにっこりと笑った。無口な奴だと思っていたアレンが、すらすらとよどみなく喋っていることが新鮮に思えた。立て板に水、という感じは否めないが――。
「でも、どうして?」
「飛鳥に急用ができた。でも、俺がいると飛鳥が仕事に集中できないから来るなって、言われてるんだ。いくら調べても屋敷の場所は出てこないし、教えてもらえて助かったよ」
くだけた声音に、アレンも、ほっとしたように脱力して微笑んだ。
「コンサート、一緒に行ってくれる? クリスも、フレッドも来るよ。久しぶりだし、みんなで一緒に食事してから行こうって」
「あ、悪い。俺、お前らのドレスコードに合う服じゃない」
「そんなもの、買えばいいじゃないか」
眉をしかめる吉野を怪訝そうに眺め、アレンは言い足した。
「僕が払うよ。僕が誘ったんだし」
「いいよ、俺、人から何か貰うのって好きじゃないんだ」
吉野はアレンの背後に控えるボディーガードの一方に目線を向けると、「それなら、お前のボディーガードを一人、一時間ばかし貸してくれないか? ここのホテル、カジノがあっただろう?」とにんまりと笑う。
意味が判らずきょとんとしたまま、とりあえず頷いて了承したアレンは、背後に顔を向け、無表情で立つまだ年若いボディーガードを手招きして呼び寄せた。吉野は腰掛けたまま上半身をよせ、その男の耳許で囁いた。
「なぁ、俺の代わりに、ここのカジノでひと稼ぎしてきてくれないか? 指示は俺が出すからさ――」
アーネストは三階のベランダの手摺に結ばれたロープに目をやると、手摺から身を乗り出して、ケム川に面した狭い裏道を見下ろした。とうぜん、そこに吉野の姿はすでにない。
「予想を裏切りませんね」
ウィリアムも苦笑しながら手摺に両肘をつく。
通行人が、フラットのレンガ造りの壁面に垂れ下がったロープの先を掴んで、「泥棒ですか?」と大声で訊ねている。「ご心配なく!」と笑顔で返してロープを引き上げた。
アーネストはスマートフォンを取り出して、「行先はロンドンだね。時計は身につけたままだから、雲隠れするつもりではないみたいだ」と吉野の位置情報を確認して、「課題は終わらせてあったし、今日は休日ってことで見逃してあげるよ。教授に謝っておいて」と続けてそれだけ言い渡すと、さっさとベランダを後にした。
フレデリックからの報告で、自分が監視されていることを当の本人は知っている、ということをアーネストも認識している。自分の立場を理解した上での行動であるならば、あまり過剰に縛りつけるのも良くない、と考えたのだ。
吉野には、「ケンブリッジの早期受験を諦めさせろ」とのヘンリーの言いつけ通り、ほぼフラットに閉じ込めるようにしてハワード教授の指導を受けさせてきた。案の定、初めのうちは素直に従っていた吉野も日が経つにつれて苛立ちを見せ始め、「毎日、毎日こんなことしていられるか」と愚痴るようになっていた。
それでも今日までは、嫌々ながらも言われた通りに課題をこなしてきたのに……。
吉野は基本的には数学が嫌いなんだから、数学科にいく目的自体がそもそも間違っている。と言う飛鳥と、神の与えたもうた才能を伸ばすのが人の務め、というハワード教授のどちらが正しいのか、ウィリアムには判断がつかない。
ただ、強制すれば吉野は逃げ出す、というヘンリーの思惑に対して、ウィリアムには、吉野が一度決めたことをどんなに嫌であろうと投げ出すとは思えなかった。
「たまには、休息も必要か――」
足元の吉野のロープを眺め、ウィリアムは苦笑を漏らすしかない。
ロンドン、キングスクロス駅に降り立った吉野は、遥か頭上にあるアーチ型アーケードから透ける濁った灰色の空を眺め、眉をしかめていた。
「フレッド、アレンはロンドンにいるって言ってただろ? どこのホテル?」
携帯電話を片手に早口で要件を告げる。通話を切り、すぐに場所の検索をかけた吉野は、なんだここ、ヘンリーのアパートメントのすぐ近くじゃないか……。と、足早に隣接する地下鉄駅に向かった。
