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四章
始まり1
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落ちついたこぢんまりとした村を抜け、石造りの橋を渡った。ところどころ樹々の立ち並ぶなだらかな丘陵を超えると、広々とした牧草地に出た。研究所らしき建物も、屋敷らしいものも、未だ見えない。
飛鳥はハイヤーの座席隣に腰かけるヘンリーに、そっと尋ねるような視線を向けた。眠っているかと思っていたのに、その視線を感じ取ったかのように目を開けて、「もうすぐだよ。もう、敷地内に入っているからね」とヘンリーは柔らかく微笑んだ。
「こんな田舎で驚いた?」
車窓を流れる緑に目をやり、のんびりとした口調で話す彼は、いつもにもまして悠然としていて、飛鳥の脳裏にふと、学生の頃、彼が自らを称して言った『領主様のお坊ちゃん』という言葉が過ぎる。
彼は、人の上に立つことを義務づけられそのための教育を受けてきた、自分とは住んでいる世界が違う、と否定し続けてきた友人だった。
その彼に助けられ、彼の傍らに未だにいて、こうして同じ車で、彼の生まれ育った家に向かっている。
飛鳥は運命の皮肉に苦笑しながら、「僕は都会の下町育ちだからね、こんな広々とした場所で育ったきみが、羨ましいよ」とヘンリーの視線の先にある、延々と続く稜線を眺める。
「でも母は、こんな田舎の山奥で育ったらしいんだ。僕も吉野も、母の故郷に行ったことはないけれどね。だからかな、吉野は木を見れば登りたがるし、川や池を見ると泳ぎたがるんだ。母から受け継いだ血が騒ぐんだよ、きっと。きみは、ここでどんなふうに過ごしていたの?」
「僕も同じだよ。木登りしたり、池や川で泳いだりしたよ。父は仕事で忙しくて、たまに屋敷にいる時でもそんなことをするようなタイプではなかったけれど、夏休みに遊びにきてくれる叔父に、いろんなことを教わったよ。家庭教師の目を盗んで連れ出して下さるのを、いつも心待ちにしていた」
ヘンリーは懐かしそうに目を細めた。
「インド支社にいらっしゃるっていう?」
「そう。でも、今度CEOに就任されるからね、戻ってきて下さるんだ」
嬉しそうに話すヘンリーを、飛鳥は少しばかり驚いた心持ちで眺めた。こんなふうに、好意的な感情を露わにして他人のことを話す彼は、見たことがなかった。
ここは、本当に彼が安心して過ごせる場所なんだ――。
ロンドンの彼のフラットでさえ見せたことのない、柔らかく、くつろいだ彼の空気に、飛鳥も触発されたように微笑んだ。
「きみにとって、いいように動いているんだね」
何気なく口にした一言に、ヘンリーは一瞬、目に険を宿し、「そうだね、そう願いたいよ」と皮肉気に呟く。
またしばらく沈黙が続く。もうすぐだ、と言われたわりに、それらしき建物は見えない。変わらない景色に退屈してきたころ、ヘンリーが口を開いた。
「もう着くよ」
その言葉のとおり、橋を渡り、林の中を通る一本道を大きく左に曲がったとたん、視界が開けて眼下に壮麗な屋敷が現れた。広大なフォーマルガーデンの綺麗に整備された生け垣の向こうに、その屋敷は優雅に佇んでいたのだ。
うゎ、ヘンリーそのものじゃないか――。
飛鳥は、ひきつった顔を隠すように口許を押さえる。
だが、やっと見えてきたとはいえ、ここからがまた永遠のように長い。このままたどり着かないのではないかと思えるほど果てしない道中では、漠然と夢のように思えていた、これからシューニヤに会う、という事実が、いきなり現実という形をまとって飛鳥に迫っていた。こんなお城に住んでいる人だなんて、想像すらしていなかった。白い壁の研究室に、白衣のシューニヤという、勝手な妄想が音を立てて崩れていた。
ヘンリーの家なんだから、当たり前じゃないか。
彼の持つイメージそのままのなのに、なぜか念頭になかった時代がかった屋敷と、テクノロジーの最先端を行くシューニアのイメージが、ドロドロの闇鍋をつつき廻しているように、飛鳥の中で不快な感触を募らせていた。
屋敷の車寄せに停まった時には、飛鳥は緊張し過ぎてすっかり気分が悪くなっていた。
胃がムカムカする……。
青ざめた顔で、ギクシャクと車を下りた時、
「ヘンリー!」
と、甲高い声と同時に重厚な玄関の扉が開いて、赤い民族衣装を着た少女が駆けよってきた。
「ただいま!」とヘンリーはその少女を軽々と高く抱き上げる。
「ちゃんと食べている? また軽くなっている」
「変わらないわよ」
少女はヘンリーの首に腕を回し、首だけ捻って飛鳥に顔を向けた。
「お姫様のご所望どおり、彼を連れてきたよ」
ヘンリーはそっと少女を床に下ろし、飛鳥に歩み寄った。
「アスカ、彼女がサラ・スミス。僕の妹だよ」