ナイツブリッジにある五つ星ホテルの、シックなオリエンタル趣味で統一されたラウンジソファーにふんぞり返るように腰かけた吉野を、時折、他の宿泊客や従業員が、チラチラと眉をしかめて通り過ぎていく。
落ちついた明るい灰紫の壁一面に描かれた木蓮の花を背に腰かける彼は、よれたTシャツ、破れたジーンズにスニーカー、そして足下に置かれた小さなリュックまで、夏になると急に湧き出るように増えるバックパッカーそのものだ。明らかにこの高級ホテルにはそぐわず、浮いている。それなのに、あまりにも堂々とくつろぐその姿を見ていると、洗練されたこのホテルに野生動物が一匹紛れ混んでいるような錯覚に陥り、なぜだか惹きつけられ、微笑ましくさえ思えてくるのだ。
「遅くなって、ごめんなさい」
アレンの声に、吉野は瞑っていた瞼を持ち上げる。夏だというのに変わらずスーツにネクタイの几帳面な姿が、ぎこちなく佇んでいる。
「ヘンリーの家ってどこにあるんだ? 正確な場所、教えて」
吉野は要点だけ苛立った声で訊ねた。
「え?」
フレデリックからの電話と話が違う。彼からは、吉野が、以前アレンが誘って断った今晩の世界的なフルート奏者の演奏するコンサートに行けることになったから、まだチケットはあるか、と尋ねてきた、もしないなら、自分の分を譲るから一緒に行くといい、彼はこれからきみのホテルに向かうそうだから、と言われた。だから外出先から大急ぎで戻ってきたのに。
「コンサートは?」
アレンが思わず訊ねると、吉野は更に苛立たしげに唇を歪めた。
「お前の返答次第。教えてくれるの?」
「そりゃ、かまわないけれど……」
きつい視線を向けたまま、吉野は顎をしゃくってアレンに座るように促している。いわれるまま、向いのソファーに腰を下ろす。
「でも、先に兄に言った方がいいよ。僕も一度訪ねたことがあるのだけど、門前払いだった。まぁ、きみと僕とじゃ、比べられるものでもないけれど――」
アレンは自嘲的に嗤い、手帳を取り出すとサラサラとペンを走らせ、ページを破って吉野に差し出した。
「これが住所。それから、この地図の橋のところが門。ここから一本道をずっと進んでいくと屋敷に着くよ。この辺りはインターネットじゃ表示されないんだ。たいてい、部外者はこの門で追い払われる。コズモスが独立してから、セキュリティーがすごく厳しくなっているんだ。もし行くのなら変な場所から迷い込まないように気をつけて。敷地内をぐるりと高圧電流が張り巡らされているから」
吉野はメモを受け取ると、やっと不機嫌な顔を崩してにっこりと笑った。無口な奴だと思っていたアレンが、すらすらとよどみなく喋っていることが新鮮に思えた。立て板に水、という感じは否めないが――。
「でも、どうして?」
「飛鳥に急用ができた。でも、俺がいると飛鳥が仕事に集中できないから来るなって、言われてるんだ。いくら調べても屋敷の場所は出てこないし、教えてもらえて助かったよ」
くだけた声音に、アレンも、ほっとしたように脱力して微笑んだ。
「コンサート、一緒に行ってくれる? クリスも、フレッドも来るよ。久しぶりだし、みんなで一緒に食事してから行こうって」
「あ、悪い。俺、お前らのドレスコードに合う服じゃない」
「そんなもの、買えばいいじゃないか」
眉をしかめる吉野を怪訝そうに眺め、アレンは言い足した。
「僕が払うよ。僕が誘ったんだし」
「いいよ、俺、人から何か貰うのって好きじゃないんだ」
吉野はアレンの背後に控えるボディーガードの一方に目線を向けると、「それなら、お前のボディーガードを一人、一時間ばかし貸してくれないか? ここのホテル、カジノがあっただろう?」とにんまりと笑う。
意味が判らずきょとんとしたまま、とりあえず頷いて了承したアレンは、背後に顔を向け、無表情で立つまだ年若いボディーガードを手招きして呼び寄せた。吉野は腰掛けたまま上半身をよせ、その男の耳許で囁いた。
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