大きく目を見開いて茫然と立ち尽くす飛鳥の肩に手を置いて、今まで誰にも見せたことのない宝物を初めて友人に見せるのだ、とばかりに誇らしげにその小さな少女を紹介する。
「ヘンリー、ごめん。吐きそう――」
飛鳥は、口を押えて、その場にうずくまっていた。
飛鳥はハイヤーの座席隣に腰かけるヘンリーに、そっと尋ねるような視線を向けた。眠っているかと思っていたのに、その視線を感じ取ったかのように目を開けて、「もうすぐだよ。もう、敷地内に入っているからね」とヘンリーは柔らかく微笑んだ。
「こんな田舎で驚いた?」
車窓を流れる緑に目をやり、のんびりとした口調で話す彼は、いつもにもまして悠然としていて、飛鳥の脳裏にふと、学生の頃、彼が自らを称して言った『領主様のお坊ちゃん』という言葉が過ぎる。
彼は、人の上に立つことを義務づけられそのための教育を受けてきた、自分とは住んでいる世界が違う、と否定し続けてきた友人だった。
その彼に助けられ、彼の傍らに未だにいて、こうして同じ車で、彼の生まれ育った家に向かっている。
飛鳥は運命の皮肉に苦笑しながら、「僕は都会の下町育ちだからね、こんな広々とした場所で育ったきみが、羨ましいよ」とヘンリーの視線の先にある、延々と続く稜線を眺める。
「でも母は、こんな田舎の山奥で育ったらしいんだ。僕も吉野も、母の故郷に行ったことはないけれどね。だからかな、吉野は木を見れば登りたがるし、川や池を見ると泳ぎたがるんだ。母から受け継いだ血が騒ぐんだよ、きっと。きみは、ここでどんなふうに過ごしていたの?」
「僕も同じだよ。木登りしたり、池や川で泳いだりしたよ。父は仕事で忙しくて、たまに屋敷にいる時でもそんなことをするようなタイプではなかったけれど、夏休みに遊びにきてくれる叔父に、いろんなことを教わったよ。家庭教師の目を盗んで連れ出して下さるのを、いつも心待ちにしていた」
ヘンリーは懐かしそうに目を細めた。
「インド支社にいらっしゃるっていう?」
「そう。でも、今度CEOに就任されるからね、戻ってきて下さるんだ」
嬉しそうに話すヘンリーを、飛鳥は少しばかり驚いた心持ちで眺めた。こんなふうに、好意的な感情を露わにして他人のことを話す彼は、見たことがなかった。
ここは、本当に彼が安心して過ごせる場所なんだ――。
ロンドンの彼のフラットでさえ見せたことのない、柔らかく、くつろいだ彼の空気に、飛鳥も触発されたように微笑んだ。
「きみにとって、いいように動いているんだね」
何気なく口にした一言に、ヘンリーは一瞬、目に険を宿し、「そうだね、そう願いたいよ」と皮肉気に呟く。
またしばらく沈黙が続く。もうすぐだ、と言われたわりに、それらしき建物は見えない。変わらない景色に退屈してきたころ、ヘンリーが口を開いた。
「もう着くよ」
その言葉のとおり、橋を渡り、林の中を通る一本道を大きく左に曲がったとたん、視界が開けて眼下に壮麗な屋敷が現れた。広大なフォーマルガーデンの綺麗に整備された生け垣の向こうに、その屋敷は優雅に佇んでいたのだ。
うゎ、ヘンリーそのものじゃないか――。
飛鳥は、ひきつった顔を隠すように口許を押さえる。
だが、やっと見えてきたとはいえ、ここからがまた永遠のように長い。このままたどり着かないのではないかと思えるほど果てしない道中では、漠然と夢のように思えていた、これからシューニヤに会う、という事実が、いきなり現実という形をまとって飛鳥に迫っていた。こんなお城に住んでいる人だなんて、想像すらしていなかった。白い壁の研究室に、白衣のシューニヤという、勝手な妄想が音を立てて崩れていた。
ヘンリーの家なんだから、当たり前じゃないか。
彼の持つイメージそのままのなのに、なぜか念頭になかった時代がかった屋敷と、テクノロジーの最先端を行くシューニアのイメージが、ドロドロの闇鍋をつつき廻しているように、飛鳥の中で不快な感触を募らせていた。
屋敷の車寄せに停まった時には、飛鳥は緊張し過ぎてすっかり気分が悪くなっていた。
胃がムカムカする……。
青ざめた顔で、ギクシャクと車を下りた時、
「ヘンリー!」
と、甲高い声と同時に重厚な玄関の扉が開いて、赤い民族衣装を着た少女が駆けよってきた。
「ただいま!」とヘンリーはその少女を軽々と高く抱き上げる。
「ちゃんと食べている? また軽くなっている」
「変わらないわよ」
少女はヘンリーの首に腕を回し、首だけ捻って飛鳥に顔を向けた。
「お姫様のご所望どおり、彼を連れてきたよ」
ヘンリーはそっと少女を床に下ろし、飛鳥に歩み寄った。
「アスカ、彼女がサラ・スミス。僕の妹だよ」
大きく目を見開いて茫然と立ち尽くす飛鳥の肩に手を置いて、今まで誰にも見せたことのない宝物を初めて友人に見せるのだ、とばかりに誇らしげにその小さな少女を紹介する。
「ヘンリー、ごめん。吐きそう――」
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